【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】 

中森明菜の卓越したファンションセンス デビューして1、2年たった頃、楽曲の中でそれまでのアイドルの概念をたたき壊す

中森明菜の魅力の一つに卓越したファンションセンスが挙げられる。

ユニバーサルミュージックへの移籍第1弾となったアルバム「ZERO album〜歌姫2」のジャケットで見せた衝撃ショットに限らず、明菜のファッションはそれまでのアイドルの概念を大きく覆してきた。

かつてワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)時代に明菜の宣伝を担当してきた田中良明(現在は沢里裕二として作家活動)も、そのファッションセンスには一目置いていた1人だった。

「70〜80年代のアイドルは、基本的にスタッフの意向が強く、本人がどうしたいかよりも、大人たちが『こういう方向で』『こんな衣装で』『キャッチフレーズはこう』といった具合に決めていました。つまりアイドルの衣装といえばだいたいパラシュート型に裾が広がったミニワンピース。アイドル誌を広げたら、グラビアの衣装はお嬢さま風とステレオタイプに決まっていました。明菜と同じ82年組でも小泉今日子、堀ちえみ、早見優、石川秀美…みんな同じようなデザインで色違い。そんな衣装でステージに並ぶ感じでした。もっともアイドルの衣装については私もそんな風に考えていた節があったと思いますが…」と振り返る。

そして明菜については「衣装には相当不満があったようでした。デビューして1、2年たった頃ですが、楽曲の中でそれまでのアイドルの概念をたたき壊していった感じです。要するに大人たちがイメージする衣装や、お仕着せの私服に反発していたのではないでしょうか。しかも、そのセンスはズバ抜けていました。彼女の本能が炸裂し、誰でもない〝中森明菜〟が開花したのは『サザン・ウインド』あたりからでしたね。明菜のファッションセンスがどんどんとがり始めた時期で、旧世代的アイドル感を捨てきれないスタッフとの溝が徐々に深くなり出したと記憶しています。とにかく松田聖子さんが大衆のアイドル像をそのまま体現していたのとは真逆を行くように、明菜は先端を求めたのです。それが『飾りじゃないのよ涙は』では一変。肩パットの入ったバブル系のスーツ、当時流行のアーストンボラージュ系が多かったと思います。おそらく担当スタイリストだった東野邦子さんの影響かと思います」。

東野さんは、デビュー間もなく明菜の担当スタイリストとなった。演歌歌手の坂本冬美らも担当していたが、当時は「明菜の傍には必ずいた」と芸能関係者。明菜が93年に個人会社「NAPC」を設立した際には役員にもなっていた。東野さんとは現在でも交流が続いているようで「最近でも明菜から電話連絡するほどの間柄」だという。

そんな明菜のファッションへのこだわりは何か。別冊雑誌「JIMMY」の創刊スタート準備号で明菜は「10人が10人素晴らしい感性を持っているなんて絶対に間違い。だからレコードなんかでもそうよ。みんなが反対しているから、逆にこれで行くよ!って」と言う。一方で、おしゃれには「疲れた」と言い、「服に対して魅力を失っているの。みんなどれもこれも同じなんだもの」と吐露。その上で服については「必ず誰にでも似合うものってあるの。それをタレントが着ればもっといいものに見えるのよ」とも。

さらに「本当は自分だけの世界のものなんです。他人には絶対に着れないものをあたしだから着れるのって言うのがファッションなんです。みんなが着ているものを着てもファッションでも何でもないと思う。イトーヨーカ堂だろうが大売り出しだろうが、これは自分流にこう着たらカッコいいんだって言うのがファッションなのよ」。

自分しか似合わないものを見いだすのがファッションだと持論を展開している。そのような思いの行き着いた先が、アルバム「ZERO album〜歌姫2」で見せたスキンヘッド姿につながっていたのかもしれない。