カフェ チャルルココ -2ページ目

『万年筆』(前篇)

算盤や電卓が机の上から消えてノートパソコンになった今では、筆記用具で自ら文字を書くことはほとんどない。多くの人にとって文章を書くことは、キーボードを打つことや、スマホの画面に触れることだ。

そういう私も紙に文字を書くことはほとんどなくなってしまった。それでも私の机の右端には、ハサミ、カッター、のり、そして何種類かの筆記用具の刺さった鉛筆立てがある。私は文房具マニアではないので、変わったものがあるわけではなく、筆記用具についていえば種類も本数も必要最小限でシャープペン、ボールペン、赤いマーカーなどが各一本しかない。

こう書くと私がいかにも几帳面で机の上が整然と片付き、広々として仕事がしやすそうであるが、実際はいろいろな書類が雑然と積み重なり、一部崩れかかっている。仕事をする時間より、必要な書類を探すほうによほど時間がかかるというていたらくである。机の引き出しの中も推して知るべしで、いろいろなものが突っ込まれていて、中に入っている物がつかえて引出が開かなくなってしまうとか、引出の後ろから飛び出して下に落ちてしまうという事もしょっちゅうである。捨てるのをためらったため、とりあえず放り込んでいるうちにたまってしまい、結局捨てることになる



机の上や、引出の中の探し物があまりに頻繁になって来たので久しぶりに片付けることにした。新聞、ダイレクトメールなどは結局封も開けずにそのままごみ箱に捨てる。どうしても見つからなかったメモが出てくる、後回しにしていていた書類が出てきてそれを処理する。

ほとんど捨てることになった。

続いて引出を机から抜き出して片付け始めた。クリップ、切れた電池、どこかで貰った二三枚使った後よれよれになったポケットティシュなど片端から捨てていく。小一時間かけてあらかた片付いた。もうこんなものだろうと引出をもとの机に戻そうとしたときに、右奥の隅に長細い茶封筒があった。もしかしてお金が入っていたりして、などという不埒な考えが一瞬頭の隅によぎる。封筒をさかさまにして振るとなかから、包み紙に覆われた長方形の箱のようなものが出てきた。長さ十五センチ幅五センチ高さ三センチほどでそれほど重くない。



ゆっくりと包み紙をほどくと案の定箱が出てきた。始めは真っ白だったのが長い年月を経て薄茶色に変色している。中にはプラスチックのケースに入った万年筆が入っていた。そのケースの中ほどには細いひびが入っていて、その部分は白い線のように見えていた。

 



あれはたしか小学校の五年になった頃のことだと思う。仲の良かった友達との別れ、はじめて同じクラスになった同級生や新しい担任の先生との出会いによる不安と戸惑い、そして期待。しかしそれから二か月も経ったころには皆新しいクラスにも慣れた。平和ではあるけれど、退屈な日々が過ぎていった。そんな時にその女の子は転校してきた。「斉藤です」と彼女は自己紹介をした。転校生によってクラスは軽い躁状態になった。クラスの女の子達はいくつかの小さなグループをつくっていた。彼女を自分たちのグループに入れようと何人かの女の子たちが話しかけたが、結局どのグループにも入らなかったようだ。子供は移り気なもので転校生に対する興味も急速に冷めていった。彼女はお昼休みもあまり外に出ずに教室にいたし、授業中も手を上げて発言することもない。時々学校を休むことがあったが、欠席しても誰もそのことに気が付かないというほどに目立たない子になっていた。人と仲良くなることを避けているようにも見えた。



