昨年の配信で見納めしてしまったし、地方公演は行けないので、流石に感想はもう書かんやろと思ってたけどまだ書くんかい。だって面白いんですものずっと海王星のこと考えてると自分の捉え方もどんどん変わっていくので、都度書き留めておきたい。


海王星の主題って、神による人間の支配と、父親による息子の支配、二重構造になっていて、猛夫は父によりつくられた息子の立場は捨て去ると決意しつつも、神の支配=運命からはあと一歩足らず抜け出せなかったという筋かな?と今は捉えています。

もしかしたらもう一回くらい観ると受ける印象も変わるかもしれないんですけど。公演の最初の方を観ていた私の目には、猛夫は魔子との駆け落ちを予感しつつ(ゆえに今生の別れとして涙ながらに)船出する彌平と別れた、しかし運命の手により意図せず毒を飲んでしまった、という風にうつったので。


父が息子をつくるという単語の選択はやはり創造主と被造物、つまり神と人間に重ねてるんだと思うんですよね。それを、魔子に「誰も自分以外の人をつくることなんかできるものですか」と言わせ、被支配者としてではなく自由意志で生きることを選択させる。そして「じゃあ僕達がつくったのは」「愛よ」と、被造物だったはずの彼らもまた新たな価値を創造したのだとする。さらに「鳥は生まれるためには、卵の殻を壊さなきゃならないんだわ。卵の殻はお父さんよ」と、父殺しと同時に神殺しによって、己の人生の支配権を握ろうとする。


ここで使われる卵の比喩は、ヘルマン・ヘッセが少年の自己探究の葛藤を描いた作品『デミアン』の有名な一節を思わせます。


鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは一つの世界を破壊せねばならぬ。

『デミアン』ヘルマン・ヘッセ


もしかしたら、世代によっては、デミアンに影響されたと思われる少女革命ウテナのそれのほうが有名かもしれないですね。


卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らが雛で、世界は卵だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ。世界を革命するために。

『少女革命ウテナ』

(このアニメ、音楽がJA・シーザーだったり色々と寺山修司との繋がりが感じられるところがありますよね


さて、ウテナで謳われるように、卵の殻を割ることは革命です。革命とは要するに権力の移転、それに伴う体制転換を意味します。自分の奥深くから湧き出る魂の声に従い、他者(親や社会や宗教や道徳など)に委ねていた己のコントロール権を我が手に取り戻す、そういう意味においての革命であり、自己実現のための一歩です。

『デミアン』は宗教的・哲学的な自己実現の苦しみと尊さを説いていますが、その中では、人間の唯一の本領とは自分自身に到達すること、自分自身の道をそれがどこへ通じていようとも手探りで前進すること、自分を生き尽くすことだと語られます。


ぼくはもとより、自分の中からひとりでにほとばしり出ようとするものだけを、生きようとしてみたにすぎない。

どうしてそれが、こんなにむずかしかったのだろう。

『デミアン』冒頭詩より


自分の中から、本当に深いところからほとばしるもの、それこそが真実です。海王星で魔子が生き残って猛夫が死んだ意味について、わたしは単にそれが悲劇として美しいから、最も残酷な結末だからだと最初は思っていましたが、ひょっとしたらやはり猛夫に覚悟が足りなかったのかもしれないなと思うようになりました。

魔子は愛することによって真実に辿り着き自分自身を獲得しましたが、猛夫は愛することで自分自身を引き裂いてしまった。きっぱりと諦めることは到底できず、しかし魔子を望みながらも後悔を繰り返し、絶えずびくびくとおびえていた。真実に殉じる覚悟が足りなかった、ゆえに愛すると同時に自分を失ってしまったのでしょう。寺山修司が猛夫ひとりのための唄を用意しなかったのは、ひょっとしたらそのために敢えてだったのかもしれない。父に面と向かって決別を切り出すこともできず、魔子にも自分からは駆け落ちを言い出さない。最終的に魔子から決断を聞かされて『よし。思い切って、親父の恋人を略奪してゆくことにするか!』と言った時の様子が、わたしには自分自身に言い聞かせているように見えました。残る想いを断ち切ろうと、かなりの無理をしているように。彼は、表面上は魔子を選んだけれども、心の底から他の全てを捨てても良いとは思えなかったのでしょう。猛夫はまだ真実を追求する覚悟が、ほんとうのほんとうにはできていなかった。だから、運命の魔の手から逃れることができなかったのではないか。何となくですが、今はそんな風に見えてきました。

