音楽劇 海王星、めちゃくちゃ好きになったので感想をしたためておく。

 

正直言って観るまでは怖かった。長らく未上演だった作品には未上演なりの理由があるのではないか?と思ったからだ。優れた戯曲ならば50年以上も放っておかれるわけがない。私は物語に愛着を持てないなら作品自体を愛せない性質だし、推しが難しいと悩みながら取り組んだこの作品を心から愛せるだろうか?という不安がずっと拭えなかった。戯曲を読まぬまま迎えた初日は、観てなおダメだったかもしれないと思ったけれど、翌日の鑑賞2回目以降でその不安は霧散したし、最終的には最高の観劇体験だったと心の底から思っている。素晴らしい作品を堪能できて本当に幸せだ。


初回を観て戸惑ったのは、ミュージカルともまた違う音楽劇の構成、初めて観る歌と踊りに慣れることが必要だったのもあるけれど、今にして思えばおそらく、猛夫に感情移入しようとして失敗したからだ。

これは周りを見ていても同じような感想が多いように思うし、山田さん御自身が猛夫の表現で悩まれていた部分にも通じる。猛夫が苦悩していること自体はよくわかるけれども、観客がその心情に寄り添って物語に入って行けるような仕掛けはなかったからだ。魔子とのシーンと父とのシーン、それぞれで別の顔を見せる猛夫だが、猛夫がひとりだけで自分の苦悩を歌い上げるようなシーンはない。音楽劇なので歌こそが感情の発露であるはずなのに、寺山修司は猛夫の独白のような歌を用意していない。

つまり、作品として主演は山田裕貴さんだけれど、その役の猛夫は物語の主役ではなかったのだろう。役者をも悩ませるこの要素は、長らく未上演だった理由のひとつかもしれないなぁと思った。


では誰に感情移入して観るべきか?好きなキャラクターで構わないだろうけど、猛夫に比べ、魔子と彌平はより立体的に描かれていて感情移入しやすかったし、そうすると没入感も強まり俄然面白くなった。


魔子のキャラクターはファムファタル、つまり「運命の女」「男を破滅させる魔性の女」という切り口で造形されているのは明らかだろう。何しろ名前からして「魔子」なのだ。ただし、それはバーの客達によって与えられた名であり、元々彼女のものではないということを忘れてはならない。そして衣装の変化が示すように彼女は後半、清純な花嫁となる。

女性表象に「ファムファタル」か「聖母」のいずれかの役割を担わせるのはありがちな話だけれど、寺山修司によりそのどちらをも負わされた魔子は、結果として現代的な感覚での「ただの女」っぽくて私は好感が持てた。悪女、母、少女、色々な要素を詰め込んだ結果、魔子は普通の女になった。だって現実に生きる私たちは色んな顔を持っている。自分が何をやっているかわかっている「悪女」のキャラではなく、多面的で、自分が何をやっているのかわからずに、一貫性がなく揺らぐ心、それこそが人間らしさで、普通なことだと思った。

バーの客達に呼ばれた魔子という魔性の名。割り振られたファムファタルという役割を演じることで生き延びてきた、そういう形でしか生きてこられなかった彼女の深い哀しみを無視して、恋多き尻軽女とだけ断罪することはできない。「悲しみは私とは気が合わないから」と歌い、つらいことは一晩だけ泣いたら忘れ、自分の傷から目を逸らして生きてきた女。己が傷ついていると認めずに、みじめな想いにならないように、享楽的に男と酒に溺れて逃げてきた人生。

そんな中でついに出逢った、念願の家庭をくれるという男。彌平の魔子への愛が純粋なものだったのかは疑問だが、魔子もまた家庭という居場所が欲しくて欲しくてたまらなかったがゆえに婚約したのだった。それから運命の悪戯で出逢ってしまった、見返りがなくとも、誰を傷付け恨まれようとも、それでもどうしても手放せない男。

