【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】 

「契約書がない以上まったく問題ない」2001年、混沌としていた明菜の移籍問題は「解決」に向かって急展開

ユニバーサルミュージックへの移籍が混迷化していた2001年、中森明菜はフォークシンガーの松山千春とテレビの新春番組で異色の対談をした。テレビ東京が1月3日に放送した「松山千春25周年記念『君の夢がかなうように―大空と大地の中で』」がそれだ。明菜からの要望もあって実現したそうだが、「収録前からソワソワしていましたね」(制作関係者)という。

千春と明菜は「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)で何度か共演したことがあったが、実際は明菜とはデビュー当時から親交があったようだ。ただ、特番については「夜ヒット」に関わったスタッフによって企画されたものだった。

番組では、千春が明菜に「寂しがり屋だと思うか」と尋ねると、明菜はこう答えた。

「私、強くないんです。いつも1人で家で泣いてばっかりなんですけど…」と言うと、その上で「寂しがり屋。ダメなんです、1人でいるのは。どこかダメ。いつもどうして、こんなに…みんなで仲間でいたいと思っているのに、いつの間にか1人ぼっちなんですよね。私、本当に芸能界で友達いないんですよ。どうしてなんですかね。誰も電話番号とかも聞いてくれない」と吐露する場面も。

そんな明菜に千春は「だったら、俺が言ってやるよ。明菜は(電話番号を)教えてくれるらしいぜって」と冗談まじりに言い返していたが…。

「千春さんはフレンドリーに対応していたので、収録中は明菜もリラックスしたムードで家族のことも含め本音で話していました。全体的に千春さんのリードもあってスムーズに進行しましたね」(前出の制作関係者)

もっとも明菜自身、寂しがり屋であることは過去にも語っていた。1999年の月刊誌のインタビューでも「私は仲間が一緒になって同じ一つの目標に向かっていく女優の現場の方が好き」と語っている。

その理由は「6人兄妹という、今どき珍しい大家族で育ったことも影響しているのかもしれません。1人で考え、1人で決めることは、本当はできないはずなのに、歌手という仕事を選んだために、いや応なくそうせざるを得なかった」とし、自らの性格については「生活が当たり前になっていくことが幸せに思う」とも言っている。

「(ドラマの仕事は)ちゃんと朝、昼、晩食べるし、当たり前のサイクルで毎日が流れていく。それが自分に合っていると思うし、好きなんです。しかも、気の合う仲間がいっぱいいて、お互い仲良くなれて、その中で自分の能力を生かすことができる…」とも。

この思いは明菜の理想だったのかもしれない。明菜は15歳で「スター誕生!」(日本テレビ)に受かった瞬間から「歌手・中森明菜を作らなくてはいけないと思った」と言い「別の言い方をすると、一番近くにいるファンというか一般の人が自分だった」。

そんな明菜と千春との対談は「明菜の心の動きが素直に描かれていた」(前出の制作関係者)と言う。そんな中で「過去の清算」で混沌としていた明菜の移籍問題は「解決」に向かって急展開していた。

私は当時、明菜との契約に動いていた寺林晁氏(ユニバーサルミュージック執行役員マーケティング・エグゼクティブ)に、最も無理難題を突きつけていたとされる人物との話し合いについて、進展状況を尋ねたことがあった。2001年の春ぐらいだっただろうか。

すると寺林氏は「ある意味で言いがかりのようなものだから…」としながら、その話し合いについては「結局、明菜との間で契約書も何も交わしていないからね。肝心な契約書がない以上、まったく問題はないし、何を言ってきても突っぱねればいい。ま、そのうち言ってこなくなるんじゃないの」と言い切った。

寺林氏の表情からは明るさが垣間見えた。そんな中、私は、寺林氏からある人物を紹介された―。