6 from HiGH&LOW THE WORST とは何だったのか

なぜ誠司は記憶喪失にならなければいけなかったのか?

ヤンキー論で読み解く6ザワの精神


■はじめに

 

■ヤンキーという補助線

 ●ヤンキーとは何か

 ●ヤンキーの歴史

 ●失われた居場所

 

■漫画の中のヤンキー

 ●ヤンキー漫画史

 ●ヤンキー漫画の現在地

 ●髙橋ヒロシの美学

 

■6ザワに見るヤンキーの精神性

 ●絶望団地という主役

 ●希望の星とは何か

 ●反知性主義

 ●父性の不在

 ●ヤンキーの見る夢

 ●ヤンキーの本質

 

■おわりに

 


 

 

■はじめに

 

ハイローのスピンオフ(のスピンオフ)である6ザワが不評だった。一部好意的な感想も見かけなかったわけではないけれど、私の観測範囲内では全体的に批判か沈黙が多かった印象である。有料ゆえ好意的な人が多いであろうHI-AXオンラインサロン内においてすら、話を経るごとに感想投稿が減っていったことを考えると、やはり盛り上がりに欠けたと言わざるを得ないだろう。

他の人の感想と一致するかわからないが、私も視聴中はずっと困惑が先に立っていて、理由としては多分、キャラクターの行動や話の展開が腑に落ちなかったからだと思う。「このテーマではこの展開しかない」というような必然性が感じられず唐突なものに思えて、疑問ばかりが溜まっていった。例えば次のような。

 

なぜ誠司は記憶喪失になる必要があったのか?

なぜ皆あっさり基晃を受け入れるのか?

なぜ新太が選んだ道が洋食屋なのか?

なぜオロチ兄弟はバイクを売ったのか?

なぜ“父親”不在がかくも目立つのか?

なぜマドカは音楽の道を志さないのか?

なぜ楓士雄には夢らしい夢がないのか?

 

どれもこれも「いや、“そう”だから…そういう設定だから…」としか言いようがなく、心から納得することもできず、なんだか飲み込めない感じが積み重なっていった。

意図がわかるものに対しては、自分の中で「好みじゃない」とか白黒つけられても、意図がわからないものに対しては「なんで?」と答えを求めてしまう。その結果としてオフェンシブな気持ちになったり、何だったんだ…と虚無感を引きずったりすると精神衛生上よろしくない。かといって私の場合はキッパリ忘れることもできなかった。何せハイローは最愛のコンテンツなのだ。よって、6ザワとタイマンを張る気持ちで、自分なりにわかったような気になれるところまで調べたり考えたりしてみた。

 

これは、作品を見るときに、自分の立ち位置を変えてみたらこういうものが見えたという報告だ。物語を飲み込めるまで咀嚼したうえで、受け入れ難かったものとハイローへの期待を言語化して自分の心の整理をつけようとした個人的な記録でもある。ケチをつけているように見えてしまうかもしれないが、どこに粗があったかを逐一指摘して溜飲を下げるようなことは目的としていない。作品自体の価値を相対的にはかろうとはしていないので批評ではないし、他の角度から見えるものを否定するつもりもない。円柱は真上から見れば円だし真横から見れば長方形だが、どちらも間違いではないのと同じだ。そして、どの角度から見たとしても、別に円柱そのものの価値を毀損することはないだろう。ただ色んな角度から見て全体像を掴みたい人にとっては、「こっちの方向からはこう見えましたよ」という報告はひょっとしたら役に立つ、かもしれない、くらいのスタンスで書き記すことにした。

 

本文の前半は、ヤンキーとは何か、フィクションの中のヤンキーと髙橋ヒロシのヤンキー観、後半はそれを踏まえて6ザワの解釈を述べている。前半だけでもだいぶ長文になってしまったので、もともと詳しい方は適宜読み飛ばしてほしい。

 

 

続きを読む ◾️ヤンキーという補助線

 

まず、6ザワはヤンキーの物語だった。私がそれをようやく理解したのは最終話のラストに至ってだった。いやいや今更何を当たり前のことを、と笑われてしまいそうだけれど、「物語の登場人物がヤンキー」であることと「物語の価値観がヤンキー」であることは違う。そして前者のつもりで観ていたら、6ザワは後者だったということに、ラストの楓士雄のモノローグでようやく気付いたのだ。この物語はヤンキーのメンタリティを充分理解したうえでないと把握できないのかもしれない、ということに。そして自分が6ザワに向けていた疑問や感情が、6ザワそのものや作り手に対してなのか、それともそこに描かれたヤンキーの精神性への反応なのか、曖昧な部分があることにも気付いた。

 

まずはヤンキーについて解像度を上げなければならない。その上でもう一度物語を捉え直す必要がある、それが最終回を観て抱いた最初の感想だった。

 

●ヤンキーとは何か

 

そもそもヤンキーとは何か。なんとなく「不良少年全般」の意味で捉えていたが、調べてみたところでは言葉の起源も諸説あり、定義も固まっていないことがわかった。ヤンキーと呼ばれる層は自らを文字にして語ってこなかったため内部からの分析や著述はないし、また、外側からの彼らに関する研究も数が少ないらしい。

少し侮蔑のニュアンス(洗練されてない、田舎臭い、落ちこぼれなど)を含む他称としてのヤンキーはかなり狭い対象を指しているように思うが、「ヤンキー的なもの」や「ヤンキー受けするもの」まで含めて見ればその裾野は広く、ヤンキー文化は日本では非常にメジャーな存在として人気を博していると言ってもいい。

 

となると論ずる人によって「ヤンキーとは何か」も異なってくるわけだが、まず、最も狭義のそれに焦点を当ててみると、宮台真司の言う「地域社会における年齢階梯性をベースにした不良集団」ということになるだろう。「年齢階梯性」とは農村社会学の伝統的な概念で、年齢によって区別される若衆組、青年団、老人会などの集団を年が上がるにつれて移行していくプロセスのことだ。上位の年齢集団が下位の年齢集団を統率して社会的な統合をはかる制度である。つまり、ヤンキーとは個人ではない。地域社会に包摂された、先輩後輩の上下関係に厳しい、“集団”なのである。

彼らはアウトローとして逸脱しているように見えて、実は地域社会に組み込まれた存在である。先輩に手引きされて暴走族に代表されるような不良集団に属し、成人前に引退して地元で定職に就き、早く家庭を持って子供をつくる。ほとんどは18歳、遅くとも成人前に引退することが多いのは、少年法で守られず実名報道されるようになると社会復帰しづらくなるためだ。「引退」は最初からヤンキーの人生設計に組み込まれており、地元の大人たちの中には「もう落ち着いた」暴走族のOBがいて、後輩が地元社会へ溶け込んでいく手助けをする。社会復帰のロールモデルとなるOB達とのタテの繋がりによって、引退後のまっとうなライフプランがある程度保障されているからこそ、彼らは安心して期間限定のドロップアウトを楽しむことができる。地域社会のほうも順化する彼らを祭りや伝統行事の担い手として受け入れ、そこには、逸脱集団をゆるやかに包摂しながら地域共同体を保持し秩序を維持するサイクルが出来上がっている。

先輩後輩の上下関係がどれだけ重要かを示す証言として、元ヤンの漫画家として作品のリアリティに定評のある山下ユタカによると、「不良の本質はコネクション」なのだという。つまり、誰のバックに誰がついているかがヤンキーにとっては全てなのだと。現実の不良同士が顔を突き合わせると「テメェ〇〇さん知ってんのかコラ」とどっちが強い後ろ盾を持っているかの勝負になり、肝を潰したほうが「すみませんでした」と引くため、あまり実際の喧嘩には至らないらしい。繋がりがモノをいう世界で、顔色と空気を読みあう極めて社会的な機構がそこにはあるという。

ヤンキーを「地域社会における年齢階梯性をベースにした不良集団」とするならば、それは地元で煮詰まっていく人間関係が、ヤンキーとしての地位を、そして引退後の人生の成功までもを左右する世界である。地元を持たない人間からすると、正直、想像しただけで閉塞感に息が詰まりそうだ。

 

●ヤンキーの歴史

 

しかしこういった正統派ヤンキーは今や絶滅寸前である。警視庁によると暴走族(走り屋などを除く“共同危険型暴走族”に限る)の構成員数は、ピークを迎えた1982年には4万2千人以上いたが、2020年はざっと5千人程度まで減った。まだそれだけ残っているとも言えるが、その分布地域に偏りがあることも考えると、全国的にはやはり希少な存在になってきている。今時はホンモノの暴走族なんて見たことがない若者のほうが圧倒的に多いだろう。暴走族だけがヤンキーというわけではないだろうが、他の形のヤンキーも推して知るべしである。

