2022/04/15、今日公開されるはずだった映画ハザードランプのことがずっと頭から離れない。単にくやしいかなしいで終わらせてしまうことが厭なのだと思う。そして私自身が何かをしなければならないという気持ちが未だに消えないからだろう。問題は今も進行形で、私とこの件との関わりを終わらせてはいけないような気がしている。もちろん、ごく個人的な心情の話なので、関わりなど最初から一切ない。ただコンテンツがひとつ提供されず、消費できなかっただけだ。けれど、この件について私が勝手に感じていた当事者性は、私を揺さぶり、突き動かし、今もまだ胸に居座っているのだから、これはもう仕方がない。まぁ人から見たら部外者が勝手に感じる当事者性というのはみっともなくおこがましいものかもしれないと思うけれど、でも自分のため、心の整理のために文字にしておこうと思った。文字にしている間だけはかなしみを忘れることができるので。


私はまず、推しが主演する映画をアホほど楽しみにしていた(ムビチケ10枚も買ったのは初めてだった)ひとりのファンだ。そしてもともと性暴力が犯罪として扱われない現状に問題意識を持ち、フラワーデモに関心を寄せていた者でもある。更に、映画ファンとしては日本の映画業界の問題点が良く耳に入ってきていたし、好きになった映画監督は、コロナ禍におけるミニシアター救済活動を立ち上げたり、ハラスメントに対するステイトメントを3年前の時点でいち早く公表していたような人達だったから、彼らを通じて、現場の労働問題は映画の質にも大きく関わる問題だと認識してきた。つまり、私が日頃から高い関心を寄せている「推し」「性暴力」「日本映画界」という3つの分野にまたがる形で、この問題はやってきたのだ。3つそれぞれのコミュニティにおいてハザードランプは話題となり、私はそれぞれの界隈の反応を目にすることになったわけで、それは問題を複層的に捉える助けにもなったけれど、ひどく悩ましい状況でもあった。例えばキャストファンの振る舞いが被害者の目にどう映るかと批判されたとき、批判する側とされる側、どちらにもわたしは存在していたと思う。そんなわけで人の3倍くらい()「自分が属するコミュニティでの問題」のように感じてしまい、無論それはただの個人的な心象風景なのだけれど、必死になった私は文春の記事に金を払い、告発者のブログやツイートからも情報を集め、どうしたらいいのかとあわあわ考えを巡らせていたわけである。そして、今でも、できることはないだろうかと探し続けている。


前提となる事実


それにしても、この件について誰かと話をしようとすると、手持ちの情報や状況認識が随分と人それぞれであることに気付く。無理もない。スキャンダラスに書き立てた週刊誌などは見たくない場合もあるだろう。私は割と積極的に情報を集めてきたほうだと思うが、認識している状況はこんな感じだ。


告発の経緯

重要な時系列だけかいつまむと

①最初の告発者が加害者をぼかしてブログに書く

②『蜜月』『ハザードランプ』両方を撮影したカメラマンが、榊氏のことだと気付きプロデューサー陣に①を送る

③プロデューサー達が無視したため、カメラマンが①をTwitterでそっと拡散する

④『蜜月』の脚本家も人づてに状況を知り事実確認を求めたが、榊氏と製作側は無回答

⑤文春が各方面取材のうえ報道

⑥『蜜月』は公開中止(脚本家には連絡なし)

⑦『ハザードランプ』公開予定のアナウンス(①の告発者や②のカメラマンへの連絡一切なし)

⑧『ハザードランプ』公開中止


なお、製作陣の中には、『蜜月』と『ハザードランプ』の両方を担当している製作・プロデューサーの人達がいる。撮影時期も立て続けだったし、公開時期も近く、2作まとめてつくっていたということだろう。よって、片方の製作陣が把握していたことをもう片方が把握していないということはあり得ない。


告発された内容

榊英雄氏の行為は、強制性交等罪に相当するものから、権力勾配を利用した性的搾取、自分の性器の写真を送りつけるセクハラまで様々。

表面的には合意のうえ(立場を盾にしているので実態は搾取ですが)何度か関係を持った相手であっても、路上で無理矢理物陰に連れ込み口腔性交を強要するなどしている。仮に夫婦でもレイプは成立するということを踏まえると、立派な性暴力にあたる。


