R6年能登半島地震の影響でお亡くになられた方々に、心から御冥福をお祈り申し上げると共に、被災者の方々にお見舞いを申し上げます。

又、羽田空港での航空機衝突事故で、亡くなられた自衛隊の方々にも哀悼の意を表します。



被災者の方々が水でお困りの状況でラーメン記事は自粛致します。


今晩は!

どうでもいいヨタ噺の時間ですよ。

ご家庭や職場でチョットしたネタ噺をお届け!


箱根駅伝。

青山学院が圧勝で幕を閉じましたね。



過去の箱根駅伝には、NHK朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」に出演した俳優の和田正人さんも。。。



学生時代には2回、箱根駅伝を経験。

日本大に在籍していた和田さんは、第76回大会(00年)と78回大会(02年)に9区を走っています。

政治家でも河野一郎さん、謙三さん兄弟。



ともに早稲田大で箱根路を走ったランナーで、それぞれ総合優勝に貢献し、第3回大会(1923年)では兄弟で78区のタスキをつなぎました。

意外な人も箱根駅伝を走っています。

それは日本映画界を支えた、篠田正浩監督も、箱根駅伝を走っています。

篠田監督が走ったのは戦後間もない1950年、第26回大会。



早稲田大の選手として花の2区を走り、区間5位。

この年、早大は準優勝に輝いています。

当日は第2集団で襷を受けましたが、最初は一気に抜かれました。

そうしたらサイドカーに乗った競走部の中村清コーチが「篠田、練習よりペース遅い!」と怒鳴ってきたそうです。

言われる通りペースを上げて、法政と立教を抜き・・

すると先の方から、応援歌が聞こえてきました。 

「篠田、あの応援歌はどこだ?」と中村清コーチから言われたので「陸の王者だから慶応です」と答えました。

すると「早稲田が慶応の後ろでいいのか‼️」とコーチに返され、結果、慶応と同着で襷を渡しました。



翌日、中村コーチに「なんで自分が2区だったのか?」と聞いたところ「ベテランは走れといっても、絶対に自分のペースを守る。新人はペースが分からない分、未知の魅力がある」と説明されたそうです。

篠田監督は箱根駅伝を走って、2つ教えられたそうです。

1つは、新人には可能性があるという事。

それは映画を作る時にも、自分の中に教えとして生き続け、寺山修司さん(脚本家)や武満徹さん(作曲家)とか、映画に初めて関わる人とばかり、映画をつくることに繋がりました。



もう1つは、練習中に悟ったこと。 

街を走っていると、すべての景色が印象的な動画になる事。

黒板に先生が書いた言葉などは、意識にあまり残りませんが、動くものは目に残る。

彼の印象に残ったのは米軍のアメ車。 


 

一瞬で通り過ぎましたけど、中に女性が乗っていました。

煙草を吸っている爪と、ルージュが同じ深紅だったのが分かりました。

米国文明の象徴である自動車の中に女性がいて、男と同じように煙草を吸う。。。



小津安二郎さんの映画では、原節子さんは絶対煙草を吸わない。

見る方も怒る。



そんな時代に、米国は男女平等の時代が始まっていた事が、走っている一瞬、何分の1秒かにそれが凝縮されていました。

これは映画界を目指したキッカケとなりました。。。

(篠田正浩監督インタビューより)