 

ここで現在に至るまでのヤンキーの歴史について簡単に振り返ってみよう。

 

彼らの歴史は1970年代に遡る。正確に起点を打つならばその少し前、1968年ではないかという主張もある。これは矢沢永吉が故郷の広島から上京した年、そして本宮ひろ志の漫画『男一匹ガキ大将』の連載が始まった年だという。どちらも「成り上がり」を目指す上昇志向のストーリーなど共通点があり、ヤンキーにとってのシンボル的な存在である。

そこから70年代に入りその後、80年代初頭までを通して、それまで「ツッパリ」と呼ばれることが多かった不良少年は「ヤンキー」と呼ばれるようになっていく。その語源についての諸説は割愛するが、定義が明確ではないまま「ヤンキー」は口伝で広まり日本各地で一般的に用いられる言葉になる。なお、この時期は暴走族が社会問題化していくタイミングでもあり、摘発のために道交法が改正されるのが78年のことだ。リーゼントや特攻服というお決まりの扮装の広まりと共に、暴走族は全盛期を迎える。

 

80年代にはメディアでもヤンキーのイメージが固められていく。学生服を着た猫が「なめんなよ!」と言っているキャラクター“なめ猫”がブームになったのが81年頃だ。バラエティ番組でヤンキー設定のキャラクターが登場したり、嘉門達夫が「ヤンキーの兄ちゃんのうた」でヤンキーあるあるを歌ったり、横浜銀蝿の「ツッパリHigh School Rock'n Roll」がヒットしたり、ヤンキーなるもののイメージはお茶の間に浸透していった。『BE-BOP-HIGHSCHOOL』や『湘南爆走族』といったヤンキー漫画も80年代前半に連載開始され、それぞれ実写映画化を含め成功している。ヤンキー文化は拡大し、80年代半ばには最盛期を迎える。

しかし流行りは廃れる。80年代後半には、学校側が生徒のヤンキースタイルに対抗して制服をブレザーに切り替えていく。ヤンキーを気取りたくとも改造した学生服を着用できない、これは圧倒的に効果があったらしく、ヤンキーの数は減り始める。そして86年からのバブル景気を迎え日本中がブランド志向に傾く中、ヤンキーは古くてダサいもの、という印象が強まっていく。

 

90年代、従来型のヤンキーに代わってチーマーとコギャルが現れる。生徒を管理したい学校側にとっては皮肉な事に、ブレザーの制服はヤンキーを放逐する代わりにミニスカとルーズソックスに象徴されるコギャル文化を生んだのだ。コギャルが渋谷に集ったように、チーマーやカラーギャングは縄張りとしての「シマ」を持っているにしろそれは生まれ育った土地ではなく、彼らは地元志向ではなかった。その点で正統派ヤンキーとは対照的である。

ヤンキーは昭和の遺物とみなされ、現実世界からリーゼントの不良少年はますます減ってゆくが、一方で、ヤンキー漫画は現実を離れたファンタジーとして成立し続ける。髙橋ヒロシの『クローズ』のヒットはその代表格である。この時点でクローズがどういう存在であったかは後ほど詳しく述べる。

 

ちなみにこの90年代に、不良少年としての当事者ではない「普通の人々」に染み付いたヤンキー性に対する批評的な眼差しが生まれ、ヤンキー文化論的なものが出てくる。最初に着目したのはコラムニストのナンシー関ではないかという話がある。彼女は「日本人の三大気質はヤンキー、ミーハー、オタク」と言い、芸能界や一般大衆に蔓延した美学・趣味的なものとしてのヤンキーマインドを指摘していた。それまで人々の意識に上らなかった、けれど実は世間に広く偏在していたその思想は、存在を観測されたことによって可視化され、「ヤンキー」という言葉は狭義のそれを離れ広義の意味を持つようになっていく。

90年代末期には「DQN」というネットスラングが生み出される。反社会的で非常識な言動をする人々への蔑称だが、対象がヤンキーや元ヤンだったりすることも多い。明確な不良集団に属しているわけではなくともヤンキーマインドを持った人々という意味では、これまた広義のヤンキーと重なる存在である。

 

2000年代、狭義のヤンキーをほとんど見かけなくなる代わりに、広義のヤンキーについては引き続き注目があり、オタク文化と対比してのヤンキー文化が論じられたりする。「ヤンキー的な人・物・事」——当時のそれは例えば浜崎あゆみやEXILE、ドンキホーテやケータイ小説など——はメジャーなカルチャーとして拡大・再生産されていく。

広義のヤンキーもやはり完全な定義は難しいが、例えばライターの永江朗はヤンキー的なるものを「それは成熟と洗練の拒否である」とまとめたし、エッセイストの酒井順子は「それはつまり、ちょっと(もしくはかなり)下品で安っぽくてセンスが悪くてクールじゃなくて情に訴える、という感覚」とし、「日本人であるならば、全ての人の精神の中に、濃淡の差こそあれ、ヤンキー的要素は存在する」と主張した。社会学者でメディア史研究を専門とする難波功士は「階層的に下とみなされがち・旧来型の男女性役割・ドメスティック(自国的)またはネイバーフッド(地元)志向」という三要素を帯びているものと定義した。いずれの説も、それを踏まえさえすれば必ずヤンキーであるというものではないが、ヤンキー性の特徴はよくあらわしている。

 

2010年代には、2014年頃に博報堂の人がマーケティングの観点から「マイルドヤンキー」という言葉を“発明”した。地元志向や保守的な生活ぶりを鍵に「ファッションも精神もマイルドな今どきの新ヤンキー」の消費動向について発表したのだ。マイルドヤンキーは新たな地方経済の主役だとして一躍脚光を浴びたり、他方「地方の一般人の現実に対して都心の人間が勝手に名前を付けて“再発見”した気になっているだけ」と批判を受けたり、しばらくメディアを賑わせた。

それ以降は、ざっと調べてみてもヤンキーについて特段の再定義などは見つけられず、ヤンキーという存在に対するあれこれは、一層進んだ格差社会についての各論に吸収されていったように思われる。

 

●失われた居場所

 

以上の通り、世間の消費行動の変容によって80年代後半から流行が廃れ、狭い意味でのヤンキーは「時代遅れ」になっていったわけだが、経済のグローバル化に伴う地域社会の空洞化もヤンキーにとって大きな打撃であった。90年代のバブル崩壊以降、地場産業が衰え、それを基盤とする地域の繋がりが急激に消えていったのだ。ヤンキーにしてみれば、引退後は先輩に紹介してもらって職人になり、技能の熟練と共に給料も上がっていけばいずれマイホームも買えるだろう、といった地元での人生設計が成り立たなくなったわけである。地域のコネと就職先が縮小していき、競争も激しくなった。文部科学省のデータによると、1990年度の高卒者就職決定率は98.3%だったのが1999年度には88.2%まで下がっている。高卒新卒は大卒者に比べ地元志向が強い。彼らの就職状況が90年代を通して悪化したことは、ヤンキーの急激な衰退と無関係ではないだろう。

 

実在のヤンキーを取り巻く環境が悪化するに伴い、世間でのイメージも変わってゆく。

日本人が一億総中流と言われていた頃、高校行って大学行ってサラリーマンになって終身雇用制で定年まで同じ会社で働くことが「当たり前」だった時代には、見通しが良すぎる人生への反発は共感を生み、敷かれたレールからのドロップアウトは魅力的に映ったのかもしれない。

しかし、バブル崩壊後の“失われた20年”を経て安定した生活に手が届きにくくなった社会では、人生のレールからのドロップアウトは致命的なものとなった。2010年代台以降になると、若い子にとって現実のヤンキーのイメージは「所得低そう」という身も蓋もないものになってしまうらしい。非正規雇用、ワーキングプア、子供の7人に1人が貧困、こんなキーワードに囲まれていれば無理もない話である。

 

かくして本来の意味でのヤンキーは死に絶えつつある。しかし、“気合”や“絆”を重視するヤンキー的な精神性はひとつの美学として日本人の価値観に大きな影響を与えているという言説が見られるように、その存在はどこか身近なものであり続けたし、「ヤンキー的な人・物・事」つまりヤンキー文化は今なお健在だ。そして現実から乖離したフィクションの世界でもヤンキーは一定の地位を保ち続けたのである。

 

 

■漫画の中のヤンキー

 