被害者の数

今回、最初の告発者の元に性被害の情報を提供した方々が23人いるらしい(すべて榊氏に対して。未遂案件は含まない。手口に具体的な共通点が見られることから信憑性が高いと思われる、とのこと)

被害を口にすることの難しさを思えば、黙っている人の方がずっと多いのではないかと思う。某タレントによると監督の悪評は20年前からだということで、その間、被害者はいったい何十人にのぼるのか


監督の主張

告発内容のうち強制性交等罪に相当するものは完全否定。その他は「合意のうえ」関係を持っていた、女から寄ってきたとして強要は否定。つまり、搾取や暴力などの加害行為は一切認めていない。発表したのは「不倫でお騒がせしてごめんなさい」といったニュアンスの謝罪文であり、被害者に対しては謝罪していない。というか「ホントかどうかは置いといて巻き込まれた人ごめんね」的な表現なので、被害者を被害者と認めていない。加害行為は一切なかった、ゆえに被害を受けた人間も存在しない、つまり告発者は嘘をついている、と暗に主張しているわけである。

なお、不倫については妻にも赦してもらっているという内容が含まれていたが、その点を妻側に後日否定された。一部が嘘であることが明らかになり、全体の信憑性も言わずもがなである。

4/8時点の朝日新聞の取材で、現在も引き続き加害行為は否定していると報じられている。


法的制裁の可能性

刑事罰がくだされることはまずないだろう。最初の告発者も「週刊誌に売り込まないで警察行けば?」という心ない言葉に「証拠がないこと、今から警察に行ってもどうにもならないであろうことは少し考えればわかりません?」と反論している。これには2つ理由がある。

まず刑法。日本の現行法においては、強制性交等罪の成立には抵抗が著しく困難になるほどの「暴行・脅迫」、酒や薬物などにより抵抗できないことに乗じた準強制性交等罪には抵抗困難な状態を意味する「抗拒不能」が要件となっている。つまり、断ったら仕事を降ろされるかもしれないなどの不利益を恐れて断りきれず応じた、などの性的搾取案件は罪に問えない。更に、明確な性暴力を受けた場合であっても、殴られるかと思って怖くて動けなくなったなどのケースは、脅えて抵抗できなかったことが証明できない限り、罪に問えない。同意のない性交が実際にあったことを加害者も司法も認めながらも、「抵抗しようと思えばできたはず」「本当に抵抗不能だったのか疑わしい」という理由で、加害者が無罪になることがあるのだ。実際、2019年にそういった判決が相次いだために、被害者に寄り添い性暴力根絶を目指す社会運動としてフラワーデモが開始されたという経緯がある。

そしてもうひとつの理由は、第三者が「警察行けば?」と提案するときに透明化されてしまっているもの、すなわち警察に訴えるコストである。被害者が警察に訴え出るのには心理的・肉体的な負担が発生する。言えることだけを話せば良いわけではなく、警察が必要だと思うことを根掘り葉掘り聞かれ、事件を再現しなければならないわけだ。被害者はPTSDや鬱で長年にわたる通院が必要となっていることもあり、聞き取り調査の過程で体調を崩してもおかしくない。また、捜査中に、あるいは法廷で、被害者にも落ち度があったなどと責められいわゆるセカンドレイプを受けることもあるかもしれない。ただでさえ、被害者の多くが「言葉にすることは長年できなかった」と語っているが、人によっては細かく思い出すだけでもフラッシュバックに苦しんで日常生活にすら支障をきたす場合があるかもしれない。また、忙しい日々の中で時間的=金銭的な損失が発生することもあるだろう。

このような多大な苦痛や労力を払う覚悟ができても、警察が取り合ってくれるかはわからない。実際、榊氏の次に話題となった木下ほうか氏を告発した方のひとりは、強姦されたのち弁護士と共に作成した告訴状が警察で受理されず、現場の情報が少ない・身体に傷がないなど証拠不十分だとして捜査もしてもらえなかったと語っている。

そして仮に、警察の捜査、検察の起訴を経て刑事裁判まで漕ぎ着けたとしても、前述の通り「被害者の抵抗は不十分だった。加害者は合意だと思い込んでいたので無罪」となる可能性はあるわけだ。

性暴力を犯罪として罪に問うことのハードルがここまで高い、それが日本の現実だ。よって、告発した方々が今になって警察に駆け込むとも、それが起訴されて有罪になるとも、どちらも考えにくい状況なのである。