彌平も猛夫もどちらも喪って、彼女はラストでついに「可哀想なわたし」とこぼす。負った深い傷口を覗き込み、惨めでボロボロな自分の姿を直視する。己を憐れむ言葉なのに、悲劇に酔うというよりも冷たい虚無感を漂わせているのは、自分の姿を外から見つめているからだと私は受け取った。これまで一晩で彼女のもとから去っていた哀しみは、今後はずっと付き纏って離れることはないだろう。取り返しのつかなさを受け入れて彼女はこれから生きていかなければならない。ひとりきりで。


彌平に感情移入した時は、観ていて初めて涙が出た。とはいえ、感情移入できるまでは時間がかかった。キャラ設定にしっくりこないものがあったのだ。

スケベでホラ吹き、美女の心を射止めることはできる軽妙さがある、しかし子守唄が示唆するように息子が幼い頃から男手一つで育ててきておりその間女っ気はなかったはず、そして会社でいびられ男社会からは落伍者だということになっている。一体モテるのかモテないのか?飄々としているのに世渡り下手なのか?そのギャップが最初はいまいち飲み込めなかったが、鑑賞を重ねるうちに、むしろ魔子と同じく、多面的な人物像が生々しく立ち登ってくるように思えてきた。

彌平もまた「そうとしか生きられなかった」哀しみを背負っている。学がない低賃金の肉体労働者が、何らかの形で妻を失ったであろう男が、襲いくる不条理に苦しめられつつも、自分の人生とは何なんだと自問してきたということがあの歌からはわかる。人生は、息子と二人で挽くコーヒー挽き機械。その大事な家庭さえ守れれば、例え見下されても、みっともなくても、生活費を稼げればそれで良い。しがみついたら絶対に離さない、そう語る彌平は、すでに「ほんとうのしあわせ」を手に入れて吹っ切っているかのように装いつつも、やはり自分がなにものをも手に入れられないことに、誰も自分の人生にトロフィーを与えてくれないことに、深く苦しんでいたのだと思う。

劇中、学がある人間とない人間は描き分けられている。鳥類学の教授は猛夫に対して「親父が死んだらしめたと言って喜ぶ、それが教育ある人間の態度ってもんだ」というような事を言う。物語の序盤から猛夫が大学へ行っていたという事実が提示され、一方で彌平は自分は学がないと何度も口にする。もしかしたら、息子を大学に行かせ立派に育てたと誇るほどに、己には学がないことへの根深いコンプレックスから逃れられず苦しんだのかもしれない。

あの飄々とした軽妙さも、ホラを吹くビッグマウスも、彌平にとっては不条理な人生を生き抜くための術なのだろう。やはり魔子と同じく己の傷口を見ないようにして、自分のプライドを護ろうとする防衛反応なのだ。

だから、彌平にとって魔子は叶えたい夢で、トロフィーだった。「息子に夢を壊されるほど弱くない」と彼は言う。愛を奪われるのではなくて、夢を壊されるのだと。そして弱い存在になることは受け容れ難いのだと。

「美しい妻のいる生活」という理想を思い描いてきた彌平は、他の男が嫁になど選ばないような類の女に、いつだって男からは「遊び相手」としか見てもらえないような女に、求婚した。パッとしない人生についに与えられたご褒美が魔子だったし、それを取り上げられることには我慢ならなかった。それも、学があり立派な仕事に就き男として自分の上を行く息子に。飄々としたフリをして口先軽く、そうまでして護ってきたプライドが粉々になる瞬間。自分は傷付いてなどいないし幸せなんだと己に言い聞かせて我慢に我慢を重ねた人生に、ようやく与えられるはずだった報酬を、己の全てを与えんとして育ててきた息子に略奪されるとなれば、男として失格してしまう。それだけは許せなかったのだろう。