漫画界でもヤンキーものは一大ジャンルである。登場人物が広義のヤンキーであること、仲間との絆を描いていること、世界観を形成するヤンキー独自のファッションやスタイルが登場すること、こういった定番の“文法”さえ踏まえていれば、比較的何を描いてもヤンキー漫画たりえるのがその特性である。ヤンキーものはバトルアクションにもなればギャグ漫画にもなる。学園ものや車・バイク漫画や恋愛漫画、SFにもなる。その汎用性の高さからバラエティに富んだ数多の作品が生み出されてきている。

『ヤンキーマンガ ガイドブック』(DU BOOKS)を片手に時代を遡ってみると、ヤンキー漫画にはそれぞれの時代のヤンキー像が映し出されているらしいことがわかった。以下、私自身がちゃんと全巻読みきっていない作品も一部含まれるが(それでも部分的には読んだことのあるヒットタイトルばかりだ)、ヤンキー漫画批評の第一人者であるライター森田真功の解説を下敷きにして、メジャーな作品とその変遷をまとめてみる。

 

●ヤンキー漫画史

 

70年代のヤンキー漫画のキーワードは「硬派」や「生き様」である。本宮ひろ志の長編デビュー作『男一匹ガキ大将』(1968~73年)はヤンキーの歴史の始まりでもあった。カリスマ性がありケンカ好きの主人公、テンションの高いせりふ回しなどで、ヤンキーという言葉が広まる前に不良少年のイメージを決定づけ、ここから「ケンカもの」「番長もの」の作品路線が広がっていく。

70年代の不良漫画は、警察や学校、ひいては大資本や国家権力などに立ち向かう反体制の要素を含む。しかしながら、テーマは社会的なものではなく、あくまでも男の生き様やロマンという文脈に回収されているものが多い。

 

80年代、ヤンキー全盛期のヤンキー漫画の特徴はラブコメ的な軽さと明るさである。70年代に成り上がりや立身出世のストーリーが長編で描かれたのに対し、一話完結型で日常を描く作品が増える。初めての「学園ヤンキーもの」である『BE-BOP-HIGHSCHOOL』(1983~2003年)と、暴走族ものでありながら青春ギャグの比率が高い『湘南爆走族』(1982~87年)がその代表格であり、後に続くヤンキー漫画の様式形成に大きな影響を与える。この2作の共通点として、登場する不良少年の多くが中流家庭で育っていて経済的自立への意識が薄いこと、そして特定の地域を舞台としていることがあげられる。つまり喧嘩で名をあげたとしてもそれはあくまでローカルな出来事で「全国制覇」には繋がらないのだ。“一億総中流”の意識がすっかり根付いた時代には「社会に出ればどうせ世間並」という諦念がどこかにあり、当時の若者は大きな野望を抱くよりも目の前のモラトリアムを充実させようとする方向に向かったのだろう。こうして新たなヤンキー漫画のひな形が生まれ、等身大な少年たちの恋や青春が描かれるようになっていった。

 

90年代、実在ヤンキーの全盛期から遅れて、ヤンキー漫画の全盛期が到来する。90年代初頭の時点ではどの少年誌にもヤンキー漫画が連載されているような状態となり、広がった市場に新しい漫画家が参入して沢山の作品が生みだされていった。重要なヒット作の多くは、連載開始時期が80年代の後半から90年代の前半に集中している。

現実世界ではヤンキーはすでに衰退期に入っているためか、ヤンキーという存在をネタとして扱うような、硬派なヤンキーもののパロディと呼べるような作品群も生まれる。週刊少年マガジンの『カメレオン』(1990~2000年)は、小心者の主人公がハッタリ・機転・強運だけでカリスマヤンキーになっていくコメディ、週刊少年サンデーの『今日から俺は‼』(1988~97年)は高校デビュー的に「今日から」ツッパリデビューしたヤンキーコンビの学園コメディで、どちらも人気を博した。

また、藤沢とおるの『湘南純愛組!』(1990~96年)はヤンキーコンビが「脱・ヤンキー」を試みるという設定で、その片割れが元ヤン教師となった『GTO』(1997~2002年)も含めて、前提としてヤンキーを時代遅れ・モテない・ダサいとみなす認識が強まっている。

一方で髙橋ヒロシの『クローズ』(1990~98年)は、ヤンキー同士の抗争とそこで得られる承認を輝かしいものとする正統派ヤンキー漫画として大ヒットを飛ばした。月刊誌で展開が遅めのためか、人気が出たのは連載中盤以降からだったが、“遅れてきた王道”を貫いて熱烈なファンを抱え、ヤンキー漫画史上に不滅の金字塔を打ち立てている。

90年代も後半になると、『BAD BOYS』(1988~96年)や『疾風伝説 特攻の拓』(1991~97年)の終盤で、内面に問題を抱えたダークヒーロー的キャラクターがインパクトを残した。総中流社会の恩恵が弱体化した時代に、生まれや育ちで不良少年になるしかなかった人物像が登場し、共同体の中にすら居場所がない孤独や壊れた精神などの観念的な要素が描かれるようになったのだ。

こうしてヤンキー漫画の様式は90年代に細分化され、それぞれテーマも深く掘り下げられていった。ヤンキーは昭和の遺物という認識がありながら、ヤンキー漫画はむしろ平成に入って花開いたと言えるだろう。

 

90年代と00年代をまたぐ頃、「卒業」や「成人」によっていずれ終わるモラトリアムのその先を描いたシリアスな作品がいくつか現れる。髙橋ヒロシが『クローズ』の後に青年誌で連載した『QP』(1998~00年)は、少年院を出た後で暴力を捨てて更生しようと願う主人公と、悲惨な裏社会にしか居場所を見つけられなかったかつての友の確執を描いた。田中宏の『莫逆家族』(1999~04年)は、かつて暴走族のトップだった30代の主人公が建設作業員としての日々にフラストレーションを溜め込んでいる中、身内を襲った悲劇をきっかけに「死んだまま生きてく」ことをやめ、“家族”という疑似マフィアを形成するという異色の作品だ。これらの作品では、不良少年としてしか生きられなかった者たちが、大人になっても不良少年の思想を捨てずにやっていけるのかどうか、モラトリアムの外側でどう生きるのかという切実なテーマが描かれ、後続の作品にも影響を与えた。

 

「モラトリアムの外側」というキーワードに関連して、00年代後半からはヤンキーものの範疇に含まれない「アウトローもの」が流行したことにも触れておきたい。裏社会の凄惨さを露悪的に描く『闇金ウシジマくん』(2004~19年)や、元スカウトマンの経歴を持つ和久井健による『新宿スワン』(2005~13年)といった、リアリティをもってアウトローの世界を描いた作品群だ。特に前者では「ヤンキーくん」編でかつての暴走族のヘッドがヤクザに借金を作ってしまうところからの崩壊が描かれており、裏社会には表社会より更に徹底した搾取構造があるだけだという現実が容赦なく突きつけられる。

精神科医・批評家の斎藤環は『闇金ウシジマくん』が持つ批評性をもとに、ヤンキー漫画が一般に大風呂敷だったりコミカルだったりする理由はドロップアウトの悲惨さを覆い隠すためであり、その優しいファンタジー性を剥奪してしまうとヤンキーは「負け犬」として描かれるほかない、それだけ我々はヤンキー文化に幻想を抱いているのだ、と論じている。

 

ヤンキー漫画なりのリアリズムとして、モラトリアムのその先でどう身を置くかに目を向けた作品が登場する一方で、90年代に多様化した各種様式は00年代もそれぞれ継続して受け継がれる。しかしこの時期に台頭してくるのは80年代から90年代のヤンキー漫画に親しんだ団塊ジュニア世代の漫画家たちだった。そのせいか、80年代・90年代を舞台にした懐古趣味の作品が目立った。00年代前半はヤンキー漫画のターゲットが新陳代謝しておらず30代以上の読者が多いということも指摘されており、市場は若干停滞していた感がある。しかし2007年に髙橋ヒロシの『クローズ』が『クローズZERO』としてオリジナルストーリーで実写映画化され興行収入25億円のヒットを飛ばしたことを機に、再びヤンキー漫画に注目が集まるようになった。

 

2010年代は業界全体のリバイバルブームもあって過去にヒットした作品の続編がたびたび描かれるようになる。続編といっても、原典のキャラクターのその後の人生を追うのではなく、舞台を同じくして数世代下の少年たちを描いた世代交代ものだ。『湘南純愛組!』と舞台を同じくする『SHONANセブン』(2014〜19年)などがあげられる。