そして、そんな猛夫だからこそ愛おしいなと思う。海王丸の出港を前に、猛夫がどんな気持ちで父と対峙したのか。あの場で毒殺計画を聴いてしまったという説もあり得るとは思いますが、私の中では、あれは計画的に捨てると決めた父との別れだったのかなと思っています。魔子と出奔することになるだろうとわかっていて、そしてそれが「息子と挽く珈琲挽き機械こそが人生」だとして生きてきた父からほんとうにまるっとすべてを取り上げる行為になると、ひょっとすると過去のあたたかい思い出や生きる意味やそれこそ結果的に生命まで奪う行為になるかもしれないと、どれほどの仕打ちになるかわかっていての、何も言葉にできない、別れだったのかなと。そのつらさにズタズタに引き裂かれたからこそ、その後も自分から魔子に駆け落ちを言い出すことができなかったのではないかなと。

猛夫は優しい男です。父に男手ひとつで育ててもらった恩を感じ、真面目に勉学に励み真面目に就職して、父の前で良い子をやってきました。毒舌やホラ吹きで己の自尊心を慰めようとする父を、一緒になって認め慰めるケア要員であったようにすら思えます。父の社会的地位やコンプレックスを理解していながら、お父さんはすごい、と言ってきたのは、父親への依存というよりも、やはり優しさだったと私には思われるのです。その愛情深さこそが、魔子を惹きつけたのですから、ふたりの出逢いが彌平を想う子守唄であったことは必然でした。


一方で真実以外の全てを捨てても良いと心の底から決断できていた魔子は、ラストで「いいえ、運命なんかじゃないわ」と神の采配をキッパリ否定する。たとえ悲劇的な結果になっても、すべては決断が遅かった自分のせいなんだと。神の手に委ねず、己のコントロール権が己にあると主張するということは、自分の行動とその結果に自分で責任を負うということでもあります。神=運命とは、言い換えるなら自分の手ではどうにもできないすべてのことを指しているようにも思えるのですが、その場合、神のご意志だから仕方がないというのは、納得できない不条理や絶望を受け入れるための甘やかなレトリックです。それを頑としてはねつける厳しさと烈しさに、真の自己を手に入れるということはなんと恐ろしいことかとも思います。

神の手から、親の手から、逃れて人間は苦しみながらも自分で自分を統治しなければならない。うぅん、寺山修司、どんだけ支配が嫌いなんだ寺山修司bot とかフォローしてたら「まず親を殺せ!」みたいのばっかり流れてくるしな(誇張)まぁ御本人の御母堂がというのはよく聞きますね。


寺山修司が支配に対して実に敏感だったんだなぁと思ったのが、演劇論集(海王星の戯曲がのってる本に収録されてるやつ)の中で、演劇は戯曲の複製品であるべきではないって話がでてきたくだりです。

もし作家が書いた戯曲がまず最初にあって、それを作品として「完全な形」と捉え、そのイメージを再現するためだけに劇を上演するのだとしたら、演劇は常にただの複製品に過ぎず、俳優も戯曲に操られる人形に過ぎない、それじゃ茶番だ、というわけです。ここでは戯曲を書く作家が創造主、そして台本通りに操られる俳優を奴隷として見立てている。もし台本に「俺は今、台本を無視して喋っている」と書いたとしても、作家は俳優にそれを台本通りに言わせることができる。そんなのは奴隷だ、俳優を奴隷の演技から解放せねばならん、というわけで、寺山は戯曲不要論を唱え、予定調和の終幕を嫌い(だから天井桟敷はカーテンコールをしなかったとか?)観客を巻き込んでそのリアクションも劇だとしていったり市街劇で騒ぎを起こしたりと、天井桟敷でそういった実験を繰り返していくのかなと思うんですが。知らんけど。

海王星はそのずっと前に書かれたものだけど、やっぱり思想に共通項は多く見られるなぁというわけで、そばかすちゃんのセリフを思い出しますね。「あたしが自分で言ってるんじゃない、神様があたしの口を借りて言わせてるんだわ」というのは、まさに台本の話をしているわけです。

親と子、神と人間、劇作家と俳優。時には入れ子状になったそれらの関係を、クリエイターと被造物として扱っているということ。それらの権力構造から人間は逃れるべきだ、ということ。海王星もその思想のもとに被支配からの脱出を描いていたんだなぁとあらためて思いました。