無理心中に至るそれを「有害な男らしさ」として糾弾したいような気持ちもあるが、彌平がしゃがんで頭を抱えていた姿を見るとその気勢も削がれる。プライドのために決断したものの、愛する女と息子の両方に憎まれて生きることになど耐えられなかった彌平。その存在のいじましさ、弱さが胸に迫ってきて泣ける。自分のことさえままならない、それが人間というものだから。


魔子と彌平がこんな風に見えてきてからは、物語が面白くて仕方なかった。そして、三角関係に絡むあの二人にも言及しておきたい。あの二人がいなければこんなに楽しい思いはできなかったはずだ。


まず、那美さんの毒薬の歌のシーンは個人的にクライマックスだと思っていて、一番楽しみなシーンでした。外からは見えないところで激情を燃やしていた那美さんの爆発、毎回鳥肌が。さすがの伊原六花さんのダンスに、「あんまり美しくては厭」「人魚の化粧水よ」という寺山ワールドの言葉遣い、うっとりと堪能させてもらった。

恋は盲目を体現していた彼女、人はどうして他人の心を物のように手に入れられると思ってしまうんでしょうね。でもそういう恋をしてしまったことがあるからわかる。つらい。


そして、皆さん大好きだと思うんですが、

そばかすちゃん……初見で「は?好き」となり、観れば観るほど好きになり、もはや恋です。清水くるみさんのファンになった。かわいい、キレッキレ、悪辣でかわいい、つまんなそうでかわいい。

彼女もまた、記号的な小悪魔ではあるけれども、そういう風にしか生きられない何かを抱えているかもしれない。表からは見えない内面の、欠損した何かを埋めるために必死なのかもしれない。わからないことですが、そう考えさせるだけの奥行きがあるキャラクター、演じ方だったなぁと思います。

彼女のシーンは全部好きですが、下男に「あんた、啞なんだ」という時、口調に本来のそばかすの素の喋りが出ていて、つまり普段のきゅるきゅると甲高い声はわざと演出しているということがわかるから好きです。

そばかす……好きだ……オレンジのキラキラアイメイクかわいい……退屈させないから俺と結婚してくれ……

あとボーイさんとのシーンも!ボーイさん、声が良すぎてたまに面白くなっちゃうんですけど、好きなキャラクターですね。関智一っぽいというか。


こうしてみるとどのキャラクターにも愛着湧きまくりなんである。女学生たちも大好きでした。意地悪の歌とか最高!

彼女たち、頭の上にデッカい虫を載っけてるので、前の方の列の人はよく見てみてね!スズメバチとかクールすぎる。

最後に観た時に座席がサイドブロックB列だったんですけど、カーテンコールで目の前に並んでらっしゃる彼女たちに向けて拍手してたら、目があってちょっと頷いてくれたりした気がして(ファンサもらったと主張するオタクの図)御礼の気持ち伝わったかなと思って凄く嬉しかった思い出です。


ちなみに、最初の5公演を観たわけですが、500円分の予言のシーン、3回目からユースケ・サンタマリアさんがアドリブ開始して、真ん中で立ち止まるモデルのようなターン、シャドウボクシング、全力疾走と3パターン楽しめました。全力疾走ほんと爆笑しました。これぞ舞台ですねぇ。


というわけで、心底大好きになった舞台を堪能して遠征から帰ってきたのですが、ずっと頭の中で音楽が鳴ってます。船出の歌を歌いながら帰ってきた。パーティーはお開き、さみしいものです。滞在中にお世話になった皆様、そして海王星、有難うございました。