また、『ドロップ』(原作・品川ヒロシ/2007~11年)の成功に続いて『デメキン』(原作・佐田正樹/2010年〜)など、元ヤン芸能人などの若かりし頃を描く私小説・自伝の漫画化も増えた。いずれも実写映画化された人気作である。ちなみに実写といえば2018年にドラマ化・19年に映画化した『今日から俺は!』のヒットも記憶に新しいが、こちらはリバイバルブームの一環だろう。

リバイバルブームと、それに後押しされた続編もの、あるいは過去を舞台とする自伝もの、いずれもノスタルジーを引きずっているが、どちらとも違う路線としては『ヤンキー塾へ行く』(2011~14年)とその直接の続編『塾生★碇石くん』(2014~15年)がある。基本的にはコメディながら、タイトル通り勉強して脱ヤンキーを目指す物語であり、主人公たちがDQNと見られていることの屈託が描かれていたり、いわゆる「下流社会」の描写に現代的なリアリティがある。なお、本作が途中で『塾生★碇石くん』にタイトルを変えてリニューアルした理由のひとつとして、元ヤングマガジン編集長の関純二は〈タイトルに「ヤンキー」が入っていると書店に敬遠されがちであること〉をあげ、ヤンキー漫画の衰退と市場の縮小は致命的なものである旨を述べていた(2014年時点)。

 

●ヤンキー漫画の現在地

 

これまで、ヤンキー漫画に未来はないのでは、という懸念は度々あちこちで囁かれてきた。『クローズ』『WORST』シリーズ以降、同等のヒット作は生まれていない。読み手の高年齢化や市場の縮小に加えて、書き手の発掘も困難になってくるだろうという見込みもある。現実世界から実物のヤンキーが著しく減ったということは、実際にヤンキーを観察してきた層も減ったということで、今後の若手にはリアリティをもってヤンキーを描ける人材が生まれにくいかもしれない。

 

しかし、ヤンキー漫画は汎用性が高い。若者世代が迎えている現実に照応した形でこれまでも時代によってその様式を変化させてきたし、その可能性と訴求力にはまだポテンシャルがある。

 

その証拠に2021年現在、和久井健が週刊少年マガジンで連載中の『東京卍リベンジャーズ』がヒットを飛ばしている。青年誌ではなく少年誌での掲載であり、ヤンキー漫画を好む層以外への訴求力が強い。現時点で累計800万部突破とすでに売れてきているが、年内のアニメ化と実写映画公開を控えており、一般知名度の上昇で更なる大ヒットへの期待が高まる状況だ。

本作は、死ぬ運命にある恋人を救うために主人公がヤンキーだった中学生の頃へタイムリープを繰り返す話である。一般的なタイムリープものが「同じ体験を何回も繰り返すことで攻略法を見つけていく」あるいは「未来を知っていることが有利に働く」展開になりがちなところ、本作ではタイムリープがルート選択にはなりえても主人公の強さにはあまり繋がらない。代わりに何度も修羅場をくぐっていくことで「根性を養っていく」のが極めてヤンキー的だと森田真功は評している。また、タイムリープの結果として裏社会で成り上がる選択肢はむしろバッドエンドルートとして描かれており、そのことが00年代以降のヤンキー漫画的なリアリズムを担保しているとも言える。

物語は、主人公が2017年に26歳のフリーターとして底辺の生活を送っているところから始まる、つまり何者にもなれなかった若者が人生をやり直す話になるわけだが、主人公たちの年齢的に、やり直しをはかるその“人生”には平成という時代と現在の若者の姿の投影がある。そういう意味で本作は、タイムリープという要素を取り入れつつも、時代を映しながら姿を変えてきたヤンキー漫画まさにそのものであり、新たな可能性を提示してくれた重要作になるだろう。

 

●髙橋ヒロシの美学

 

以上、1970年代から現在までのヤンキー漫画の流れをおおまかに追ってきた。ところどころで髙橋ヒロシの名前が出てきたが、その存在がヤンキー漫画界でいかに大きなものかは特筆に値する。

『クローズ』は累計発行部数4,600万部、続編の『WORST』やスピンオフ作品など関連作を含めると9,000万部を超えるというビッグタイトルだ。シリーズが20年続き信者とも言える熱狂的なファンを今なお抱えていること、映画化による一般層への知名度、フィギュアやアパレルなどにも展開して成功していること、弟子筋の漫画家らによる数々のスピンオフ、そして何よりも、様式を確立してその後のヤンキー漫画に与えた影響。これらを考えると、業界での存在感は映画におけるスターウォーズやアニメにおけるガンダムに近いと言う声もある。一大帝国を築いたと言ってもいい。

 

シリーズの特徴は、高校を舞台にしながら親も教師も女性キャラも出てこない閉じた世界観にある。ヤンキーだけしか出てこない、いわば囲われた箱庭なのだ。そこである種のスポーツのように喧嘩が繰り広げられ、「強い男」が後から後から登場し、どの派閥が天下を取るのかという戦国時代のような群雄割拠の様相を呈してくる。

そこには社会の目はなく、ヤンキーを卑下する自虐的な要素はない。話作りも、自らを「グレてもいねーし ひねくれてもいねえ!」と語る主人公をはじめ、いかに男気がある魅力的なキャラクターを登場させるかという点に注力されている。作者はキャラ創作について「トイレに行っていて重要なケンカに参加し損ねる」ような間抜けな面も大事にしているとインタビューで語っていたが、それは抜け感があってこそキメた時に際立つという緩急の話であって、前提としてヤンキーという存在に対する時代遅れの悲哀のようなものはないのだ。主人公からして高校生なのに学ランを着用せずスカジャンというところも新しく、登場するキャラクターの髪型や服装がころころと変わるところからも、作者が本気で自分がカッコいいと思うスタイルを描こうとしていることがわかる。同時期の他のヤンキー漫画が「ヤンキーだけど◯◯」「ヤンキーなのに◯◯」という設定を盛り込んでいた中で、髙橋ヒロシはひたすら強くカッコ良い男たちとしてヤンキーを描き、改めてヤンキー漫画の“王道”を作り上げたのである。

その人気は今も続いている。秋田書店は2020年「髙橋ヒロシまんが大賞」を実施した。従来の新人漫画賞に、『クローズ』『WORST』のキャラを使った作品の部門を設けたのだ。いわゆる二次創作というやつを出版社の漫画賞で募集するのはなかなか異例のことではなかろうか。新人漫画家によるスピンオフを多数打ち出してきた同シリーズならではだろうが(その数と品質についての批判はあるものの)、それだけ『クローズ』『WORST』のキャラクターが魅力的で今なお色褪せていないということでもあるだろう。

 

なお、当然かもしれないが、キャラクターを魅力的に描けば描くほど、現実世界のヤンキーからはかけ離れていく。そこは髙橋ヒロシが元ヤンではないことが影響していると思われる。髙橋ヒロシ本人は「学生時代はヤンキーでも真面目でもない中途半端な奴って立ち位置だったので、ヤンキー連中の側にいるのが楽しかった」と語っており、ヤンキーの内側ではなく観察者のポジションにいたことがわかる。

漫画評論家・ライターのツクイヨシヒサは、ヤンキー漫画の作者を元ヤン/ノンヤンキー/グレーゾーンの3種に分け、不良文化に近しい観察者ポジションだった作家をグレーゾーンとして、ヤンキーへの思い入れや理想を投影して“生きている実感”などのポジティブな面を描こうとする傾向が強いと分析している。逆に元ヤン作家はリアルを重視するため、“オンナ”や“小悪党”絡みのネガティブなエピソードを登場させるという。女性キャラを登場させず、ヤンキーの矜持や男気、生き様を描いた髙橋ヒロシの作風は、まさしく前者にあたる。

ポジティブな面ばかりではリアリティに欠けていると元ヤンからは少し白けた目で見られることもあるかもしれないが、しかしヤンキーのダークサイドを覆い隠したそのファンタジー性こそが、ヤンキー漫画愛好者を超えて一般層にも人気が飛び火した要因だっただろう。『クローズ』『WORST』シリーズは作者の抱くヤンキーへの思い入れと美学に支えられているのだ。

 