気が付いたらいつも彼女は一人でいた。



僕も転校生だった。転校してきたのは二年生の夏だった。転校する前にいた学校は都会で勉強が進んでいたので、五段階でオール三ぐらいだった成績がここでは突然オール四、ちらほら五もあるなんてことになってしまった。成績は上がったけれども自分の頭が突然良くなったのではないという事はわかっていた。運動が苦手なうえ、言葉のなまりをからかわれたりしたこともあり、人と一緒に何かをすることが苦手な子供だった。それでも何とか自分の居場所を見つけないとこのままいじめられる子供になるかもしれない、と思ったかどうかは分からないれけども表面的に友達を作らなければまずいと思った。たんに孤高を気取るだけの強さや度胸がなかったのだろう。僕は判官びいきと言うか天邪鬼な所があってまじめで勉強や運動が得意な子たちとは友達になりたくなかった。あまり頭のよくないおとなしい子たちと友達になった、それは一種の正義感でありバランス感覚であった。多少頭がいいといってもその差はほんの少しである。まして頭の良し悪しは勉強ができるかどうかとは関係ない。小学生で頭がいいといっても普通の理解力と記憶力があればたいていのことは出来る。そんな小さな差で人を馬鹿にしたり優越感を感じている無神経さが好きになれない。小学生の子どもがそこまで自己分析をして自覚的にふるまっていたわけではないと思うけれどもたぶんそういう事だった思う。しかし見方を変えればちょっと勉強ができない子や、気の弱い子となら優越感を持って付き合う事ができるという計算があったのかもしれない。そんな子たちだから悪い子にそそのかされて学校のそばにある文房具と雑誌を並べてあるお店でちょっとしたものを万引きしたなんてことを平気で話したりすることもあった。そのお店はおばあさんが一人でやっているお店で、おばあさんは耳は遠いし目もあまりよくないようだった。当たり前だがそんなことは絶対やってはならないことで、やめるように注意したりした。それは僕の家が厳しいからというだけでなく弱い者いじめだし犯罪である。信じられない行為であった。だいいちもし見つかったらどうするんだ、親はどう思うだろう、学校に知られたら友達や先生はどう思うだろうなどと、考えることだけでも恐ろしかったというのが最も大きな理由のような気がする。



勉強はあまり自信がなかったが、小学校の勉強などは誰でもそこそこには出来るものである。教科についていえば、体育や家庭科はまるでできなかったがこれは努力と言うより持って生まれた能力というものがありどうすることもできない、つまり全然だめ。国語はあいまいなところが嫌だったし、社会は覚えることに何の意味があるのか分からずに嫌いだった。ゆいいつ好きだったのは算数で、自分の答えがあっているか間違えているかはっきりとわかるところが気に入った。



小学生だったので家で勉強する習慣はなかったが、算数だけは好きで新しい教科書をもらうと家に帰ってから毎日教科書を読んでは問題を解くことを繰り返し、一週間ほどで教科書を最後までやってしまっていた。授業中は自分のやったことが正しかったかどうかを確かめるための時間だった。理解しないままに解き方だけを覚えて、それが間違っていたり、時にはとんでもない勘違いもあったがとにかく大好きだし自信もあった。ある日簡単なテストがあった。その時先生が何を思ったか、早く終わった人はこれでもやって居ろと言って黒板に問題を書いた。僕にはとても難しくて結局時間内には解けなかった。それでも算数の問題で自分が解けないという事が悔しくて、それからずっとその問題のことを考えて三日ほどでやっと解いて職員室の先生の所に行って答えを見せた。もっとやるかと言われて別の問題をもらってまた何日かかけて解いて先生の所へ行った。そんな事を繰り返しているうちに僕と同じように先生の所に来ている子がいることに気づいた。それが転校してきた彼女だった。算数の好きな女の子はめったにいないので、とても意外だった。きいてみると彼女は僕よりもずっと早く問題を解いてずいぶんと先に進んでいるようだった。ある時先生のところで一緒になった。先生は僕たち二人に同じ問題を出してあさっての放課後にまた来るように言った。僕は負けたくないと思って必死になって考えた。なかなかうまい考えがわかなかったが、いろいろやっているうちに偶然解けた。翌々日の放課後に先生の所に行き解答を書いたノートを見せた。消しゴムのあとが残るノートは、悪戦苦闘の跡がうかがえた。よく頑張ったなと先生に言われて僕は単純にうれしかった。そのあとに彼女が来て先生にノートを見せた。どんなことが書いてあるのだろうと僕はそのノートを覗き見た。そこに書かれた解答のあまりの簡単さに絶句してしまった。そんな方法があったのかと驚くと同時に、すごいと思った。自分には絶対に思いつけない。それでも算数だけは誰にも負けたくないと思っていたので、悔しい思いから次はきっと良い答えを見つけるぞと思った。それから僕は彼女のことを勝手にライバルと決めて問題を解いていた。

そんなことで僕は彼女と口を利くことになったが、彼女はあまりおしゃべりでなかったし、僕も女の子としゃべってからかわれることが嫌だったのでクラスの子たちがいる前では極力口を利かないようにしていた。それでも僕たちは少しずつ親しくなっていった。