では民事訴訟ならどうか。これもまた、簡単なことではない。まず訴訟費用と弁護士費用、若い女性の経済力では払えないのが普通だ。そして心身にかかる負担も相当なものだろう。色々と証明するための労力は警察に訴えるのと変わらないだろうし、まして、本当なら顔も見たくない加害者と対峙して裁判を戦い抜くのが精神的にどれだけ過酷なことか、想像に難くない。少なくとも第三者が気軽に「訴えろ」とけしかけるようなものではないと思う。最初の告発者は「なんとか皆で訴えたいけど、お金もないし名前を出したくない人も多く難しい」「訴えろ訴えろというなら弁護士くらい紹介してほしい、サポートもなしに被害者に多くを求めないでほしい」という趣旨のことも発信されていた。


映画製作のカネまわり

邦画の一般的なケースでは、劇場公開した映画の興行収入は、製作委員会と劇場に入る。監督やスタッフやキャストへの報酬は支払い終わっていて、映画の興行収入によって追加で払われることは基本的にない。映画がヒットしてもしなくても、監督料は決まった額ですでに支払われているのだ。

製作委員会とは、日本独自のリスク管理方式で、スポンサーが複数集まって委員会を名乗っているものである。スポンサーが複数いれば、各々が提供する金額が小さくなり、もし映画がコケたりトラブルがあったりして製作費を回収できなくなっても、損失も小さくて済むというわけだ。(ちなみに、スポンサーが増えるほどそれぞれの意向が働き、監督の自由度は下がるため、映画の芸術性に対しては悪影響がある)

なお、劇場公開後の映画の二次使用(配信や円盤販売など)においては、著作者に印税が入る。映画の著作権を持っている製作会社が、著作者である監督に売上の一部(円盤の場合は1.75%)を渡す、という形である。

勿論、これらは邦画の一般的なケースであって、個々に特殊な契約をしているケースもあるだろう。が、ハザードランプは主スポンサーも大手の東映であるからして、一般的なケースに当てはまる可能性は高いのではないかと思う。


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ここまでを踏まえた上で、さて、ハザードランプは本当に劇場公開する術がなかったのだろうか、今後も配信など別の形での公開を求めてはいけないのだろうか、など、いくつかの論点をめぐりつつ考えてみたい。


作品に罪はあるかないか


いろんな人が「作品に罪はない」「関係者の不祥事と作品は別物」と語るのを目にしてきたけれど、本当にそうなのだろうか。キャストの不祥事であればまた別の議論になっただろうが、今回は監督だというのも、おそらく日本では公開中止の前例のない特殊事例だろうから、そこを考慮する必要もある。


なお、私は「犯罪者の作った作品になど観る価値がない」というような言説には与しない。人殺しの描いた絵でも美しいなと思って鑑賞できるし。カラヴァッジオとか。映画でも同じだ。人間は複雑で、クズ野郎がとんでもない芸術的才能を持っていることだってあるし、世のために尽くし人格者として知られる人が陰では誰かを踏み躙っていることだってあるだろう。その多面性をありのまま認めるべきだ。個人的に、レイプ犯のつくる映画にはミソジニーが滲み出ているかもと警戒しながら観て粗探しをしてしまうだろうから楽しめないな、とは思うが、絶対にミソジニーが滲み出ているとはとても言えないし、素晴らしい出来であることは十分ありえる、とも思う。その点は切り離してしかるべきだ。よって、考えたいのは芸術性についてではない。作品の内容にかかわらないところである。


監督と作品を切り離して考えられるかどうかは2つのポイントがあるのではないかと思う。


まず著作権だ。映画製作には多くの人間が携わる。そのため著作権法でも映画に関しては特別扱いされており、まずは巨額の金銭負担をする映画製作会社を保護する目的で、著作権(財産権)は製作会社にある。一方で、「著作者人格権」(同一性保持権、氏名表示権、公表権)は監督が著作者として持っている。作品の全体的形成に創作的に寄与した者として、プロデューサーでも主演俳優でもなく、監督こそが著作者だと決まっているのだ。だからこそ監督は印税を受け取れる。しばしば「映画は監督のもの」と言われることがある所以であろう。この法的根拠とお金の流れを無視して「みんなでつくったものだから作品は監督ひとりのものじゃない」と主張するのは無理があると言わざるを得ない。