その美学の一環として、『クローズ』『WORST』では舞台を同じくしてキャラクターが世代交代していくが、上の世代はモラトリアムのその先へ踏み出してゆく。作中、ヤンキーを「引退」するということは社会に出て真っ当に働くこと、という意識は強い。例えば、引退した実力者が鉄工業を営む実家を継いで、行き先のない連中の受け皿となったりしている。まさに実在ヤンキーの定義のところで述べた、後輩が地域共同体に溶け込む手助けをするOBの姿である。引退を前提にした期間限定のモラトリアムだからこそ多少のヤンチャは許されるし、そこで全力を出し切って暴れることで高校3年間は輝かしいものになる、その後はきっちりケジメつけてこそ格好いいという世界観なのだ。また『QP』でより深く描かれたように、社会復帰できずにそのままアウトローとして裏社会に足を踏み入れることは、搾取され裏切られる血生臭い世界に身を置くことで、幸せには程遠いという前提もある。ちゃんと卒業してこそのヤンキーなのだという髙橋ヒロシの信念は徹底している。 

 

こうしてみると、ハイローにおける鬼邪高定時がいかに本来のヤンキーの定義およびヤンキー漫画の“お約束”から外れた存在かというのが際立つ。年齢階梯性のようなものはなく実力主義であり、“県内”とかではなく“全国”から不良が集まっているため地域性がない。鬼邪地区はSWORD内における縄張りとしての「シマ」に過ぎず、地域の表社会との繋がりは無いだろう。更に好きなだけ留年してモラトリアムを自主延長できて、引退して社会復帰するのではなく裏社会に進むことを目標とするヤクザのスカウト待ち。髙橋ヒロシがハイローとのコラボのオファーを受けたときに「俺ならそんなフラフラした設定にはしない、そんな世界に鳳仙は出せない」と一旦渋ったというのはさもありなんだし、そこからよくあのような見事なまとめ方に至ったものだと、ザワには何度でも驚嘆させられる。

 

 

■6ザワに見るヤンキーの精神性

 

ようやく話を6ザワに戻そう。そもそもヤンキーとは何か、そしてフィクションの中のヤンキーと髙橋ヒロシのヤンキー観、ここまでの前提を踏まえたうえで、6ザワの物語を成立させているヤンキー的メンタリティについて個人の解釈を述べたい。

 

●絶望団地という主役

 

冒頭で「ラストの楓士雄のモノローグでようやくヤンキーの話だと気づいた」と書いたが、そのセリフを書き起こすとこうなる。

 

「俺達は周りから陰口をたたかれ忌み嫌われる絶望団地で生まれ育った。

 自殺者は毎年出るし、放火騒ぎは何度もあったし、しまいには殺人事件まで起きる。

 確かにいい環境とは言えねぇよ。

 この地区で事件や騒動が起きると真っ先に絶望団地の人間が疑われる。

 ウチの母ちゃんと真也・正也の母ちゃんはしょっちゅう団地の入口で警察とやりあってたよ。

 俺はあの二人の姿が好きだった。なんか団地を守る女戦士みたいでさ。

 そりゃあ悪いことする人もいたよ、それは認めるよ。

 でもそんな奴らばかりってわけじゃないんだ。

 俺の周りを見てくれよ。綺麗な心を持った素敵な奴らばかりだぜ。

 俺はあの絶望団地で生まれ育ったことを誇りにこれからも生きていこうと思うんだ。」

 

まずは治安が悪すぎる、と突っ込みたいところだが、初見で感じたことは最後の「誇り」という単語への違和感だった。

年々自殺者が出るほど生活に困窮して幸せじゃない人が沢山住んでいた環境で、たまたま自分の周囲には素敵な人もいたからといって、その環境自体を誇りに思えるかどうかというと、私の感覚では難しい。「環境は悪かったが個人の体感としては悪くなかった」という体験から、環境自体を誇らしく思うところまでは、かなりの飛躍があるように思う。

客観的に見れば悪い環境を誇りだと言う心境には、その現状を肯定しようとする開き直りと、よそ者にとやかく言わせたくないという外部への強い反発を感じる。そう、「誇り」である以上、それは傷つけることを許さないということであり、他者からの批判、いや、評定する視線自体を拒むものだろう。その「他人がおいそれと口を出せない」感じは、人が家族のことを話すときによく似ている。つまり、楓士雄にとって団地の住人は丸ごと家族なのだ。

 

ヤンキーとは地域社会における関係性によって成り立つ“集団”なのだということは最初に触れておいたが、その人間関係の中でも、彼らは何よりも家族の絆を大事にする。原則的に早婚で早く子供を作るし、女性には性的魅力とともに家庭的であることを求める。元ヤンの著名人はそのほとんどが強い家族愛を語っている。守るべき家族こそがヤンキーにとって最重要事項であり、その延長線上に家族と同じく大切な仲間がいる。家族主義とそこからくる仲間主義はヤンキーのひときわ目立った特徴なのである。

 

そう思えば「なぜ皆あんなにあっさり基晃を受け入れるのか?」という疑問は真っ先に解ける。家族だからである。家族だから心折れた時に帰る場所として機能するし、問題行動があっても受け入れる。辻と芝がやたら献身的に基晃の面倒を見るのも、家族だからだ。二人がとびっきり優しいから、ではない。彼らが心優しい人間であることは否定しないが、基晃が団地出身者でなくとも同じ扱いをしたかはわからないだろう。

 

私が楓士雄のモノローグで気付いたのは、この物語はヤンキーによる地元讃歌で、団地出身者は全員家族で、いわば全6話延々と身内自慢を見せられていたがために私は話に乗れず立ち尽くしていたのだなということ。そして6ザワの主人公は楓士雄でも幼馴染6人組でもなく“絶望団地”だったということ。ヤンキーにとっての古き良き地域共同体へのノスタルジーがこのドラマのテーマだったんだな、ということだ。いかにも髙橋ヒロシらしい、ヤンキーのポジティブな側面のみに光を当てた優しいファンタジーだった。

 

ここで踏まえておくべきこととして、現実社会で地域共同体とヤンキーの互助ネットワークが解体されつくしている今だからこそ、すでに存在していない絶望団地を“未だ生きている共同体”として描くことが「奇跡」となるのだ。第一話でタイムカプセルを掘り出すために仲間が集ったことを、楓士雄は「これが奇跡ってやつだぜ!」と言うが、これは6人の友情以上に、メタな文脈として過酷な現実を意識してのワードチョイスだったのだろう。

 

●希望の星とは何か

 

楓士雄のモノローグでもうひとつ気になったのは、警察は絶望団地にとって敵だということである。母親たちを「団地を守る女戦士」とまで言うならば、やりあっていた警察官は侵略者であり、偏見をもって団地の人間を忌み嫌う外部の人間の代表ということになるだろう。絶望団地の人間が警察を敵視していたのは間違いなさそうだ。

 

ではなぜ、誠司の父は、誠司の将来の夢は、敵であるはずの警察官なのか。設定としての正義感の強さ・真面目さを表し、かつ団地に居住する程度の経済状況に相当する職業というところでは納得するような気もするが、それだけではないだろう。わざわざこのモノローグで「警察」について言及したのは、明らかに意図があると私は思う。このモノローグの前に、誠司がタイムカプセルに埋めた次の夢が「10年後もみんなの希望の星でいたい」であると明かされるシーンがあるからだ。警察官を志していた誠司が、その夢を放棄して仲間にとっての「希望の星」であることを優先させた、ということが感動的な逸話として描かれている。これは一体何を意味するのだろうか。

 

社会学者の鈴木謙介は、若者文化の分析の中で、彼らが「自分の帰属先」として曖昧に用いる「地元」という用語のことを「ジモト」とカタカナ表記し、こう説明している。〈ジモトの根拠となるのは、地理的な境界というよりは、ある領域の中で培われた関係に基礎づけられた「物語」の位相であり、そして常に生きられることによってしか確認されないような、理念的なものである〉と。

これを6ザワに当てはめてみると、自分たちを地元仲間だとする彼らの自意識とは、絶望団地という領域の中で積み上げてきた仲間内の「物語」の集合体であり、それは外側から提示しうるものではなく内的に体験される時間のみによって保たれている、ということになるだろう。「俺たちはここからやって来た」とか「帰るべき心の拠り所」といった帰属意識がないと“ジモト”という共同体の構成員ではいられない。もし積み上げてきた「物語」を失えば、帰属意識を支えるものは何もない。だから記憶喪失は「俺たちの地元」にとって最大のピンチとなる。すでに住みかとしての絶望団地が失われ物理的な縛りがない以上、同じ「物語」を共有していることだけが仲間の証だったのだ。

そんな最大のピンチを前に、楓士雄たちは「物語」をまたこれから作ることで誠司を受け入れる準備があることを示し、誠司もまた「敵」である警察官になることよりも仲間を優先させた、いわば団地に恭順してみせたことで、敵ではなく身内なのだというアイデンティティの再確認がなされたと言えよう。

