横須賀と山口百恵 “米軍の街”で育った伝説の歌姫、そのストーリーとは

山口百恵と横須賀

 元旦に能登半島で大地震が発生し、翌日には羽田空港で日航機と海保機が衝突、その翌々日には北九州の商店街で火災が発生するなど、2024年は波乱の幕開けとなった。写真家の篠山紀信さんが83歳で亡くなったという訃報も入った。享年83歳だった。筆者(増淵敏之、文化地理学者)の青春時代、彼の作品は「激写」と評され、多くの話題を呼んだ。

  記憶に新しいのは、14歳でデビュー、21歳で引退し、結婚までの7年間で数々のヒット曲を飛ばした山口百恵だ。今でも語り継がれる伝説の歌手である。女優としての活躍も記憶に新しい。

 彼女は小学2年生から中学生でデビューするまで横須賀に住んでいた。代表的なヒット曲「横須賀ストーリー」は横須賀が舞台であり、今でも京浜急行横須賀中央駅の列車接近音にそのメロディーが使われている。また、作詞家として楽曲提供も行っており、「横須賀恵」というペンネームも使っている。

  1979(昭和54)年に「NHKスペシャル 山口百恵激写/篠山紀信」という番組が放送された。篠山紀信が撮影した1000枚以上の山口百恵の写真で構成されている。翌年、彼女は引退し、結婚した。番組はNHKのアーカイブスで全編見ることができる。

  映像のバックに「横須賀ストーリー」が流れる。冒頭はJR横須賀線の横須賀駅から始まるが、途中で走り去る京浜急行の電車と一緒に走る彼女の映像が挿入される。このシーンで、彼女はまだ自動改札になっていない改札口を通ってまちに出ている。現在は横須賀中央駅が中心なので、多くの人にはJR横須賀駅はあまりなじみのない駅かもしれない。

まちの変遷、風景と人

 現在の横須賀駅は1面2線で、うち1線は行き止まりになっており、残りの1線は久里浜方面へ向かっている。ホームからは有刺鉄線の向こうに海上自衛隊の軍艦が見える。駅自体は大船駅から延長され、1889(明治22)年に開業した。なお、横須賀中央駅の開業は1930(昭和5)年である。 

 駅の当初の目的は、横須賀鎮守府へのアクセスと横須賀港への物資輸送だった。現在の駅舎は1940年に建てられたもので、ホームから改札口までフラットに設計されており、階段のない駅としても知られている。

  戦後は米海軍横須賀基地への物資輸送に使われ、1980年頃には貨物輸送の役割を終え、貨物駅は廃止された。跡地は横須賀市の公共施設や高層住宅の開発に利用されたが、貨物鉄道時代の名残が側線として残っている。

  改札口を抜けて駅舎を出るとロータリーがあり、さらに進むとヴェルニー公園に出る。この臨海公園は、旧横須賀製鉄所の建設に貢献したフランス人技師にちなんで名づけられた。この公園がかつての製鉄所の跡地である。公園を過ぎると、かつてダイエーだった「コースカベイサイドストアーズ」というショッピングモールがあり、右手には京浜急行の汐入駅がある。

  前述の番組では山口百恵がどぶ板通りを歩くシーンも出てくる。今でこそ平日の人通りはまばらだが、番組のなかのどぶ板通りはネオンサインや看板を掲げた飲食店や人でにぎわっている。朝鮮戦争やベトナム戦争時には夜な夜な米兵でにぎわったこのかいわいも、今では沈滞した様相を呈している。1979年といえば、まだバブルの助走期である。

  横須賀は日本のなかでも“特殊なまち”だ。東京でさえ、制服姿の軍人に出会うことはまれである。この点は、他国と比べた日本の独自性を反映している。しかし、横須賀は違う。

横須賀のまちには 

・米軍 

・海上自衛隊

・防衛大学校

 の制服が目につく。しかし、現在の横須賀は米軍のまちである。日常生活では、日本人は米軍基地に勝手に入ることはできない。つまり、横須賀はまちのなかに米国がある――といった捉え方もできる。

  どぶ板通りを抜ければ、京浜急行の横須賀中央駅まではすぐだ。三笠通りという商店街があり、前長180mの4階建ての三笠ビルの店舗が中心になっている。アーケードが続くこの商店街を抜けていくのが乙である。

  横須賀中央駅に向かって左側が三笠ビル、右側が崖沿いの商店街だ。途中、右手にガラス戸があり、そこから伸びる石段を登ると豊川稲荷だ。ある意味、不思議な商店街である。

横須賀の記憶と変わるまち並み

 さて、横須賀の人が「これっきり坂」と呼んでいる坂道が、横須賀中央駅で右に折れ、しばらく歩くとそこに続く道に出る。平和中央公園へと続く「急な坂道」の車道が「これっきり坂」である。歌詞に出てくる「これっきり」にちなんでいる 

 平和中央公園はかつて中央公園と呼ばれていたはずだ。この公園は整備され、それにともない名称も変更されたらしい。この公園は、旧日本陸軍の砲台跡に造られた都市公園である。横須賀港が一望できる。晴れた日の眺めは素晴らしい。

 番組のなかで、山口百恵は狭い石段の坂を登っていく。この坂はいったいどこにあるのだろう。横須賀は坂のまちだ。実は筆者、なぜか横須賀に縁があり、2022年は横須賀市のふたつの委員会の委員に任命された。その前は、横須賀市のいわゆるコンテンツマップを作る仕事もしていた 

 しばらく横須賀を訪れていなかったが、番組を見て、横須賀に時間旅行ができた気分になった。1980(昭和55)年に出版された自伝『蒼い時』の冒頭でも、横須賀への思いを吐露している。小学校2年生から中学2年生までの6年間を過ごしただけなのに、特別な存在のまちだと述べている 

 確かに、横須賀は1970年代後半から大きく変わった。エックスジャパンのヒデゆかりのヤジマレコードは廃業し、一時は撤退を表明したさいか屋もなんとか規模を縮小し、存続の方向に向かった。さいか屋の近くに高層マンションが建った。ふと、中心地は1991(平成3)年に公開された北野武監督の映画『あの夏いちばん静かな海』のロケ地にもなったことを思い出した。

 ともあれ、新年である。2024年はコンテンツを巡る時間旅行にしばしば出掛けてみたいものだ。