これまで部分的につぶやいていたリーダー論、掘って整理しました。いつもながら強めの幻覚を見てるオタクの妄言です。突っ込みは常時募集中です。
ザワのみならずクローズとWORSTのネタバレもあるのでご注意ください。

ザワ、村山さんとタイマンした後の轟パートをざっくりまとめると「一番強いが人望がなく全日をまとめられなかった轟洋介は、花岡楓士雄と出逢い、自分とは正反対の素直さ鷹揚さに惹かれていく。楓士雄の要請に応え全日生と共闘することで轟の中にも仲間意識が芽生える。佐智雄に負けた楓士雄に対し、轟はTOPの座を一旦預かるとし、楓士雄の頭としての器を認め、補佐となることを選んだ。」ということになると思うのですが。しかし。

頭に必要な条件は強さと人望だけなのか?
村山良樹は轟洋介にどうなって欲しかったのか?


人望というキーワード一つではなく、クローズ/WORSTにおいて語られたリーダーの役割も踏まえ、頭に必要な条件とは何かを整理し、最終的に鬼邪高全日を誰が率いていくのかについて語ります。

●人望の定義

まず、轟には本当に人望が無いのか?視聴者である我々は彼の行動を見てきたので人望がないと言われると納得がいかない気もします。けれど、頭の資格と、本人の努力と、人格的な魅力と、人望は、全部別のものであるので、できれば混ぜずに話したい。

では、人望とはなんぞや。辞書にもよるんですけどここは安定の広辞苑を。

じん‐ぼう【人望】‥バウ

世間の多くの人々がその人に寄せる尊敬・信頼、また期待の心。「―を集める」「―を失う」

そう、人望とは、世間の多くの人々からのベクトルの話なんですよ。一部の人や、自分にとって重要な人からどんだけ信頼されてても、それだけで人望とは言い難い。自分にとって大切ではない相手、ろくに知らないような沢山の人々、そういう層にどう見られているかという話らしいんです、人望という言葉の持つニュアンスは。お殿様が城の外で民に慕われているかどうかの話です。
そして更に言うと、当人がそれを求めているかどうかも関係ない。当人の意思とは無関係に、あくまでも周りが予想する「こうあるべき」姿に対して寄せる「尊敬・信頼・期待」なので。お殿様はお殿様である以上、その仕事ぶりを期待されます。期待したことをしてもらえなければ、尊敬も信頼もなくなる。畏怖されていても、特別な奴だと知れていても、「我々のために◯◯をしてくれる」という期待が出来ないなら周囲は信頼を寄せることはできません。また、当人がそんな期待をされたくないと思っていたとしても、周囲には知ったことではありません。その意味では、人望を欲しているのに得られない人も、人望など要らないと考えて最初から求めていない人も、人望がないという点では等しい。「世間の多くの人々」にとって当人の内面など計り知れない、知る由も無いものであり、逆説的に、だからこそ言動の端々でどういう印象を世間に与えるかということが重要になってくるとも言えます。

以上を踏まえると、轟洋介にはやはり頭としての人望がないのでしょう。彼が辻や芝とどれだけ固い絆で結ばれていようが、村山良樹がどれだけ彼に目をかけ特別扱いしようが、定時が「村山さんとタイマン張っていいセン行った」「コンテナ街で共に闘った」彼に一目置いてようが、それは「世間の多くの人々」ではないからです。轟にとっての「世間の多くの人々」は、彼を取り巻く圧倒的多数は、今や、全日の生徒たちに他ならない。
そして彼が八木工に乗り込んで行ったことや、コンテナ街へ定時を引き連れて行ったこと、それも人望がないことを覆すものではない。人望とは「その他大勢」にどう見られているかの話で、本人の真実や資質を反映するものとは限らないからです。だから、現状、轟を慕い、ついて行きたいというモブ生徒が全日に溢れていない以上は、事実として、轟洋介には人望がないと言わざるを得ないのです。

けれど、繰り返しますが、それは人格的魅力の話と直結はしないし、頭の資格があるかどうかともそっくりそのままイコールではないはず。だから、彼には人望がない、というところを出発点にしたうえで、ザワのドラマおよび映画で描かれてきたリーダー像を整理し、かつ今後の鬼邪高全日の頭を誰がとっていくのかに話を繋げたいと思います。

●ザワ0のリーダー論

時系列でザワ0から振り返ってみたいと思いますが、ドラマで語られたことは要約すると概ね以下の4点でした。

「ボスではなくリーダーであれ」
  ↑
「仲間が居てこそテッペンには意味がある」
  ↑
「拳でぶつかり合い全力で燃焼しろ」
  ↑
「安全圏から踏み出せ」

そしてこれらを教え導く村山良樹の姿そのものをもって、リーダーどうあるべし、という事が描かれました。

鬼邪高というバトルフィールドに居ながら
・喧嘩を避けて逃げていたジャム男
・卑怯な闇討ちを仕掛けた中越の部下
・敵わない相手と闘うことを避けていた司
・格下を見下し「拳で語る」ことをしない轟
・定時と九龍の争いの激しさに呑まれ静かになった各派
は皆、諭され/叱られ/檄を飛ばされており、最終的には村山良樹の手により、全日と定時の分断に至ります。