 

けれど「10年後もみんなの希望の星でいたい」と書いたのは、そもそも記憶を失う前の誠司である。記憶喪失によって誠司の過去と現在が断裂している今、過去の誠司が仲間だったことは明らかなはずなのに、なぜそれを感動的に再確認しないといけないのか、なぜいちいち揺らぐアイデンティティの確認をしなければならないか。

それは誠司がもともと「希望の星」だから、つまり、インテリのエリートだからだと思う。エリートという相容れない属性ながら仲間内にいる、その「仲間だけど俺たちとは違う」という認識ゆえに、ことさらに彼のアイデンティティが問われる展開になったのだ。

ヤンキーは本質的にエリートと交わらない。ただの「デキる仲間」ではなく「希望の星」という特別枠を用意せずにはいられないほどに。良くも悪くもその区別は絶対であり、誠司の地元仲間としてのアイデンティティは記憶喪失前から一番危うかった。だからこそ誠司は、この先もずっと「希望の星」でいつづけると明示的に誓わなければならなかった。強く願わないと叶わないかもしれない「夢」として。

 

これまで触れてきたように、ヤンキーとは地域の中で継承されていく文化である。彼らは中学からの先輩・後輩の繋がりを保持したまま地域の中で大人になり、就職し、家庭を持つ。彼らの世界は地元で完結する。対して、成績優秀者は地元に残らないことが多い。進学校に入り、大学に進むために地元を離れ、都会で大企業や官公庁に入る。成長するにつれ地元との繋がりは薄れていく。もちろん地元に残る成績優秀者もいるし大学だってピンキリなのでこれは極端に類型化した話ではあるが、教育や文化資本の地域格差の話などを耳にする限り、地方の傾向としてこういった一面があるのは間違いないだろう。ヤンキーにとって、エリートとは“俺たちの地元”を捨てる者なのだ。

「地元を捨てる」という概念は地理的なものにとどまらない。絶望団地出身の者がエリートとしての人生を歩んでいった場合、格差社会の下層と上層の両方の文化を垣間見ることになるだろう。慣れ親しんできた領域を離れて文化を越境するという行為は、あらためて自らの出自を振り返ることに繋がる。それまでの固定観念から解き放たれ別の視座を得ることで、初めて、自分が所属していた場所や関係性を相対的に見ることが可能になる。その相対化しようとする視線は、楓士雄が「誇り」として外部からの評定を拒んだような内側からの視線とは、もはや決定的に違うものになるだろう。“俺たちの地元”を無条件に肯定することで得られる強い結びつきは損なわれてしまう。やはり、エリートはいずれ地元との縁が薄くなるものなのである。

 

これが、6ザワで誠司が記憶喪失にならなければいけなかった理由だと私は考えている。更に言えば、山王のノボルが悲劇に見舞われた理由のひとつかもしれない。エリートのキャラクターを心身ともに地元に留まらせるための装置として“悲劇”が描かれているのではないか、ということだ。

 

そこに思い至らなかった当初、6ザワにおける誠司のストーリーは私にとって不可思議なものだった。まず高3の9月(関組事務所のカレンダーより推定)にバイトを始めるという不自然さ。受験生ですよね?推薦決まってるにしても早過ぎない?模試も受けてるし、受験自体はするつもりなのでは?ということは勉強が余裕すぎることの演出としてのバイトなのだろうか?と疑問でいっぱいになってしまう。そして幼少期の夢は警察官。父に倣っておそらくノンキャリア、だとすると全国4位の成績が勿体ない気がしてしまうが、それが誠司にとっての夢なら応援したい。しかしタイムカプセルを開けた時の誠司の様子からして、現在も警察官になりたいのかどうかなどはいまいち判別できない。バイト先での様子ではお金が必要だという切実さも無さそうだし、何だか主体性が感じられないようなぼんやりした印象を受けてしまって、ザワのキュウリ演説で「一番いいスーパーの一番いいところに並んで見せる」と啖呵を切った誠司と同一人物とは思えなかった。

私は、ヤンキーとつるみながらも何恥じることなくエリート街道を驀進してみせるというあの心意気に胸を躍らせていたので、誠司の将来にはとても期待を寄せていたのだ。「僕の仲間は、兄弟たちは、グレてもいないしひねくれてもいない」というセリフも『クローズ』の主人公である坊屋春道へのオマージュであり、誠司はエリートでありながら主人公性を引き継いだ重要なキャラクターなんだなと思っていた。そこへまさかの交通事故で記憶喪失である。

事故後、仲間はもちろん誠司自身を心配するが、誠司の進路を心配する者は誰一人いない。誠司自身すら将来や生活への不安をにおわせることはなく、“悲劇”の全てを「仲間との想い出を共有できないつらさ」に収束させているように見える。

こうして誠司のストーリーを振り返ってみると、彼が「エリート」側に軸足を置くことを頑として拒む、何か見えない流れがあるように思えてならない。バリバリ勉強に励む姿が描かれなかったのは、作為的ではないだろうか? 誠司がもし希望の星として「俺らには手が届かないまっとうで輝かしい人生」に対する期待を一心に背負っているのなら、地元を出て東大に行って国家公務員として警察庁にでも行けばいいものを、決してそういう空気にはさせない何らかの意図が働いているように感じる。

なぜ誠司は「希望の星」でありながらエリート街道を進むことを邪魔されなければいけないのだろうか。ヤンキーにとって「希望の星」とは何なのだろうか。そこを突き詰めてみると、「希望の星」とは、社会の底辺のような出自であっても優秀さを示すことで共同体の品格に貢献し、かつ、決して共同体を裏切らない人間、ということになるのかもしれない。「希望の星」であり続けるためには、優秀さを証明し続けつつも、地元民として身の丈を越えるような成功を掴んではいけないのだ。そして折に触れて地元ファーストだという意思表示をしていかなければならない。どこまでいってもヤンキー的共同体の中でエリートは異物だからである。

 

●反知性主義

 

なぜヤンキーとエリートは交わらないのか。それは、ヤンキーの精神性の特徴の一つが「反知性主義」だからだ。これは「気合主義」という彼らの美学とセットになって裏表をなしている。冷静な分析よりも意気込みや姿勢を重視し、精神の力で肉体の限界は越えられると信じる価値観。気合を入れてやれるだけやってみろ、というスタイル。感性を信じて体当たりでぶつかることを良しとする行動主義。こうした「気合」を肯定する価値観のもとでは、知識や理論は意味を失ってしまうどころか、邪魔なものとみなされる。彼らは「理屈をこねていてもしょうがない。やるか、やらないかだ」といった調子で理論をかなぐり捨てて、“本気”や“熱さ”や“必死さ”を褒め称える。それらは確かによきものであろうが、そういった「感性」を肯定するために、同じくよきものであるはずの「知性」を否定するのが彼らの思想の特徴である。

斎藤環は複数のヤンキー的著名人の思想と行動を分析したうえで次のように述べている。〈当たり前だが、彼らは決して知的水準に問題があるわけではない。しかし、知性よりも感情を、所有よりも関係を、理論よりも現場を、分析よりも行動を重んずるという共通の特徴ゆえに、知性への決定的な不信感から抜け出すことができないのだ。〉結果、その不信感は「頭のいいやつ」をうっすらと軽蔑するような感覚を生み出し、それが社会的成功を収めているエリートともなれば、自らの対極にいる存在として「敵」とみなす傾向があるのだろう。

 

なお、ヤンキーやアウトローの世界でも「頭がいい」ことが評価されることもあるが、それは“生業(なりわい)”の役に立つことが評価されているのであって、知的だから評価されているわけではない。例えばヤクザに弁護士が重宝されることはあっても、哲学者が求められることはないだろう。やはり知的作用を営むことは、役に立たないと切り捨てられる傾向にある。

このような、反知性主義の延長にある実利主義は、マドカのストーリーにも見てとれる。基本「オロチ兄弟の恋と家族」と括れる物語の中で動いていたマドカだが、別途、クラリネットの大会優勝というエピソードもあった。あれがどれ程の規模の大会かはわからないが、それでも彼女自身が将来を夢見るには十分な成果だろう。が、しかし、幼少期の夢を叶えるべく音大に行くとか、指導者に師事するとか、そういう音楽家になるための道、というような話は何も出てこない。せっかく吹奏楽が強そうなお嬢様学校に進んで個人大会優勝の腕前を持ちながらである。受験はするらしいが、あの口ぶりだと音大受験ではないだろう。経済的に厳しいのだろうか、とも思うが、それ以前に、そもそも音楽性を追求する道というか芸術としての音楽という観点が、彼女のストーリーには全く存在しないように思われる。クラリネットはあくまで消息不明の父との絆という泥臭いエピソードの体現であり、再会の可能性をもたらす手段に過ぎない。

