「時代の歌姫」の新たな伝説 中森明菜が復活する! 中森明夫

 

 中森明菜は幼少時から山口百恵を尊敬していた。百恵と同じく中学生で『スター誕生!』に挑戦したが、二度も落選している。三度目にして合格、デビューを果たした。その時、彼女が歌ったのが、百恵の『夢先案内人』であったのは、あまりにも暗示的だ。  レコード大賞新人賞こそ逸したが、『少女A』のヒット以降、シンガーとしての明菜は卓越していた。1980年代、当時は毎日のように歌番組があって、誰もがテレビでアイドルの歌う姿を見ていた。TBSの『ザ・ベストテン』では聖子と明菜が激しくランキングを競う。80年代半ばに聖子が結婚・出産して活動を休止すると、明菜の独り舞台となった。聖子も山口百恵も叶(かな)わなかった日本レコード大賞の大賞を、明菜は2年連続で受賞している(85年『ミ・アモーレ』、86年『DESIRE―情熱―』)。そう、たしかにかつて〝中森明菜の時代〟が存在したのだ。

 80年代中後期、思えば、それは昭和末であった。当時の中森明菜の最高のパフォーマンスを記録した映像を、私たちは見ることができる。1989年4月、よみうりランドEASTで開かれた野外コンサートだ。33年前のコンサート映像が放送されると、ツイッター(現X)のトレンドワードで「中森明菜」が第1位に躍り出たのだ。

 

 1989年春の中森明菜のパフォーマンスは圧巻だった。デビュー8年目を迎える23歳である。野外ステージに肩を丸出しにしたボディコン衣装で現れると、『TATTOO』を歌い、踊る。『ジプシー・クイーン』『ミ・アモーレ』『飾りじゃないのよ涙は』……と名曲・ヒット曲が続く。『十戒』ではイナバウアーよろしくググッと背を反らせ、『AL-MAUJ』では片手を上げてくるくると旋回し、『難破船』では涙を流してみせた。

一度だけ、中森明菜と会食したことがある。93年初夏のことだ。『スター誕生!』の番組終了10年となるその年の暮れ、日本テレビが特番を企画する。番組卒業生の中森明菜小泉今日子の共演ドラマをやろうというのだ。その原作の執筆が私に依頼された。

 顔合わせということで、麹町の旧・日本テレビの近くの和食屋で昼食会をやった。中森明菜小泉今日子が同席する。二人は共に意外なほど小柄だ。それでいて異様なオーラを発している。お店の若い仲居の女性が、中森小泉の2ショットを見て「ひっ」と奇妙な声を上げ、目を丸くして固まってしまった。

個室の座敷にテーブルを囲んで座る。自己紹介した。私のペンネームは明菜にあやかったものだ。彼女がデビューした82年春、ミニコミ雑誌の編集長がつけてくれた。「すみません、勝手にお名前を拝借して……」と私が謝罪すると、「あっ、いえ、全然」と彼女は笑って受け流した。

目の前で見た実物の中森明菜は、美しい。しかし、ひどく痩せている。顔色もすぐれない。和食のお膳が運ばれてきたが、まったく手をつけなかった。「食べたほうがいいよ」と小泉が心配そうに声をかける。

 二人は同志的な絆で固く結ばれていた。『スター誕生!』の昔話になると、明菜の表情が急に明るくなる。懐かしい話に花を咲かせて、キャッキャと笑っていた。まるで無垢(むく)な子供のような愛らしさである。

ステージ上で圧倒的な存在感を発揮するスター・中森明菜はそこにはいない。囁(ささや)くように声は小さく、かぼそく、さながらガラス細工のようにきらきらとした危うく美しい生き物である。この無垢な子供のような女性(ひと)が、どうやって芸能界の荒波の中を生きてこられたのか? 今でもあの日の彼女の姿を思い出すと、私は胸が締めつけられそうになる。

 

7年ぶりに観客の前に姿を現わす7月13日は、実は明菜の誕生日だ。59歳になる。

 

 現在、YouTubeには彼女の歌う最新映像が次々とアップされている。『北ウイング』『TATTOO』『ジプシー・クイーン』等のヒットナンバーがジャズ調やクラシック調にアレンジされて歌われた。再生回数は数千万回にも及ぶ。「歌手・中森明菜、復活」の待望の声は大きい。

 そうして2024年、令和6年の今は……実は昭和99年(!)でもあった。昭和99年の大晦日、「紅白歌合戦」のステージで〝昭和最後の歌姫〟中森明菜の歌う姿が見たい。

いや、それだけではない。来年、昭和100年に、彼女は60歳になるのだ。 〝昭和100年の中森明菜〟の歌声に耳を澄ますこと、そこから新たな伝説が始まる!!