以前も書きましたが、村山の意図としては、高校生のモラトリアムを守り、そしてその中での完全燃焼を促すことにあります。

HiGH&LOW THE WORST EPISODE.O 全日と定時の関係について整理メモ

https://ameblo.jp/yamagmmmmm/entry-12507418728.html

社会に出て拳を振るえば暴行罪になる、けど学生の内は「子供の喧嘩」として停学処分で済ませてもらえる。というのはクローズの世界の文脈ですが、そんなモラトリアムの中で本気を出して完全燃焼すること、それが許されるのが鬼邪高という特殊な場だということ。村山良樹は、全日生にそれを保障し、ファイトクラブとして鬼邪高が鬼邪高であることを護りました。

村山さんが本当に伝えたかったことは、最終的には仲間の価値なのでしょう。彼がコブラ戦・轟戦・コンテナ街を経て得たもの。けれど仲間の価値なんて、それも真に強い絆を結べる仲間の価値なんて、言葉で伝えられるものではない。本気を出して己を曝け出しぶつかった人間にしかわからないことだから。安全圏から踏み出して、拳に己の魂を込めて本気でぶつかった時だけ、人は付いてくるし、殴り合った相手とすらわかりあえる。それをエピソードとして体現してみせたのがジャム男でした。(あの時、司一派だけではなく泰志もまたジャム男に一目置いたと思います)でも、そうして勝ち得たものの価値は、自分で体感しないことにはわかるものではない。ましてや大人の言葉にロクに耳を傾ける気もない高校生達です。まずは全日というバトルフィールドを整備し、無理やりにでもぶつかり合うよう仕向けるという手段は正解だったのでしょう。

●ザワ0(ドラマ)における轟

ザワ0の轟の行動は以下のような意図をもって描写されていたと思います。

・泰清に頭を譲る発言
格下の相手をしない、全日への執着も希薄=村山への執心の強調

・「アタマのための『君主論』」
①    目指しているのはリーダーではなくボスであり、道を誤っている
②    君主になってやるという意気込み=現キング村山への執心の強調(第一話の「全日とか関係ない。定時も含めて鬼邪高だ」を受け、全日のTOPであることに納得も満足もしていないという描写) (※前田公輝さんのインタビューによると「あれ(君主論)は村山に対する気持ちにリンクしていた」そうですので、村山ぶっ倒す!の前のめりさのあらわれかと解釈。ただ、「現場で本を渡されて一瞬意味が分からなかったが、スタッフがそれだけ轟のことを考えてくれたのだと思う。演技的には僕自身がいちばん轟をわかっていなければならないと思って頑張った」と解釈に苦しんだ旨の発言と共に述べられており、具体的にどうリンクしているのかは明かされていません。/ 『日本映画navi』 vol.83

・八木工業高校へのカチコミ
①    やられたと報告されて「なんで揉めた?」と訊いている
→    行動に建前を必要とする頭でっかちさ
→    やられたモブを「仲間」扱いしていない
②    単独でカチコミに行っている
→ 鬼邪高を舐められたくない気持ち、そのカンバンを背負っている気持ちはある
→ 独りで十分だという飛びぬけた強さの表現
→ 仲間の手を借りることを良しとしない自己完結の価値観
→ それでも理解しついてきてくれる辻・芝との絆

●村山から轟への想い

映画での成長に対比させるかのように、前日譚のザワ0で視野の狭さを強調された轟。第5話で、轟に対し村山さんがハッキリとダメ出しをするシーンは、観ているこちらまで息が詰まるようでした。
あの時の村山さんの「今のお前はつまらない、ちゃんと周りを見ろ」という言葉。「今の」ということは、昔の轟は違ったとも言えるのではないでしょうか。S2からザムにおいて、轟は単独では動いていませんでした。全日の皆を煽動して村山とのタイマンの場を作った時も、コンテナ街へ向かう村山をダンプで追いかけた時も。けれど、ザワ0に至った時点では、格下には興味がないと言い放ち、売られた喧嘩も買わず、辻・芝さえ置いてカチコミに行こうとしたり、単独行動志向が目立ちます。
全日生徒を見くだして相手をしない轟、強い奴をねじ伏せて自分の能力を誇示したい轟、村山に負けたままの自分を受け入れられず苦しんでいるように見える轟。
村山良樹がそんな彼に教えたかったことは、リーダー論や頭の在り方というよりも、どうしたらその飢えが満たされるかということなのだと思います。極論を言えば、村山良樹は轟洋介に幸せになって欲しかったのではないかと。頭になって欲しいというよりも、「おまえそのままじゃ幸せになれないよ、早く気付けたらいいのにね」という想いで接していたのではないかと思う。
だから、ザワで村山良樹の卒業の場に、轟は居ません。村山良樹は、鬼邪高を、残る定時の生徒に託した。全日の子供ではなく、定時の大人達に。村山は轟に自分の後継者としての期待など寄せていなかったと、その肩に重圧を載せたかったわけではないと思うのです。ただ個人的に、自分と重なる放って置けない存在として、彼の視界が開けることを、彼の見る景色が良いものであることを願っていたはずです。(少し話が逸れますが、轟の眼帯、外すときは視野が広がったことの象徴として描かれていましたが、それを着けさせた=視野狭窄だとハッキリさせたのが村山良樹であることは、つくづく凄い脚本だなと唸らされます)