次に、犯した罪の内容と経緯である。とは言え、事の重大性については、判定が難しいだろう。「関係者が不祥事を起こしたときのガイドラインがあればいい」という声を見掛けたのだが、薬物関連をのぞけば無理ではないかと思う(違法薬物については被害者不在の犯罪であるため対応も取りやすく、ここ数年でようやくキャストの逮捕があっても映画は公開しようという流れが出てきていた)。何を起こしたか、被害者が何人か、相手との関係性、故意か過失か、情状酌量の余地があるかどうか、刑事事件になったかどうか、被害者側はどう言っているか、世論でどう受け止められているか。それらを加味してスポンサーが「ウチの看板に傷がつく」と判断するかどうかなのだ。結局はスポンサーによるスポンサーのための判断がくだされるわけなので、スポンサーの業種や作品内容にも左右される。そんなものに一貫したガイドラインは作成できず、常に個別の案件として状況に応じ考えていくしかないのだと思う。


事の大小とは別に、犯した罪の内容と経緯について考えなければならないこととしては、それが【映画製作の過程において行われた行為かどうか】ということだ。わかりやすい前例としてはキム・ギドクの件があるが、自分の欲望のために他人を犠牲にして映画をその手段にした場合、誰かの心身やキャリアや人生を壊しながらつくられた作品には罪があると私は思う。例え、関わった他の人間がどれだけ心血を注いでいたとしても、それは罪をそそぐことにはならない。罪は厳然としてそこに存在している。見ないように振る舞うことは可能かもしれないが、存在しないことにはできない。

もっとも、ハザードランプという個の作品がそういう手段にあたるかどうかは、意見の分かれるところだろう。この作品のキャスティングや打ち合わせなどを機に被害にあったという告発はされていないからだ。しかし、告発がされていないということは、加害行為がなかったことを証明するものではない。被害は言い出せなくても当然なのだから、むしろ、スタッフとキャスト全員に匿名の聴き取り調査でもしなければ、潔白を証明できないというほうが正しいだろう。二十年間かけて何十人も歯牙にかけてきた常習犯を相手に、疑わない方がおかしいのではないだろうか。

そして、監督としての立場は過去の作品の評価によって得られたものだ。その権力があったから榊氏は俳優や志望者と出逢い、ワークショップや打ち合わせをエサにして、呼び出し、暴行してきた。暴行でなくとも、断れない状況にわざと追い込んで搾取してきた。監督の立場を使って。何年も連続的に行われてきたその手口が問題であると捉えた時に、個々の作品でこれは白・これは黒と区別することは果たして真に可能なのだろうか?監督が私的に俳優志望の女性たちと繋がりを持っている時、一作ごとに関係が清算されるわけではないだろうし。

そして、これは告発に回ったカメラマンの方が怒りを露わにしていた点だけれども、俳優やスタッフの努力と才能によって映画の評価が高まれば、そのぶんだけ監督の評価も高まる。そして、その名声は次の被害者を出しやすくする。監督が名声を持っているほど被害者は集めやすく、そして逆らえなくなる。彼のこれまでの作品に携わった人は知らずその搾取構造の一部に組み込まれているということが言える。

私はずっと厭な想像を頭から消すことができずにいる。ワークショップか何かで知り合った女性が、榊監督に誘われて、仕事の話ができることを期待して飲みに行く、そしてハザードランプの話で盛り上がる、というワンシーンがこの世に存在したんじゃないかと。公開されていなくとも、撮影は一年以上前だし企画段階からは相当な時間がたっている。その間に、内輪の話として彼がハザードランプや主演俳優の話をしなかったことを、その話の後で絶望することになったひとがこの世のどこにもいないことを、わたしは必死で祈っている。

映画を使った搾取や暴力とはそういうことだ。「作品に罪はない」という言説は当てはまらないし、「関係者の不祥事と作品は別物」というのも、その関係者が監督である以上は普通は無理だろう、というのが私の考えである。