もちろん、ヤンキーならではの家族主義をこれでもかと押し出してきた6ザワゆえに、早く結婚して子供を産むのがいちばんという価値観でマドカがオロチ家の嫁となる姿が描かれていることは明らかだ。先に触れたように難波功士はヤンキーの三要素のひとつに伝統的なジェンダーロールをあげている。マドカは、家族を守れる心身の強さと、料理を好む家庭的な面、両方を備えた実に良い嫁として描写されている。家庭以外に大事な夢を持つことはヤンキーの嫁としては失格になるのだろう、ゆえにクラリネットについても音楽家を目指すような“高望み”はせずに、大会優勝で父に名を届けることがゴールだったためそれ以上の成果は望んでいないと暗に示されている。

しかし、音楽に対する解像度の低さの理由は、それだけではないだろう。ヤンキー的な精神は、彼らの基準で「役に立たない」知的営為を好まない。高尚で難解なものも嫌う。これは根本的に芸術との相性の悪さを意味するのではないだろうか。

ミュージシャン・音楽評論家の近田春夫は、ヤンキー的とされる音楽の系譜をまとめる中で、彼らは商品的・市場的可能性を音楽性より重視する特徴があると述べている。つまり、商売っ気が強いのだ。決して品質が低いというわけではないが、アーティスティックな感性が生み出す先鋭的なものにはなりにくく、必ず売れる大衆ウケの良いものになる。「シノギ」としての音楽で、商品として価値のある作品がきっちり創られている、ということだろう。

この「シノギ」感は音楽だけではなく他のアーティスティックなジャンルにも及ぶ。髙橋ヒロシの『QP』の中では、モラトリアムを脱しつつまだ何者にもなれていない青年が漫画家を目指しているのだが、そのスタンスは「漫画を武器に世に出るんだ!」というもので、漫画の中で何を表現したいかというものではない。好きで好きで描かずにいられないというものでもない。漫画はあくまでも“生業”で、成り上がるためのひとつの手段なのだ。

マドカのクラリネットも、自己表現というよりは、父親に届く程度に名を上げるための手段に過ぎなかった。だから大会優勝のその先は考えていない。夢を諦めたわけではなく、地元を出て行かなきゃならないような夢は最初から持っていないので、本人には自分の可能性を捨てているような意識はないだろう。その善し悪しはさておき、タイムカプセルに埋めた次の10年後の夢には、マドカはクラリネットのことは書かずに家族や子供に関することを記しているはずだ。反知性主義の延長である実利主義と、家庭を守ることを最優先する家族主義が合体すれば自然とそうなるしかないからだ。

 

●父性の不在

 

嫁候補としてのマドカたちも含め「絶望団地の強い母」が圧倒的な存在感を残した6ザワだったが、ここで気になるのが父親の不在である。何せ幼馴染6人全員に父親がいない。

 

[父親の所在]

楓士雄:不在 (死別か離婚・未婚かは不明)

オロチ兄弟:死亡

マドカ:離婚後の消息不明

誠司:死亡

新太:死亡

 

絶望団地については住んでる世帯のほとんどが片親だという話もあったが、それにしてもいないのが父親ばかりであることにはどんな理由があるのだろうか。

 

重ねて斎藤環によると(ヤンキーの精神性をメインに書かれた本が他にないので彼の著書が重要な参考文献となった)ヤンキー文化は原理よりも関係性優位であるがため女性的であり、圧倒的に母性原理なのだという。サンプルとしてヤンキー的とされる芸能人の自伝などを見ると、宇梶剛士、鈴木紗理奈、哀川翔らはこぞって母親の多大なる影響を語っており、父親に比べてその存在がいかに「重い」かがわかる。ヤンキーが語る母親たちは、大抵「力強くてサバサバしている」「厳しいけどめっちゃ愛情詰まってる」といったタイプだ。6ザワで登場した母親像とぴたり重なるものがある。

斎藤環が対比させたのは「抑圧し切断する父性」と「つながり包み込む母性」だ。例えば、彼の専門領域である引きこもり支援の場において、父性原理の暴力は最終的に家から放り出す追放になるが、母性原理の暴力は「あなたのため」の強制介入という形になり関わりを強要する。関係性の保存を優先するヤンキーの世界ならば、圧倒的に母性が強いというわけである。

正直、斎藤環が前提とする女性性や母性に関してはそのまま飲み込んで良いものか判断を保留している部分もあるのだが、次の指摘については実にわかりやすかった。

〈彼らが正面から父親と対決することはほとんどない、そのような対象として父親が語られることもない。いささか乱暴にまとめるなら、多くのヤンキー成功者は、いっさい父殺しを経ずして、むしろ母の精神的庇護のもとで、成長を遂げているようにすらみえる〉

そう、ヤンキーは父殺しをしない。精神的な父殺しとは、抑圧する存在を倒し乗り越えて一人前になるということであり、それまでに与えられてきた規律や人生観をリセットする葛藤を伴い、人間としての成長を促す通過儀礼である。これはヤンキーの家族至上主義とは相容れないだろう。彼らは共同体が同じ「心」を持っていることを重視する。哀川翔の言葉を借りると〈ウチは『家庭』って感じじゃない。それより『家族』。いや『家族』ってより『族』だよ。同じ集団に属しているっていう族。なになに族。同じ精神ですってことでもあるし、同じ血ですってことでもある。〉となる。しかし父殺しをしてしまうと、子は自立した個人として生き、親と一心同体ではなくなってしまう。それは家族主義に対する個人主義の確立であり、「絆」で結ばれた集団を志向するヤンキーとは相性が悪い。ヤンキーの世界では、個を切り離すことのない連続的・包摂的な存在としての「母」が幅を利かせるわけである。

6ザワにおける父親存在の希薄さもこのためだろう。新太は父の面影を追っているが、シェフとしての父親ももし生きていればいずれ乗り越えるべき存在になってしまう。逆に言えば、すでに亡き存在でこれ以上袂を分かつことができないからこそ、ヤンキー的世界観でも父への愛慕の情を描くことができるのだろうと思う。

 

●ヤンキーの見る夢

 

ここまで見てきた反知性主義からくるエリートへの敵愾心も、強制介入して助け合おうとする家族 ・仲間主義も、やれば何とかなると己を鼓舞する気合主義も、「役に立つ」ことを求める実利主義も、すべてはヤンキーが世の中をたくましく生き抜こうとするサバイバル精神に由来している。

思うに「世の中は金持ちエリートが偉そうにしていてろくでもないもんだが、自分達は人生における大事な物をわかっていて、地元で家族・仲間と幸せにやっていける」という考え方をしていれば、格差社会の階層や「勝ち組」「負け組」という概念から目を逸らすことができるからだろう。エリートの回す世の中はろくなもんじゃない、けれど大事なものはここ(地元の共同体)にあるから問題ない。そう開き直ることで現状を肯定し、不平等な社会の下層にいるということに対する怒りや惨めさを慰撫し、「誇り」を傷付けずに生きていくことができるのではないかと思う。楓士雄のモノローグにも感じられたような「現状を追認する開き直り」は、ヤンキーが格差社会を生き抜くことに自らを最適化させるためのマインドセットなのだ。

このような観点はやはり「都会の人間の上から目線」という謗りを免れないだろうとは思うが、同時に、それでも必要な認識だとも思う。ヤンキー的な考え方を無批判によしとするなら、彼ら自身が「社会はクソ」とか「ろくでもない世の中」と思っていたとしても社会を変えるほうには向かわないため、その「クソ」な社会構造は保持され続けるからだ。社会に期待せずに自分と仲間の力で生き抜いていくということは、新太や基晃のような困窮した子供を周りの子供だけで何とかしようとすることだし、文化資本や教育などの格差も解消されないまま次世代に引き継いでいくことになる。社会への無関心と自己責任論もセットで引き継がれることだろう。

 

そんな風に生き延びることに必死になりながらも、ヤンキーは「夢」を重視する。気合主義は「夢に向かって熱くなる」ことを推奨する。しかし、その夢はだいたい物質的なものだったり商業的成功であったりして、世界が形を変えることは想定されていない。「今」を生き抜こうとするがためのヤンキー的思想は、刹那的でエモいが、より良い世界を夢見ることはできない。過酷な現実に過剰適応した結果、夢さえ「気合いで何とかなる範囲」に収めてしまうようになったのがヤンキーのリアリズムではないかと思う。

