「バカにしないでよ」19歳の山口百恵が歌い分けた10代と30代の女…伝説の歌姫が唯一、本気になれた作詞作曲家との出会いとは

1月17日が誕生日の伝説級の歌姫といえば、山口百恵だ。中学生でデビューし、人気絶頂の21歳で結婚・引退しても、なお語り継がれる彼女の歌手人生を変えた出会いの秘話を紹介する。

14歳でデビューし、16歳でシングル・チャート1位を獲得

1973年5月に14歳でレコードデビューした山口百恵は、自分に与えられた過激なテーマと歌詞を持つ作品に対して萎縮することなく、年ごろの女性の微妙な心理をどのように表現したらいいのかを自ら考えながら、与えられた楽曲を丁寧に歌うことで成長していった。

  山口百恵が所属するホリプロダクションの傘下にある音楽制作会社、東京音楽出版の原盤制作ディレクターとして、モップスや井上陽水を手掛けていた川瀬泰雄が新たにスタッフに加わったのは、3枚目のシングル『禁じられた遊び』からだった。 そして5枚目のシングル『ひと夏の経験』が1974年6月に発売されると、ヒットチャートの3位まで上昇して初のベストテン入りとなった。

これを機に「山口百恵」は明らかに勢いがついてきた。 そして6枚目の『ちっぽけな感傷』も同じく3位にランクインした後、12月にリリースされた7枚目の『冬の色』で、とうとうシングル・チャート1位を獲得。このとき、16歳。 

しかし、一度ピークを極めると、それまでの路線には少しずつ閉塞感のようなものが立ち込め、新しい方向性を打ち出す必要が出てくる。そこでニューミュージックやロック系のアーティストに、楽曲を依頼することが検討され始めた。

 候補に挙がったのは井上陽水や矢沢永吉、中島みゆきらの名前であったという。その中にダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンドを率いて『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』のヒットを放っていた宇崎竜童と、夫人で作詞家の阿木耀子の名前もあった。

 制作ディレクターの川瀬はそんな時に山口百恵本人から、「宇崎さんの歌をうたってみたい」と言われる。当時、アイドル自身が作家についての希望を述べることはもちろん、スタッフがその意見を受け入れて楽曲づくりを依頼することなど、普通では起こりえないことであった。

 だが、中学生でデビューしてから2年半、歌手として信じられないほどの表現力を身につけていた山口百恵に対し、制作スタッフたちは揺るぎない意志を持つアーティストとして、対等に接するようになっていたという。 そんな山口百恵が最初に口火を切ったことで、その後のプロジェクトが始まった。そこから山口百恵は本当の自分の歌と出会うことになる。

「阿木さんの詩を宇崎さんのメロディにのせて歌う時だけが、本気になれた」

間もなく宇崎竜童と阿木耀子から渡されたのが、『碧色の瞳』と『横須賀ストーリー』だった。あまりの素晴らしさに驚いてシングルにしようと、スタッフで意見が一致した。 レコーディングされてから半年後の6月21日。

13枚目のシングルとしてリリースされた『横須賀ストーリー』は大ヒット。アイドルとしての彼女の人気を拡大しただけにとどまらず、山口百恵をカリスマ的なスターにまで押し上げた。

 川瀬は著書『プレイバック 制作ディレクター回想記』のなかで、「阿木さん、宇崎氏との出会いが、歌手としての百恵をいっそう成長させた」と記している。

 百恵自身が、デビューから徐々に成長していくにしたがって、男性の作詞家が描く少女心理の世界に、百恵は没入することが、だんだん困難になってきたのだろう。そこへ阿木さんの登場である。 阿木耀子の書く無垢な少女のイメージは、生きて呼吸している山口百恵自身と見事に重なるものだった。 

そのことについて、彼女は引退して結婚した後になってから、こんな文章を書き記している。 阿木さんの詩を宇崎さんのメロディにのせて歌う時だけが、本気になれた。歌うというよりも、もっと私自身に近いところで歌が呼吸していた。

 思えば阿木さんの詩を歌い始めた頃から、実生活での私の恋も始まったのだけれども、阿木さんの詩の中に書かれた言葉が、私に恋という感情のさまざまな波模様を教えてくれたようにも思う。 恋をする中で感じた思いを、詩の中に言葉として見つけだしていた。詩の中から、言葉で飛び込んできた感情が、今度は現実の恋の間(はざま)に見えかくれしていた。阿木さんの詩は、そうして私の心の奥深くまで染み込んで行った。 (阿木耀子著『プレイバックPartⅢ』三浦百恵による「解説」より)

宇崎竜童=阿木燿子コンビによる作品と山口百恵の相性はすこぶるよく、その後も『パールカラーにゆれて』『夢先案内人』『イミテーション・ゴールド』とヒット曲が続いた。 また、川瀬は、アレンジに関しては編曲家の萩田光雄がさらにパワーアップさせていったとも述べている。 こうしてロックンロールのエッセンスにあふれる宇崎=阿木コンビの作品は、変幻自在の編曲家ともいえる萩田光雄を得たことで、4年後の引退まで山口百恵の快進撃を支えていくことになっていく。

「NHK紅白歌合戦」(1978年)で紅組のトリに大抜擢された『プレイバックpart2』

1978年に『プレイバックpart2』を作詞した時、阿木耀子は歌の中に2箇所出てくるセリフめいたフレーズを、上手く歌い分けてほしいと思っていた。

 しかし、完璧を求めすぎるあまり、作品づくりの段階で時間がかかってしまったことから、楽曲が完成してデモ・テープが出来上がったのはレコーディングの日の明け方だった。

 そのデモテープを萩田光雄が昼までにアレンジし、待たせているミュージシャンでカラオケを録音し、そこから山口百恵の歌を吹き込まねばならない。さらにその後にミックスまでを終わらせて、夜中に工場へマスターテープを納品しないと、発売日に間に合わなくなるスケジュールだった。

 そんな切迫したぎりぎりの状況で、多忙を極めていた山口百恵もテレビの収録からスタジオに駆けつけて、その場で聴いたばかりのデモ・テープを頼りに、ヴォーカルを録り始めた。

 阿木耀子はセリフめいたフレーズを打ち合わせる時間もなく、始まってしまった歌録りを聴くことになった。 最初に歌ったテイクをプレイバックして聴いたときの印象を、著書『プレイバックPARTⅢ』のなかで阿木はこう述べている。

 私は百恵さんのプレイバックの声を、スタジオのミキサールームのあのスピーカーで聴けたことを、とても幸福に思う。 最初を十八歳で、次を三十歳で歌い分けてほしいと言うより前に、モニター用のスピーカーから流れてくる声はまさしくそうなっていた。

 「バカにしないでよ」 「馬鹿にしないでよー」

 十八歳の百恵さんの中に、確かにしたたかな大人の女が透けて見えた時、本当に凄いなと思った。 山口百恵は他には誰も歌いこなすことができないような歌詞、そしていろいろな含みのあるフレーズを、あの低い声で吐き捨てるかのように歌った。そして歌詞とメロディとサウンド、そして歌声やセリフ全部が一つになって、ドラマティックな表現に昇華していった。

 これを10代で自然にやれたということが、山口百恵という表現者の比類のない強みだった。山口百恵は『プレイバックpart2』で史上最年少の19歳にして、『NHK紅白歌合戦』(1978年)で紅組のトリを務めた。