被害者にどこまで気を遣うべきか


これは言い出しづらい話だけれども、そういうところでもやもやするような空気をなんとなく感じたのは私だけだろうか。むしろ気のせいだったならいいのだけれど。


まず、公開してもしなくても心を痛める人がいる、みたいな、どっちもどっち論に持ち込むのは非常に不誠実だと思う。映画を公開できなかったことによりPTSDを抱えて何年も通院しなきゃならなくなった人は出ただろうか?心身の不調で職も収入も失ったり、夢だった職業を諦めることになったり、異性とまともに付き合えなくなったり、人生が壊れた人は、ハザードランプのキャストやスタッフや公開を望んでいたファンの中にいるだろうか?まぁ目に見えないことだからひょっとしたらいるのかもしれないけど、皆がそうなってもおかしくないっていうようなものではないはず。映画に限らず、魂込めて体壊すギリギリまで頑張って皆で打ち込んだプロジェクトが事情により流れて全てが水の泡になった、くらいのことは一般企業でもありえるが、それでそうそう人生が壊れたりはしない。一方で何十人の被害者の中には、そういう方、何人も確実にいると思いますが。そういうひとが次の被害者を出さないために勇気を振り絞って告発した時、加害者がそれを否定し、かつ通常通りにビジネスをすることを許されていてペナルティが課されないとしたら、どれほどの絶望に襲われるかという話だ。それは社会が「お前らの告発はどうでもいい」と宣言しているに等しく、二次加害になる。絶望した被害者達の前に立って「公開してもしなくても心を痛める人がいますので」と正面切って言えるのならいいけど(その場合、どんなに罵られても仕方ないと思うけど)もし自分の口から正面切って言えないなら、そんな不均衡などっちもどっち論を持ち出すべきじゃない。


かといって、もちろん、被害者の心情だけで全てが決まるわけではない。仮に加害者に十分と思われるペナルティが課された状況だったり、被害者救済のための手が尽くされていたり、そういう状況であれば、被害者の心情に反してビジネスを動かすことも有り得ると思う。つまり、社会が問題にどう向き合うか、社会としてどういう姿勢を見せるか、というレベルでの話を考える必要があるのではないだろうか。


社会が本来あるべき姿を想像してみる。まず搾取も含めて「性暴力はゆるされない」という意識が世間一般に根付いていて、もし被害にあった人が出てしまっても、性暴力を受けたとちゃんと自分で認識できる。周りに相談したら嘆いて怒ってくれて、お前に落ち度があったなんて言われることはない。警察にいけばヴィクティムファーストで負担をできるだけ軽減するよう気を遣った対応のもと、適切な捜査、起訴、裁判がなされる。警察に行かなくとも、職場には必ずハラスメント相談窓口があって、適切な事実確認が行われ、加害者は現場から外される。芸能界には映画業界を統括し支える公的機関が存在していて、監督やプロデューサーといった現場での権力を握りやすい人間に対しても適切な対処がなされる。

本当はそうあるべき、というこれらの何もかもが揃っていないのが現状だ。あまりに何もかもがない。であれば、優先順位をつけて対処していくしかないだろう。その優先順位の最初に何を置くかと言えば、被害者になる。私たちの暮らす社会は、そこに構造的な暴力があれば是正する義務があるはずだ。暴力を防ぐ仕組みがまだ確立されていないのであれば、仕組みを作るとともに、実際に暴力に晒されている者を努めて意識的にケアすることが必要だろう。だから、私たちは被害者をこれ以上傷付けないように努め、被害者を疎外しないと態度で表明しなければならない。それは、加害者に対しての社会的制裁を取るという形にもなる。


社会的制裁は、法的制裁とある程度の相補関係がある。裁判で「被告人は十分な社会的制裁を受けた」と少し減刑されることがあるように、ペナルティはトータルで考えられるものだと思う。そうすると、今回、榊氏への法的制裁が全く行われておらず今後も行われる見込みがたっていないのであれば、それなりの重さで社会的制裁が行われるべきだろう。


こうした視点で、ハザードランプの公開中止は社会的制裁として求められれば致し方ないことであったと思う。


本当に公開する術はなかったのか


社会的制裁は必要だった。実際、榊氏の性暴力は過去にも匿名で報道されており、業界では「アイツのことだ」と囁かれてなお、監督業に邁進することができていたのだから、今度こそ監督としての権力を彼から奪い取る必要があった。その後の再起までもを否定しないが、罪を償う姿勢もないままの彼を監督の座に座らせ続けることはできないだろう。そして、他にも性加害を告発されている監督が今なお大手の仕事をやっている業界なのだから(今回の一連の報道に含まれてもいない)、社会は性加害を受け入れないという姿勢を明確に示すことが必要だった。


しかしそれは、映画の公開を中止することとイコールではない。作品に罪がないと言い切る事ができなくても、それでも製作委員会には、いくつか取ることができる対策があったと思う。