村山良樹は仲間を得て初めて気付いた。独りで到達する頂点など意味が無かったこと。独りだけでは登れない高みがあることに。鬼邪高に来る前の、人を殴っても殴っても満たされなかった村山良樹が気付いたこと、そして過去の自分と重なる轟に伝えたかったことは、かなり大きく括れば、人間愛の話になるのかもしれない。弱いとか強いとかだけじゃない、人が人を想う気持ちの話。だって村山さんが鬼邪高に来て知ったのは、関ちゃんの涙に感じたのは、ついてきてくれる皆に感じたものは、そういうものだったはずです。それを得て、初めて、テッペンから見える景色の美しさに気付き、彼は渇きから解放された。自分が変われば世界も変わることを知った。

一番になれるのが喧嘩しかなかった村山も、いじめっこを見返してやりたくて鍛え始めた轟も、強さを求め始めた根っこは共通しています。おそらくは孤独です。(ヤンキーものの定番というかお約束ではあるので今更ですが。)
S2を観ても二人の子供時代の家庭環境は明確にはわかりませんが、少なくとも親に何もかも打ち明けられるような少年には見えず、友達に恵まれていた描写でもなかったように思います。無条件で自分を認めてくれる存在がいたら、もし「あなたはそのままでいい、いちばんじゃなくてもいい、弱くてもいい、私にとっては大事な存在よ」と言葉や態度であらわしてくれる存在がいたら、多分、子供はあのようにはならない。自分の寂しさと向き合えなかった子供のひとつの成れの果て、なのだと思う。
自分を認めさせないといけない、己の力を見せつけないといけない、そんな理由で拳を使い始めて、そしてイキった相手を捩じ伏せる時の万能感を求め、狩りをするように喧嘩相手を探してはぶちのめしてきた彼ら。だから、村山には轟のことが手に取るようにわかる。昔の自分そのものの彼が、次にぶつかる壁もわかる。
心を通わせる相手なしには何処まで行っても孤独です。どれだけ強くなろうとむしゃくしゃはおさまらず、渇きが癒されることもなく、そしていつか仲間を背負った奴に負ける時が来る。そして負けた後の虚無。まさに「自分が変わらないと世界は変わらない」です。

轟は自分独りで強く在ろうとしていた。そして己が能力を高め、示そうとしていた。けれど、本来、「俺の強さを見ろ」と能力を誇示したがる人間は、認めてくれる人間を必要としている。弱い奴に興味ないなんて嘯いても、結局は他者を必要としている愛されたがりです。本当は人間に興味がなくなんてない。元いじめられっ子なんだから、弱い者の痛みだって実はわかっている。その確かな情があるからこそ、轟は全日で燻っていた辻・芝の心を共感と友愛で掴むことができたし、村山にも執着した。人間に対して向かう心も熱量も持ち合わせている。けれど、轟がその情熱を隠したままでは、己をまず曝け出さない限りは、ついてきてくれる仲間は現れない。
ザワ0で村山さんが語った「ここ(頭)で考えるんじゃなくて、鬼邪高らしくこっち(拳、胸)でモノ考えてみてもいいんじゃないの」という言葉は、かつて拳を交わした轟の中に確かな熱があることを知っているからこその、まずは己が秘めている熱量を曝け出して周りの人間とぶつかり合えというアドバイスでした。