 

6ザワでも、共同体の再生と広がりをメインテーマにしつつ、彼らが「手に入る範囲」の夢を掴みに行く光景が描かれていた。それはマイホームといった世俗的なものであったり、将来的に自分の店を持てるような職業に就くことだったりした。

ちなみに髙橋ヒロシ作品では、重要キャラクターの選んだ道はプロボクサー・バンドマン・洋食屋のマスターなどがあり、これらはヤンキー的にかなり良い進路として扱われていることが推察できる。人に使われる立場ではないというところでだろう。洋食屋で修行を始めた新太の選択は、キャラクター生みの親からの最大限のエールだったのだろうと思っている。

 

●ヤンキーの本質

 

一方で、楓士雄はなぜ夢がないのだろうか。幼少期に「サラリーマンになって世界を救う」というヒーロー願望はあったものの、現在、楓士雄が何をしたいのかはサッパリわからない。鬼邪高でテッペン取るというのは当面の目標であって将来の夢ではないだろう。喧嘩バカ、素直、仲間想い、そういった特徴はキャラ立ちとしてはっきりしているが、本質的なところが見えてこない。新太から楓士雄へのアドバイスとして「お前の細胞が命ずるままに突き進め」と気合主義+反知性主義ど真ん中な言葉が贈られているが、どこに進んで何をしたいのかは全くの謎のままだ。

 

これには楓士雄は坊屋春道を意識してつくられたキャラクターだということが大きいだろう。髙橋ヒロシは楓士雄のことを「春道から女好きの要素を抜いた感じ」だと言っている。『クローズ』の主人公である坊屋春道は作者にとっても最も思い入れの強いキャラクターだろうが、続編に出さなかった理由として「2度と描けない」ということが語られている。「二十歳すぎて金髪のオールバックなんてアホじゃんってなっちゃうでしょ。かといって黒髪の春道なんて見たくない。(中略)描けないというより、出しちゃいけないだろうと。あとは読者の皆さんの想像の世界で、どんな風に生きていってるんだろうって思ってもらうくらいが、ちょうどいい」「その後のことが作者であるオレもまったくわかんない。あいつどうしてんだろう?」と。モラトリアムの外で春道が何をしていても、奔放なヤンキーだった春道が姿を変えてしまっていたら、読者は少し寂しくなったりがっかりしたりするだろう。かといって現実的に手が届かないような凄いことをしていても嘘くさくて白けてしまう。現実と理想のあいだで、特定の未来を見せて読者を失望させるよりは敢えて何も見せない、という気持ちはわからないでもない。同時にキャラクターのこういった「わからなさ」を残すことで、コイツ何をやってくれるんだろう?という予測不可能なスケール感の演出をしている節もあるのかもしれない。ヒーローの素顔は全て暴かれない方がいい、知らない方がいいこともあるとする美学である。

 

しかし、そういったキャラクター創作上の理由とはまた別に、楓士雄にはうっすらと感じる空疎さがある。これは楓士雄というキャラがヤンキーの特性をかなり純粋に具現化した存在だからこそ感じるのだと思うが、あの「本質が見えない」「掴みどころがない」感じに対して、「そもそもヤンキーに本質はあるのだろうか?」という疑問が湧いてくるのだ。

結論からいうと、ヤンキーにというか、ヤンキー文化には本質はない。本質があるとすればそれは内容ではなく形式に宿る。80年代以降拡散されてきたヤンキー文化は、常にパロディ要素を含んでいた。ヤンキーあるあるネタとして記号的に消費され、デフォルメされ、常に「まがいもの性」を孕んでいた。横浜銀蝿や氣志團をイメージしてもらえればわかると思う。しかしそこでフェイクか本物かということは問題にはならない。ヤンキーとは様式であり、キャラなのだ。キャラが立っているとはシンボリックな特徴をたくさん持っているということを意味する。リーゼントとか特攻服とか、そういった表面的な様式さえおさえていれば、それはヤンキーとして成立する。だからこそヤンキー漫画はどんな形式にも馴染むことができる。ヤンキーの表象は、常に本質なきパロディとして存在してきたのである。だからこそヤンキーとは定義が難しい。表層的な特徴を積み重ねて記述するほかなく、そうなるとどことなく空疎さが漂う。本質としての理念も理想もないからだ。それは楓士雄にこれといった夢がないことと繋がっているように思える。

 

最後にもう一度、斎藤環の分析を引用する。〈ヤンキーは「本質」を「起源」を語らない。それは「規範」や「理想」を語り得ないことと同じことだ。彼らは「夢から逃げるな」というが、どんな夢かは語らない。なぜか。彼らの行動の基本原理こそが、「気合を入れて生き延びること」にほかならず、その先のことは彼ら自身も知らないからだ。〉

 

 

■おわりに

 

ここまで読んでくれた方、有難うございます。我ながら長々と書きすぎました。

 

総括すると、6ザワは、地域共同体の空洞化とともに滅びつつある正統派ヤンキーにとってのノスタルジー、古き良き“地元”の物語だった。そしてヤンキーの特性を踏まえると、不自然で疑問に思えたところも一応の理由付けができて、物語を飲み込みやすくなった。という話を、味がどうだったかには極力触れずに語ったつもりである。美味いか不味いか以前に飲み込めない…まだ噛んでる…という状態を脱したい、その一心だったからだ。

 

やっとのことで飲み込めた、その上で味付けについて言及するとなると、やっぱりNot for me な部分は多かった。ザワで鬼邪高という箱庭は確かに外の世界に向けて開いたのに、絶望団地に関してはまた内向きに閉じてしまった、そう感じたのが一番の理由だと思う。今にして思えば、村山さんたちがバイクを手に入れて終わったザワに対し、6ザワでは第一話でオロチ兄弟がバイクを売ってしまっていたところが、その対比を象徴しているような気がする。

ただ、自分が受け入れ難いのは何なのか、それはどのレイヤーの話なのか、ということを整理できたので、少なくとも虚無感からは脱することができたし、ハイローの今後への期待もちゃんと持てる心持ちになった。

 

ヤンキーに対しては自分が外部にいる以上どうしたって批評的な目で見てしまうところがあるが、決して大上段に構えてこきおろしたいわけじゃない。わかりやすいベタなものが好きだし、気合主義だって、ハイローにおいて精神性が勝敗を決するシステムは嫌いじゃないのだから、私の中にもやはりヤンキー的なマインドは深く根差しているのだ。批判をするにしても、何に矛先を向けているのか、自分の立ち位置をどこに置いているのか、自覚的でありたいと思っている、というのはエクスキューズにならないだろうか。

 

そして、ヤンキーへの理解を深めることで、ハイローの魅力もあらためて再確認できたように思う。鬼邪高定時がヤンキーのお約束から逸脱していることはすでに述べたが、そのほかにも色々と型にとらわれない面白さに溢れている。「型」を知ったからこそ型破りの良さをあらためて認識した。例えば洗練を拒否するバッドテイストこそがヤンキー的であるはずなのに一周まわって洗練させてしまったの、凄すぎて意味がわからないけど最高だと思う。ヤンキー的なリアリズムにもとらわれないあの圧倒的なパワーに、また気合を入れてもらえる日を待っている。きっと景気良く固定観念を吹き飛ばしてくれるだろう。

 

 

 

 

参考文献

 

鈴木謙介『サブカル・ニッポンの新自由主義』ちくま新書/2008

五十嵐太郎 編著『ヤンキー文化論序説』河出書房新社/2009

難波功士『ヤンキー進化論 不良文化はなぜ強い』光文社新書/2009

斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』角川書店/2012

斎藤環『ヤンキー化する日本』角川oneテーマ/2014

稲田豊史 企画・編集『ヤンキーマンガ ガイドブック』DU BOOKS/2014

原田曜平『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』幻冬舎/2014

 

月刊少年チャンピオン編集部Tweet

https://twitter.com/MonthlyChampion/status/1268811609922605056?s=20

 

高橋ヒロシまんが大賞

https://nexthiroshi.akitashoten.jp/

 

Creepy Nuts・R-指定も大好きなヤンキー漫画!その歴史と変遷を辿る

https://www.tbsradio.jp/507097

 

【特別寄稿】森田真功 ヤンキー・マンガと「今」

https://note.com/wakusei2nd/n/n4d0f374619df