一番シンプルなのは、被害者に連絡して、何らかのサポートと引き換えに映画公開に同意してもらえば良かったのではないだろうか。

「監督・告発者双方と連絡を取り内部で協議した結果、重大なハラスメントがあったと判断しました。しかしそれは今作の製作過程においてのものではありませんでした。現在報じられている被害者の皆様の了承も得られたため、ハザードランプは公開します。スタッフ・キャストの並々ならぬ尽力もあり、試写での評価も高く、この映画にはそれだけの価値があるとわたくしどもは信じております。なお、監督との印税契約は協議のうえ破棄いたしました。性暴力のない健全な映画業界を目指し、今後とも映画を楽しみにしてくださっているお客様を裏切ることのないよう努めてまいります」とか言ってりゃ、批判どころか拍手喝采だったと思うけど。


告発者と話がつかなかったとしても、監督をビジネスから切り離す事、あるいは本作品製作過程に限ってはハラスメントはなかったと証明する事などはどう考えても不可能ではなかったはず。ハザードランプ製作委員会の権限の中で、スタッフ・キャストに聞き取り調査くらいは十分できたでしょう。

あるいは、興行収入の0.n%を性暴力被害者の当事者団体に寄付しますとかすれば、やってる感だけ出すなとか批判はきても公開はできた可能性はある。それなら観に行こうかなって人も出るし。


ただ、それらすべてを、しなかっただけ。できるかどうか以前に、しようとも思わなかっただけ。


両作を担当されたカメラマンや、蜜月の脚本家(オリジナル脚本なので原著作者でもある)の方々が、たくさんの被害者の声を直接聞いて、ことの重大性を訴えたのに、プロデューサーに名前を連ねる人達が回答せず黙殺してきたという事実が、全てを物語っている。もし仮に、裏で必死に模索してたなら、被害者や、少なくともスタッフの一員であるカメラマンさんに連絡があるでしょう。なかったんですから、聞き取り調査もしてないってことです。


監督にとって、ハザードランプへの愛より自己愛が上回ったんです。製作委員会も、面倒ごとに首を突っ込むくらいならこのくらいの作品は公開しなくてもいいや、予算そこまで高くなかったから損失はこんなもんだし、と判断したわけです。彼らには、国内で前例のない監督の重大不祥事というケースに際して、自分達の対応が映画界における前例になるという緊張感も切実さもなかった。MeTooがついに日本でも始まるぞという危機感もなかった。なんとしてでも公開する方法を探したいという熱意も、素晴らしい作品だから公開したいという愛情もなかった。

どこにもぶつけられないやるせない気持ちでいっぱい……とか言ってるキャストファン、普通に製作委員会に怒りをぶつけるべきでは?と思う。キャストとスタッフの尽力を踏みにじったのは製作委員会ですよ。トラブルに際して、打てる手を打たなかったんだから。


今後について


セクハラもパワハラもゆるさない、という意味では風向きは確実に変わったと思う。文学界や声優業界にもMeTooの連帯が広がっている。空気は変わると思いたい。


けれど構造を変えなければどうしようもない。ステイトメントを出した是枝監督達が、キネマ旬報の座談会で語っていた内容によると、やはり大手映画会社が壁として立ちはだかっているらしい。

日本には映画業界を統括し支える公的機関が存在しない、それを作ろうと活動しているのが是枝監督らだが、ロビィングで必ず「それは映画業界の総意なんですか?」となる。で、映連(日本映画製作者連盟、松竹・東宝・東映・角川の大手4社が構成する業界団体)にも働きかけてはいるが、現場の監督達の問題意識や危機感が理解されてない、そして原資がなければ業界の改革はできないというのだ。カネを持っている大手は業界の改革に積極的ではない、という話である。


ここで名前が上がっている東映こそが、ハザードランプの製作委員会の対応を左右したであろうスポンサーなのだ。そして特撮関係ではセクハラとパワハラが何度も取り沙汰され、企業体質が問われている会社でもある。


変わり始めた空気が、こういう大手映画会社という山を動かせるかどうか、という局面だろう。動かさなくてはならないし、観客として求めることは求めていかねばとも思う。


そして実際に被害者となった方々を救済する方法がないことにも心が痛む。某社の代表社員も勤めている某プロデューサーさんが「弊社で無償法律相談また法務費用の支援を行おうと今弁護士に相談しています」と発言されたが、結局、一個人や一法人がそういう支援制度を開設することは弁護士法の観点から難しいらしい。本当に、被害者を救済できる主体がいない。費用に関してはもしクラウドファンディングや寄付を募ってくれればとも思うが、まずはサポートする母体としてのNPOか何かがいないとどうしようもないのではなかろうか。

