今宵も「爺ィの夜話」をどうぞ!
第121話は・・
2010年(平成22年)に日本プロボクシング協会が制定。
1952年(昭和27年)のこの日、世界フライ級タイトルマッチで挑戦者・白井義男氏(1923~2003年)がチャンピオンのダド・マリノ(アメリカ、1915~1989年)に15回判定勝ちし、日本初のボクシングのチャンピオンになりました。
以後、4度の防衛を果たし、敗戦でスッカリ自信を失くした日本人にとって、白井の王者獲得とその後の防衛での活躍は「希望の光」でした。
1954年(昭和29年)11月26日、パスカル・ペレス氏(アルゼンチン、1926~1977年)に15回判定負けし、白井氏は王座から陥落。
1955年(昭和30年)5月30日、世界王座再挑戦で、ペレス氏とのリターンマッチが開催されましたが、5回KOで敗れ、白井氏は現役引退となりましたが、この試合のテレビ中継は最高視聴率96.1%を記録し、テレビ放送視聴率の中で最高となっています。
日本のボクシングは、渡辺勇次郎氏が東京・下目黒に「日本拳闘倶楽部」を設立した1921年(大正10年)12月25日を始まりとするのが定説。
しかし、これより以前にもボクシングと思しきものが日本でも目撃されています。
もっとも古いのは19世紀半ば、ペリー提督の来航時のもの。
1853年、浦賀に来航したペリー提督は江戸幕府に開国を迫り、翌1854年、今度は横浜に約500人の兵士を上陸させました。
幕府は、下田と箱館(現在の函館)開港や下田にアメリカの領事を駐在させるなどの条項が織り込まれた日米和親条約を締結。
条約締結後まもなく、ペリー提督は即時開港となった下田に黒船7艘を集結させ、軍楽隊や水兵約300人を従えて上陸しました。
こうしたペリー提督来航の際、船上で屈強な水兵たちが拳に薄皮布を巻いて殴り合う様子(スパーリング=当時の呼称は「スパラ」)が再三目撃されたというのです。
これが日本に伝えられた最初のボクシングとされています。
ペリー提督が横浜で和親条約締結を迫った際には、幕府側が召集した力士(大関・小柳常吉)と、アメリカ側のレスラー&ボクサー計3人が「異種格闘技戦」を行ったという史実も残っています。
勝負は大関・小柳常吉の圧勝・・・
今日の爺ィの心は一気に岩手県大船渡市!
今日のカップ麺は、明星食品の「明星 黒船 秋刀魚(さんま)だし香る醤油ラーメン」
岩手県大船渡市にある秋刀魚だしラーメンの人気店「大船渡秋刀魚だし黒船」の味を再現したカップ麺で、東北復興支援商品として発売されています。
「黒船」繋がりで・・
実店舗には行った事がないので先ずはネット情報。
蓋の印刷の通り、秋刀魚のだしを用いたスープが特徴で、鶏ガラベースのしょうゆ味にさんまの煮干しを効かせたスープが特徴のラーメンだそうです。
「秋刀魚だし」は札幌西区の「丸鶏庵」さんで、頂いた事があり、大体想像出来ますが、カップ麺でどう再現しているのか興味深々。。。
蓋を開けると別添袋は、「液体スープ」「粉末スープ」「かやく」の3袋。
他のカップ麺と違って「かやく」のみ先入れ。
「液体スープ」「粉末スープ」は食べる直前に入れるそうです。
先ずは「かやく」を入れてお湯を定量注ぎ、蓋をしたら「液体スープ」「粉末スープ」は蓋の上。。。
時間は4分間。
時間が来たら「液体スープ」「粉末スープ」を投入!
濃いめの醤油スープの上にはペラチャーシュー、メンマ、ネギ。
おやっ?ほうれん草も入っています。
全体を良く搔きまぜると、プーンと秋刀魚の香り。
どっかで嗅いだ香りと思ったら「秋刀魚の蒲焼」の香り。。。
先ずはスープを一口!!
鶏・豚ベースの醤油味のスープに秋刀魚節を加え、液体スープの油で更に秋刀魚や鶏ガラの風味と香りを加えています。
最初に感じるのは、矢張り秋刀魚の風味。
しかし食べ進めるに連れ、その独特の風味にも慣れてきて、段々鶏ガラの風味が強くなり、中華そば感が強くなりました。
麺は中細で緩やかに縮れのついた、表面が艶やかなノンフライ麺です。
スープは濃い醤油味、秋刀魚や鶏ガラの強い風味があるので、クセのないノンフライ麺が控えめながら、スープの風味を引き立てています。
チャーシューはペラチャーシューながら、しっかり肉感があるタイプ。
コレは意外でした。
意外と言えばメンマとほうれん草。
カップ麺としては存在感があり、結構力が入っています。
スープの最後の一滴まで頂きました。
ところで、日本で最初のボクサーは誰なのか――これも諸説あるが、もっとも有力とされるのが浜田庄吉氏という人物。
元々、力士だった浜田氏は親方と摩擦が生じたのを機に、後輩の相撲とりや柔道家を連れて渡米。
現地でボクサーやレスラーと他流試合をしてまわったのだとか。。。
そして3年後に現地のボクサーやレスラーを伴って帰国したといわれています。
1884年(明治17年)~1888年(明治21年)頃の事。
日本のボクシングが本格的なスタートを切るのは大正に入ってから。
柔道初段の腕前を持っていた16歳の渡辺勇次郎少年が外国語を会得する目的で渡米したのは1906年(明治39年)の秋でした。
排日傾向の強い当時、サンフランシスコでのケンカで「KO」された渡辺少年は、これを機にボクシングを学ぶこととなり、6ヵ月後、渡辺少年はアマチュア大会で3回KO勝ちを収めてみせました。
渡辺勇次郎氏
15年間のアメリカ生活を終えた渡辺氏が「ボクシング」という新しい競技とともに横浜港に帰国したのは、1921年(大正10年)の1月のこと。
その年の12月25日、渡辺氏は東京・下目黒に「日本拳闘倶楽部」(略称・日倶)の道場をオープン。(因みに当時の入会金は5円、月会費も5円だったが、入門者が皆無だった為に、すぐに入会金3円、月会費2円に値下げされたのだとか)
まもなく渡辺氏の下には滝沢吉助氏、荻野貞行氏、吉本武雄氏、久場清氏らが入門しました。
それから約1年後の1922年(大正11年)秋、選手の目標をつくるために日倶はチャンピオン制度を制定しました。
最初は2クラスで、ジュニア・フェザー級(現在のスーパー・バンタム級)の荻野貞行氏、フェザー級の横山金三郎氏に勝った者をチャンピオンに認定するとして対戦者を募集したのですが、申込者がなかったため荻野氏と横山氏がそのままチャンピオンに認定されたという経緯があります。
これが日本における「チャンピオン」の原型といわれてい
ご馳走様でした。
今回の「明星 黒船 秋刀魚(さんま)だし香る醤油ラーメン」さんは☆☆☆☆☆とさせて頂きました。
それにしても秋刀魚の蒲焼・・高くなったなぁ〜
いつも最後まで読んでくださって本当に有難うございます。