その筋で見ていくと、ユースケさんの飄々とした魅力的な佇まいによってだいぶ薄まってはいたけど、やっぱり彌平は支配する側に行きたかった男なんだなと。

私は「トキシック・マスキュリニティ/有害な男らしさ」という観点で彌平の行動を見てるんですけど、なんでかって、それが今のムードだからです。私の気分的にというか、世のトレンド的にというか、そういうものに向き合うフェイズが来ていると思っているので。

たとえば映画界ではゴールデングローブ賞の結果を受けてアカデミー賞の予想なんかも盛り上がっているところですが、作品賞有力候補ではと囁かれているNetflix『パワー・オブ・ザ・ドッグ』も日本の『ドライブ・マイ・カー』も、いずれも「有害な男らしさ」を扱っていました。前者は、権力を誇示する男の粗暴さの裏にある弱さや孤独や繊細さを。後者は、ショックを受けた時に感情を自分で抑圧してしまったがために虚無を抱えた男が自分を取り戻す様を。

強さを求める古い男性性規範は我々にとって(女にも男にも誰にとっても)有害である、という糾弾から更に進んで、では他者も自分も害さないために男はどう己の弱さに向き合い己をケアしていくべきか、というのは今かなりホットなトピックなわけで。だから、その観点で色んなものを見てみると興味深くて面白いよね、ということで、50年以上前に書かれた『海王星』であってもそういう切り口で楽しむことができるわけです。時事性への共鳴があるというのも、また作品の強度というか、素晴らしい普遍性ですよね。


「有害な男らしさ」の主な特徴としては、感情・苦悩の抑圧、表面的なたくましさの維持、権力誇示としての暴力、などが挙げられます。彌平は全て当てはまる。孤独とコンプレックスを覆い隠すように軽口を叩き、息子の前でだけは堂々たる父親であろうとし、そして魔子を無理やり奪い去った彼の行動は、どれも「有害な男らしさ」として説明できてしまいます。激昂した際に「自分がつくった息子に、まざまざと自分の夢を打ち砕かれるほど、俺は弱くはないよ」と言い放った彌平。彼にとって、強いか弱いかというのは一番大きな問題でした。己が弱者としてみくびられる存在になることを許容できず、「強い父親」であることによって父と子の関係性を強化しようとしてしまった彌平。愛情ではなく支配によって親子関係を繋ぎ止めようとしてしまった彼の決断は、しかし彼自身をも幸せにはせず、すべてを破滅へと導きます。

結局のところ、彌平が自分の居場所を守るには、策略として一度提示したように魔子と猛夫を認めるしかなかったわけです。俺の気持ちはもともと恋ってわけじゃなかったんだよと嘯いて、鷹揚に若い2人を認めてやって、器の大きさを示すことで最低限の矜持を守りつつ、2人にめちゃくちゃ気を遣われて、大変な気まずさを残しながらも良い舅という立場で関わっていくしか、居場所を残す道はなかったわけですが、彌平はそれをとても受け入れられなかった。その身に受けた衝撃と悲嘆を、傷として黙って引き受けるのではなく、怒りとして発散することを選んでしまった。もたらされる結果が自分の本当の望みなのか?ということには思い至らずに。あるいは、わかっていても、それでも。

やはり、彌平は自分の精神世界における真実の探究から、ずっと逃げてきた人間なのだろうと思います。自分の心の襞を探り覗き込むようなことは避けてきた人間。俺の人生何なんだよ、と自問しながらも、その答えは自分の中ではなく外に求めてきてしまったためでしょう。表面的な強さの維持にこだわってしまったがゆえに、自分で自分の愛するものを壊してしまった。家庭も、家族も。


前述の『ドライブ・マイ・カー』には、「僕は正しく傷付くべきだった」という台詞があるのですが、その原作は村上春樹の『女のいない男たち』という短編集です。同題の収録作以外からも着想を得て映画化となっているのですが、そのうちのひとつ『木野』という作品に元となったであろう台詞があります。

「おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ(中略)。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。」


彌平はこれまでの人生の様々な不条理に面して、そしてかつて妻を喪った時に、正しく傷付くことができていたのでしょうか。そんなことを思いました。


いや海王星見納めてからこんなことばっかり妄想してて、色々確かめるためにも早くもっかい観たいんでほんと円盤早めにお願いシャス


そしてどうか、千穐楽名古屋公演まで、カンパニーも観客も全ての皆様ご無事で最後まで完走されますように。人間の心に深く深く沈む、素晴らしい音楽劇を、ありがとうございました。