【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】 

かつて中森明菜に結婚について聞いたら「皆さんも幸せそうな明菜ちゃんなんて求めていない」と答えた デビュー20周年の頃

 

中森明菜が大手レコード会社のユニバーサルミュージックと契約し、2年3カ月ぶりのアルバム「ZERO album〜歌姫Ⅱ」を発売したのが2002年3月20日のことだった。当時を知る音楽関係者が振り返る。

「初回の出荷枚数が15万枚と聞いた時は、正直『思い切ったな』と思いました。でも、それがレコード会社側の戦略だったのかもしれません。結局、数字的なインパクトが功を奏し、全国のCDショップでは売り切れが続出したわけですから。最終的には80万枚を超えるセールスになったのではないでしょうか」

発売後の明菜の快進撃は目を見張るものがあった。明菜の本領を発揮した作品となったことは確かだ。そんな中、デビュー20周年を迎えた。

「最も変化したのは明菜の音楽活動にネガティブな見方をしてきた週刊誌などのメディアでしょうね。つい2、3年前までは『芸能界追放』などと報じていたのですから…。明菜はそれだけニュースになる芸能人だったわけです。というより明菜の場合、ネガティブな記事ほど売れたのです。おそらく当時の社会情勢とリンクする部分もあったのではないでしょうか」(芸能記者)

その頃だったか、筆者は明菜に結婚について聞いたことがある。

「ファンも気にしているのでは」との問いに、明菜は、いつものか細い声で「どうなんでしょうね」と言うと、おもむろに「今のところは(結婚は)ないと思います。それに皆さんも幸せそうな明菜ちゃんなんて求めていないんじゃないでしょうか」と答えていた。

ヒット曲を新しいアレンジでレコーディング

そんな中で決まったのが、自らのヒット曲を新しいアレンジでレコーディングし直した究極のベストアルバムを出そうというものだった。

明菜は「スローモーション」でデビューして以来、数々のヒット曲を生んできた。特に「ミ・アモーレ〔Meu amor é…〕」(1985年)と「DESIRE―情熱―」(86年)は2年連続で日本レコード大賞を獲得している。ユニバーサルに移籍させ、実質的な明菜のプロデューサーとなった寺林晁氏(執行役員マーケティング・エグゼクティブ)にとっても、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)でも関わってきた作品とあって特別な思いがあった。レコード関係者が言う。

「それまでの明菜は、常に『自らの作品は常に乗り越えるもの』という意識が強かったので、過去のヒット曲を再レコーディングなんて基本的に考えたことはなかったと思います。気持ちが変わったのは、おそらく寺林さんへの感謝だったのではないでしょうか。過去のヒット曲の音源はワーナーが原盤を持っているので、ユニバーサルからは出せません。なのでアレンジを一新してセルフカバーで再録しなければならない。そこで、明菜が自らプロデュースするスタイルで、共同プロデューサーには武部聡志さんが参加しています。おそらく寺林さんのアイデアと思いますけどね。もちろん明菜にとっても20周年を迎えたことで、気持ちの中では一区切り…。次へのステップという思いはあったとは思いますけど」

アルバムは「Akina Nakamori〜歌姫ダブル・ディケイド」のタイトルで、2002年の年末、12月4日に発売が決まった。

「選曲は明菜自身が行ったと思いますね。基本的にはチャートで1位になった作品から『ミ・アモーレ』や『DESIRE』『北ウイング』『飾りじゃないのよ涙は』をピックアップ。それに『スローモーション』や『少女A』も加えた12作品を選んでいました。ただセルフプロデュースというとアレンジが気になりますが、そこは松任谷由実さんの楽曲でも知られる武部さんに千住明さんも加わり、オーケストラも使ってスケール感を出すなど趣向を凝らしていましたね」(前出の音楽関係者)