歴史家・作家 加来 耕三氏が日経ビジネスオンラインに書いている。
加来 耕三氏は最近人気の歴史作家だ。私もTV番組や彼の著書をよく読んでいる。
大変分かりやすい。

今回は『戦国武将と戦国姫の失敗学』から、戦国の覇王・織田信長の父である織田信秀(のぶひで)と、関ヶ原の戦いの際、わずかな兵力で徳川家康の目の前を横切って去っていった薩摩の島津義弘(しまづ・よしひろ)について述べているが、織田信秀に注目する。
信秀については信長の育て方についてだ。

織田信秀は、京都の天皇や朝廷に詳しい武将がほとんどいない時代に、天皇や朝廷について理解し、敬っていました。天皇に献金をしたり、朝廷の建物修理に資金を出したりするだけでなく、著名な歌人である公家が旅に出た際には、自分の領有地に立ち寄ってもらって接待し、朝廷文化の教養や礼法を学びました。信秀は、武勇に優れていただけでなく、文化人としてもレベルの高い人物だったのです。

中世の武将の子育ては、中国の古典兵法を学ばせ、和歌、連歌といった教養を身に付けさせる「帝王学」です。中世には、このような教育がずっとあり、武田信玄も上杉謙信も朝倉義景もそれらを受けてきました。信秀もその一人です。ところが信秀は、信長に帝王学を学ばせていません。ここで、読者諸氏にも考えてほしいのですが、なぜ信長が無法者、乱暴者、大うつけといわれる性格になったのでしょうか。帝王学を学ばせなかったからでしょうか。
信秀は、自分は「不安の時代」に生きているが、次の信長の時代は「危機の時代」になる、と喝破していたのです。不安は、先行きが不透明であることの心の動揺であり、解消の余地はあります。ですが危機は、目前に現実として思いがけなく現れてくるものです。
であれば、従来の教育は信長の時代には通用しない、と信秀は考え、信長のやりたいことだけを学ばせました。馬術を学びたいと言えば、その道の達人を探してきました。鉄砲を学びたいと言えば、日本中を探して最新鋭の鉄砲を扱える名人を連れてきました。このため信長は、馬術や鉄砲を尾張で最も習得していた武将だったのです。

危機に直面したときの対処法は、突き詰めれば2つしかありません。一つは先頭を切って、その危機に立ち向かっていくか。もう一つは、人の後ろに隠れて、付き従って危機を越えるか、です。 信秀は、自分の息子・吉法師(きっぽうし、のちの信長)をまじまじと見て、「こいつはどうみても、人の後ろに付いていくような人間ではない」と思ったのでしょう。
では、危機に対して先頭を切っていく人間には何が必要でしょうか。その答えは「自信」です。好きなことを極めさせて、自信を付けさせたのです。信長は、多分野にわたる帝王学を学んでいないため、やってできなかったという挫折感も、味わったことがありません。これが、信秀の教育方針でした。ただ、劣等感のない人には、それなりの弱点があります。それは、人が困っている、悩んでいる、苦しんでいることが分からないことです。ですから、明智光秀がなぜ自分に対して謀反(むほん)を起こしたのか、おそらく疲れ切っていたからだと私は考えているのですが、それが信長には分からなかったと思います。
信長という人物をつくり上げ、天下布武の手前までいかせたことは、大いに信秀の成功だったと思います。ですが、世の中には違う見方もある、時にはブレーキをかける必要もあることを、信長に教えていなかったことは、信秀の失敗だったと思います。
織田信秀は息子の信長を天下に名をとどろかす武将に育てたが、世の中には様々な価値観があることまでは教えきれなかった。
信長は、誰に対しても「活躍すれば、石高を上げ、城も与え、どんどん出世させている。何も問題ないだろう」と思っていたでしょう。ですが実際には、武将の中には「これだけ報酬をもらえば十分」「少し休みたい」「そろそろ隠居したい」といった思いになる人もいました。信長には、それらが想像できなかったのです。
信秀は信長18歳のときに、41歳の若さで亡くなりました。そのため、信秀には時間がありませんでした。自分の亡き後に信長の独走を止める人物を想定できなかった。
信長は信秀の葬儀で、仏前に抹香を投げつけます。有名な場面です。私には信長の気持ちが分かります。父に対する愛情がさせた行為だったのです。「もう少しこの世にいてくれたら良かったのに、何だってこんなに早く死んだんだ!」と。

私はこの信長の有名な行為は 加来 耕三氏の理解とは違います。つまり信長は信秀をさほど尊敬していなかった、と。でもこの記事は面白い。