算数のセンスはどう考えても彼女のほうが数段上であった。すごいね、と言うとそんなことはない。自分はいろいろと本を読んだりして解き方を知っているだけのことだと謙遜した。友達は作らないのと聞くと、お父さんが転勤の多い仕事で、短い期間で転校ばかりしているのでなかなか友達ができないの、と言う。今はおばあちゃんのところに世話になっているとのことである。算数が好きになったのはお父さんの持っている本の中に数学の本が何冊かあり、それを読んでいて面白くなってだんだん好きになったという事であった。数学って何のことと聞くと、小学校では算数っていうけど、中学になったら数学って名前が変わるのよ、まあ算数を難しくしたようなものね、とのことであった。数学とつぶやいてみるとそれだけで何かとても難しい物のような気がして、自分まで偉くなったような気がした。



季節は梅雨になっていた。

雨が続き、外で遊べない子供たちは教室で休み時間を持て余していた。誰かが女の子の話を始めた。あの子がかわいいとかお前は誰が好きなんだとか、そのうちクラスのだれとだれが仲がいいだろうかとかいう方向に話を進んでいった。何人かの名前が出た後に、誰かが僕にお前は彼女のことが好きなんじゃないのこの頃よく話してんじゃん、と言ってきた。僕はそんなことないよと否定した。怪しいなぁといわれて、全然何とも思ってないよ、僕ははっきりと否定した。次の日学校に行くと友達がにやにやしていた。なんだよと聞くと教室の後ろを指さした。見るとの後ろの黒板の隅に誰が書いたか知らないが、僕と彼女の名前の相合傘が書いてあった。ふざけんなよ、あんな奴何とも思ってないよと言いながら僕は怒って乱暴にそれを消した。振り向いて自分の机の所に行こうとしたとき彼女と目が合った。嫌な思いをさせてごめんね、あいつらバカだから気にしないでね。と言った。彼女はなにも言わなかった。僕は彼女と数学の話をするのは好きだったし数学のセンスについては憧れていたけれども、女の子に対して好きとか嫌いとかいう感情はもっていなかった。僕はまだ小学校五年生で、遊んだりマンガを読んだりすることだけしか考えていなかった。マンガを読んでいて主人公の他に必ず女の子が出てきてその子をめぐって話が進んでいくという展開がどうにも納得ができずに、ストーリーが面白くて、女の子が一人も出てこないマンガを読みたいと思っていたほどである。好きとか嫌いとか、人の心の機微など何にもわからないほんの子供だったのである。しかしこのことがあってから僕はしだいに彼女のことが気になり始めていた。



暑い日が続きやがて夏休みになった。運動が苦手な僕は当然のごとく泳げないので学校のプールに行くこともなくマンガを読んだり、時に数学の問題を考えたりしてグダグダと過ごしていた。休みに入ってから一週間ほど経った日の事である。数学のノートが無くなりそうになったので、いつも行く、というよりそこしかないという学校のそばの文房具屋さんに行った。このお店は仕舞屋風で、格子戸をあけるとガラスのケースがあり、その中に筆記用具やノートなどの文房具が並べてあった。いつもは何も載っていないそのガラスケースの上に細い透明なプラスティックのケースと万年筆が目に入った。誰かが買いに来て、ケースから出した後仕舞い忘れたもののようだ。

店番としておばあさんがいたが、いつもいる訳でなく、客がいないときや時分時には奥にいて、無人になることもあった。

「ごめんください」

「ごめんください」

何度か大きな声を出してみたが、返事どころか、お店の中は何の物音もしない。

困ったな……もうしばらくしてからまた来るしかないか、と思ったが諦めきれず、店の奥に進み、住まいのほうに首だけ入れて

「ごめんください」

もう一度大きな声を出してみたが、自分の声が虚空に吸い込まれるように消えていった後はよけいにお店の中は静まり返ってしまった。

そういえばここは友達が万引きしたと話していたお店だったと思いだした。これじゃあ万引きされるはずだと思った。帰ろうと思って出口のほうを振り返った時再びガラスケースの上の万年筆が目にはいった。魅入られたようにその万年筆から目を話すことができない。頬が熱くなり、自分の心臓の鼓動が意識された。

「誰かいませんか……」

小さな声で奥に向かって声をかける。

誰でもいいから早く来てくれと思った。

誰も出てこなかった。