*************


12/16追加


その後Twitterで流してた感想も追加しておきます。


*************


ブログに書き損ねたけど(いつも色々忘れる)まがいもの、偽りというのもキーワードでしたね。

愛がまがいものでも構いやしない、愛なんて世の中の役には立たんもんだ、と教授は言い、舞台上には愛と美の象徴である女神の「贋物」の像が並べられる。 
それは魔子と猛夫の間に生まれたものが「真実の愛」であることを引き立たせるための対比なんですけど、「真実の愛」かフェイクかなんて本人達にしかわからない証明のしようがないもので、初見の観客は二人が恋に落ちるのを見ていても一緒にのめり込めず、猛夫に感情移入できなかったという人が多い理由のひとつかもしれないですね。そもそも「真実の愛」ってなんやねん、今まで納得できる定義に出くわしたことないわ。という話も出てくるかもしれない。当然、魔子があまりに利己的に思える人もいたと思います。 
私は魔子の「彌平と闘ってでも(愛を貫かなければいけない)」という言葉を聴いて、やっと、あぁまごうことのない「真実の愛」なんだと理解したのですが、守り通さねば己の存在・尊厳に関わるもの、人生で初めて逃げずに闘ってでも向き合わなければいけないと決意させたもの、定義などできなくとも直観的にそれは「真実の愛」なんだなと。それに目を瞑ってしまうならすべてが「偽り」に堕ちてしまう、ならばやはりそれは「真実」なのでしょう。真実と向き合うこと、それが魔子にとっての人間存在としての誠実さであり、利己/利他を超えたところにある純粋なものとして描かれているんだなと感じました。 
そして猛夫にとっての誠実とは何だったのか、というところが演技プランによって読みが分かれそうなところで、舞台といういきものの深さ、面白さなんでしょうね。あぁ〜なんて素敵な舞台なんだ…

*************

海王星 感想 追加② 
猛夫が毒殺計画を耳にしていて自殺したのでは説、私はそうは思わない派です。 
#海王星

これだけ「こんなことってあるんでしょうか」「こんなことが」「すべては神様の舵なんだよ」と運命の残酷さを主題にしておいて、ひとりでも自分の意思で決めた通りに幕を引く者がいれば、悲劇として格が落ちるのではないかと思うからです。さらに、古典的で明確なテーマである父殺しという命題からも逸れてしまう。もっと単純なところでは、グラスの扱いを見ていて、毒入りと知っていれば無関係な他人が飲むかもしれないような形で放置したりしないだろうと思いました。 
だから全員が思い通りにならなかったカタストロフィであってほしい、「魔子、そばにいてくれ」と言って死んだ猛夫は自殺ではない、というのが私の願望。 
ただ、劇作家が喜劇として書いた話が悲劇として上演されることが実際にあるように、寺山修司の意図がどうだったかとは無関係に、そこには演出家や演者の創り出すものと、観客が読み解ける余白がある。これはどちらに受け取っても誤読ではなく、豊かに膨らませて楽しんで良いもの、語り合って盛り上げて良いものだと思います。それだけの豊かさがある舞台で素晴らしいことだわ。 

ちなみに、全員が思い通りにならない結果であってほしい、というのは、そばかすちゃんもです。彼女は幸せな恋人達をぶち壊してやりたかったけれど、死んで欲しかったわけではない。抱える虚無感は増したはず。彼女にとって、葬式はきっと、ひどくつまらないものでしょう。結婚式よりも。
(12/28 追記 : 配信であらためて観ると、お涙頂戴の背景にいる時は退屈そう、更にその後のラストのギターが掻き鳴らされ皆がゾンビのように動くところでは蠱惑的な笑みを浮かべていたので、人の死も含めて破局すればとにかく狙い通りってことなのかもしれない。まぁそれにしても、どのみち彼女の望み=熱い恋は叶わない。それと劇中『悪口唄』に「そばかす」が悪口として登場することにも注目されたし。)

