私のパソコンのデータを整理していたら、丁度10年前のIPproの記事が出てきた。その中で、私が現役の頃の日本のコンピュータメーカーのIT戦略について触れたところがあり、「なるほど、そうだったんだ」と感心した。同時に、当時の日本のコンピュータ開発の先導役だった通産省(今は経済産業省)による日本のIT戦略が無かった、もしくは誤っていたことが指摘されている。面白いのでその部分を引用する。少々長いがご勘弁願いたい。記事の著者は、佐藤 治夫(さとう はるお)氏、当時老博堂コンサルティング 代表。 ところどころに私のコメントを入れました( )。


日本の国家IT戦略は、私(佐藤氏)が就職したころから今まで、あまり良いところがありません。2010年の今、私たちの身の周りにあるIT環境は、海外製のものばかりです。オフィスでは、米マイクロソフトのOS上の表計算ソフトでグラフを作ったり、米グーグルの検索エンジンを使って情報を探したりしています。仕事を離れれば、米アップル製のiPhoneやiPadで音楽を聞いたり、ニュース記事を読んだりしています。
 この状況は10年経った今でも変わりません。いやむしろ激しくなっています。

こうなるまでに様々な経緯がありましたが、要するに日本には“情報化の波”に対処する戦略が無かったのです。今でも無いと言っても良さそうです。
コンピュータの黎明(れいめい)期だけを見れば、政府と、富士通やNEC、日立製作所など日本のハードウエアメーカー数社には戦略がありました。米IBMなど外資メーカーに対抗して、当時の通商産業省(現経済産業省)を本社とする“日本株式会社”は、国内のメーカーが優れたコンピュータ機器を自前で開発・製造できるまでに育てました。ここまでの日本は、明らかに戦略的に動いていました。
 これはその通りで、私もメーカーの現役としてその意図を理解して仕事をしておりました。

この後、メーカーは日本中にハードを広く普及させることを考え、全国各地にソフトウエア会社を多数配置しました。ソフトは業種別・業務別ではなく、地域別にオーダーメードで対応するという、実に巧妙な戦略でした。地域会社がその地域の企業に合わせた情報システムを作ることによって、企業の数だけシステムができることになりました。同じ卸売業の在庫管理システムであっても、北海道企業と九州企業と関東企業では別々のものが出来上がることになりました。これによって、地域のソフト会社が収益基盤を確保するうえ、独自開発したソフトであるためソフトもハードも置き換えられるリスクを最小化したのです。
ところが、メーカー各社には戦略があっても、日本全体としては戦略が無かったのが不幸の始まりでした。市場が効率的に広がり、国際競争力を持つ業務ソフトが次々に生まれる素地を作る戦略が無かったのです。地域ソフト会社には、目の前の法人顧客を相手にすること以外の打ち手がありませんでした。
 そうか、今から思えばそうだったんだ。確かにメーカーは富士通、NEC、日立とも日本各地にSE会社を沢山作って対応してきました。現在はそれがかなり整理されています。

旧通産省は、情報システム産業・ソフトウエア産業を、競争力に富んだ魅力ある産業分野に育てることには失敗し、巨大ハードメーカーを頂点とする“多重下請け構造”を生んでしまいました。頂点に位置するハードメーカーは、旧通産省の指導の下で数社ずつが連携しながらコンピュータを共同開発したわけですから、ある意味で“国策会社”です。さらに、日本電信電話公社(電電公社)の民営化に伴って、1988年にいきなり日本最大のソフト会社としてデビューしたNTTデータ通信(現NTTデータ)も“国策会社”と呼んでいいでしょう。 ハードメーカーはいわゆる“箱モノ”に強みがあり、一方のNTTデータも通信網を強みとしていますから広義の“箱モノ”を扱っています。
建物や道路などとは違い、ソフトは1つ作れば容易に複製できます。「全国に似たようで異なる建物を多数建築する」方法ではなく、「1つの秀逸なソフトを作ってそれを複製して全国で使う」ほうが合理的です。
旧通産省などは、そのソフトを誰が作るかという競争を促せば、コンピュータ産業の国際競争力を強化できたかもしれませんが、それをしませんでした。「全国に似たような建物を乱立させる」かのようにソフトを“乱開発”させた結果、ハードメーカーを頂点とした多重下請け構造がより強固になりました。「1つの秀逸なソフト」は生まれず、欧米企業との競争に負けてしまいました。
 確かにその通りだったかもしれません。でも日本と欧米では環境や立場が違っていましたから、「1つの秀逸なソフト」を生み出す戦略は成功したかどうかは分からない。