今のところは、無力な個人は「まだ終わってない」「見守っている」という空気の一部になることくらいしかできない。あとは二次加害が行われないようせめてファンダム内を見ているくらいである。


そして、Twitterでも何度か言ってきたが、刑法改正を支持していかねばならない。これは芸能界の問題ではなくて私たちの社会の問題であると認識すればそういうことになる。


今回の問題の本質は性暴力にNOと言ってこなかった日本社会にあり、芸能界の闇みたいに切り離しをはかるべきではないと思っている。確かに、芸能界にはそういうことが起こりやすい条件が揃っていたが、どんな場所であれ、もし1人目の被害者が被害を訴えて加害者が逮捕されていたらどうだろうか。同じ加害者が長年に渡り何十人も歯牙にかけるようなことにはなってなかったはずだ。じゃあ、被害者の口を塞いだのは誰だろう。芸能界の人とは限らない。

だって、実際こうして事が明るみに出た時、被害者に「枕営業でしょ」「2人で飲んでたなら完全に自業自得」「何で後から言うの?卑怯」などの言葉を投げつけてるのは別に芸能人じゃなくて一般人である。芸能界に限らず世の中がそういう声に満ちているから、被害者は「自分に隙があったせいでは?」とか自責してしまって声が出なくなるのでは?夜道を歩けば自衛が足りない、盗撮されればスカートが短い、世間一般でそうやって性暴力にあうのは自己責任だと言われているのを見ながら育ってきているからでは?

社会全体の空気がそんなんだったから被害者は被害を訴えられなかった。だから加害者も捕まらずにどんどん犯行を重ねることができた。より巧妙に、より大胆に、より多くの人を食い物にしてきた。本当なら1回やれば捕まるべきで、被害者がちゃんと訴えられる世の中だったらそうなってて、次の被害者は出なかったはずなのに。だから「悪い奴がはびこってる芸能界やべー」じゃなくて、どっちかというと「被害者が声を上げられない世の中がやべー」のほうが、コトの本質だと思う。

社会全体の空気感が「部屋までついてった?じゃあ何されても仕方ないよ」みたいな感じだから、警察組織だって末端の対応にばらつきがあって、性犯罪に理解がなかったり、被害届を受理せず門前払いすることだってある。警官に相手にしてもらえなくて性暴力被害ワンストップ支援センター経由にしたらやっと取り合ってもらえた、みたいな話、普通にある。

そもそも性犯罪に関して110年も前の法律ずーっと使い続けてきたのだって、社会が別に求めてこなかったからでしょう。諸外国から見ても遅れてる!おかしい!って声が、小さくて、大きくならなかったから。


刑法改正のロビィングしてる方々の話を読んでみると、結局、最大の障害は「国民的議論が醸成されていない」とか「社会的合意に至っていない」という声なんじゃないかと思われる。つまり、一般市民が無関心であること。

ただ知るだけでいい、まずは。そういう問題が存在していて、変えようとしている動きがあるということを、視界に入れるだけでいい。それだけでもいざという時の行動が変わってくるから。善意のつもりで二次被害を引き起こしてしまうことも防げるだろうし。


芸能界変わってほしい、世の中に変わってほしい、そう思うならば、実際に誰がどういう動きをしていて何に阻まれているのか、それを把握する関心は寄せ続けていたいものだ。いざというときに声を上げられるように。


そして、社会の一員として問題にコミットしています、という姿勢があればこそ、胸を張ってハザードランプの公開を求めることもできるんじゃないかと思う。

例えば、キャストファンが、公開中止で終わらせずに製作委員会による事実確認とその判断の発表を引き続き要求しつつ、同時に監督印税契約破棄の上での配信上映や円盤販売を求めたとして、批判されることはないと思う。されたとしても堂々とこういうコミットメントがあると主張したらいい。そういうものではないのだろうか。


求められているのは沈黙ではない。抵抗する意志、知ろうとする姿勢だろう。


今日、わたしたちは悲しみに暮れつつ、推しの大河ドラマ出演発表という新たな喜びに沸いた。先には進むけれど、決して終わらせはしないとあらためて思った。