*************

ていうか那美さんて猛夫の元カノだと思ってみんな観てた!?!?? 
#海王星

わたしは彼女が初登場したときの猛夫の「港湾事務所の那美さん??」みたいな言い方からして、これは付き合ってたとかあり得ないわと勝手に確信してしまったんですけど、言われてみればその辺はふんわりさせてるのかもしれない。いやでもやっぱり付き合ってはなかったと思うんだけど、どうかな。 
父親とも面識があるのは、港湾事務所勤めの顔見知りとして、仕事上でよく付き合いがあったのでしょう。だからこそ生存の一報が彼女からもたらされたのだし。 
そして周囲がお前ら付き合っちゃえよ⭐︎的に盛り上げることがあったけれども猛夫は全く相手にしてなかったパターンかな〜となんとなく思いこんでました。少し前に喧嘩したっつーのは猛夫がそのつもりないとはっきりさせたせいで気まずくなったんじゃないの?くらいに。疑問も持たなかったけどこれまるまる自分の勝手な脳内補完だな…?(常にほぼほぼ勝手な脳内補完だよ…) 
那美さんのセリフや行動、一度でも猛夫の心を手にしたことがある者だとしたら違和感があるんですけど、しかし歌の中では「あたしは自分の愛を取り戻すために あのひとをあたしのもとに取り戻すために」って歌ってる。これが事実として別れた恋人なのか、自分のものではもともとないのに「取り戻す」って言ってんのか…後者だったらいいな… 
伊原六花さんが「魔子が現れ、彼との関係を夢見ることができなくなってしまったときに『私のすべてが奪われてしまった』と想像を絶するような挫折感を味わいます」と那美のことを語っているけれど、つまり、奪われたのは“夢見る自分”であって、猛夫じゃないんじゃないかな…??あっこれってよくTwitterで話題になる推しの結婚の話に通じるものが……いや話が逸れるわ。 
とにかく、わたしの中では、もともと無理なのに邪魔者さえ排除できれば猛夫が手に入ると思ってしまった愚かしさと、そうまで盲目的に突き進む烈しさ、恐ろしさが、ザ・那美、で好きなんですけど。 
彼女のやったことは、ストーカーが殺人を犯した、くらいに言っても良い気がしますが、しかしそういう風には寺山修司は描かなかった。彼女だけが語り手である老婆と接触する特殊な位置にあること、神の存在について歌わせていること、この劇の最後の台詞が彼女のものであること。彼女もまた魔子と同じように、彼女の中の真実と向き合っていたのではないか、と思わせます。その人の「真実」とは、外から他人がフェイクかどうか判定できるものではなく、例えどれだけ愚かでも、他人に迷惑をかけても、ゆるされるものでなくとも、当人にとって「真実」であればどうすることもできないのでしょう。そのままならなさこそが、人間であるということなんだろうなと思う。全身全霊で情念を燃やした那美さんに、どうしても惹かれてしまう理由です。

*************

1/10追加


海王星の子守唄なんだけど

魔子が唄う「不漁で娘は売られてゆき」な歌詞と、彌平が唄う「大きくなれや我が息子」な歌詞とで、歌詞が2種類ございますけれども。 

先日拝見した「魔子が唄ってたのは彼女の生い立ちではないか」っていうフォロワーさんの説に成る程〜!と思ったんですが、そこと関連して、そもそも魔子がなんで子守唄知ってるのかっていうところ気になってるんですよね。大人である彼女に、彌平がどんな状況で子守唄を聴かせたのか。寝物語に唄ってやったことがあるんだろうか。覚えるほど何度も。魔子が自分で自分の生い立ちを唄ったのかもしれないし、魔子が語った生い立ちを彌平が歌詞にして唄ってやったのかもしれないな、など。もちろん、彼女の生い立ちとは無関係に、悲劇的な歌詞の子守唄というのが彌平流のペーソスとユーモアなのかもしれない。歌詞についてはわからんけども、少なくともベッドで唄ってやってたんだろうなぁとは思うわけです。魔子は彌平にとって“景品”のようなものではあったし、魔子だって愛よりも家庭への憧憬が先に立っていたと劇中では言われてるんだけど、それでも不幸と孤独を背負ったふたりが体温をわけあって慰め合ってきた時間のことを思うと泣けちゃうし余計面白いんですよね海王星…そのうえで、魔子と猛夫が子守唄をきっかけに強烈なシンパシーを得て出逢っていることが、どれだけ皮肉なことかっていうね。 

まだまだ心がとらわれているなぁ〜