●ザワ(映画)における轟

全日と定時を分断する村山良樹の番長宣言、ザワ0で観た時には轟の表情があまりにも凄くて度肝を抜かれたのですが、ナレーションでは「激怒」と言われたその心情、何とも言い難いあの顔にほんと全部出ていましたね…。よく「怒りは二次感情であり、先に一次感情を感じたことによって発生する」と言われますが、あの時の轟はまさしく、悲しさ・寂しさ・虚しさなどに傷付き、権利剥奪を受容せず、抵抗として怒りを噴出させていたように見えました。
映画で「やんのね、結果」と村山がタイマンを受けた理由については以下の3点かと思います。最早、力でねじ伏せるしか轟に言うことを聞かせられないということ。そして、定時番長の公式決定に対する物言いですから、一応は(対戦のことを周知していなくとも)轟は全日生徒全体の不満を背負っていたこと。(番長宣言の時、轟以外の生徒もブーイングしてましたので)定時生が集まる中、見届け人として辻・芝を伴い、改まっての決闘申込の体を成していたこと。
しかし、S2の時以上にタイマンを愉しむ余裕がある村山に対し、全力で挑んだ轟は、再び負けました。精神性が勝敗を強く左右するハイローの世界において、敗因は視野の狭さだと印象付けるかのように、左目の負傷という結果を伴って。ここで轟の強さを演出しつつも村山が圧勝したこと、はしゃぐ余裕を見せながら勝利したことは、やはり精神性のあらわれでしょう。轟は駄々をこねる子供でした。ボクにだって大人と同じことできるもん、と泣き叫ぶかのような。
再戦に向けて己を鍛えてきたにもかかわらず再びの敗北を喫し、「なぜ勝てない?」と悩みこむようなタイミングで、轟は楓士雄に出逢うことになります。

●花岡楓士雄は何を持っているのか

これまた以前から主張させていただいてますが、楓士雄は、クローズ世界の住人そのもの。ザワ0だけ観ていた時は月島花か?と思いましたが、ザワを観て「こりゃ春道だ」と納得。実際、髙橋ヒロシ先生も、壱馬くんに「楓士雄は春道から女好き要素を抜いた感じ」とアドバイスされたといいます。まあクローズとWORSTも共通する要素がとても多いのですが、あの世界の主人公ってこんな感じです。
突然どこかからやってくる主人公、明るいお調子者だが、強さと優しさを持ち合わせている。大胆不敵で予測のつかない行動に出る。器がデカく、誰もが彼に惹かれていく。実は主人公の内面描写はとても少なく、最初からほぼ完成されて出てくるため、成長するシーンはあまりない。(だからクローズは、ジャンプ的バトル漫画にありがちな強さのインフレとか修行によるレベルアップとかの要素もほとんどない)むしろ、彼に乱され惹かれ動いていく周囲の成長と群像劇がメインとも言える。
ね、これ楓士雄でしょ、と。

村山さんに一目で「轟にないものを持ってるかも」と言わせた楓士雄。轟に無いもの、それは何か。まあ人に好かれる性格、人望と言ってしまうとそれまでですが、何をもってして得た人望かといえば、器のデカさです。器のデカさというのは、その言葉の通り、中にいっぱい物を容れられるということ。許容できる物・事・人の範囲が大きいということを意味します。自分のことでいっぱいな人間は他人を背負ったりできませんから、頭の資格として器の大きさは当然必要ということになります。司に突然「ウチのアタマはこいつ」と言われても「ま、いっか」で、中越に突然「俺たち楓士雄さんの下につきます」と言われても「ま、いっか」です。小さいことを気にしないというわけではなく、大きなことをあくまでも大きなことのまま呑み込めてしまう人間。仲間として他人を背負うその責任も含めて許容し、「ま、いっか」と呟けるのが楓士雄の魅力です。彼にとって「対鳳仙」となれば鬼邪高全日は全て仲間。団地出身つながりも仲間。根本的に人間が好きなんだなと思わせる人懐っこさとあわせて、こんな風に受け容れられたらこりゃみんなデレてしまうわ…という説得力があります。あの轟でさえも、です。

轟は、楓士雄の自己紹介喧嘩(vs泰清一派)と挨拶代わりのハイキックで、まず彼の強さを認めた。視界に入ったところで、村山に「アイツを見てみろ」と示唆され、注視を始めた。そこに鳳仙とやるから手伝ってくれと頭を下げられたわけですよね。きっと、独りで手に負えないと認めることは別に恥ずかしいことじゃないし、頼られるのって悪くない気持ちになるものなのか、と気付かされたのだと思う。そして鳳仙戦での共闘を経て、轟はもう全日の生徒皆のことを仲間だと思うようになれた。皆と同じ目的で全力を出すという経験は、格下だの己の面子だのと拘っていたのがどうでもよくなるようなものだった。それを教えてくれた楓士雄の側に居ようとして、キドラ戦では自ら馳せ参じた轟。
こんな風に、コイツおもしれえという気持ちで皆が自然と楓士雄のもとに集い、楓士雄ならやってくれるという期待を寄せ、楓士雄のためなら一肌脱ごうとする、それが楓士雄の得ている人望です。

しかし、ここで思い出したいのは、楓士雄はほぼ春道そのもの、だということ。クローズにおいて、主人公である坊屋春道は、鈴蘭統一を成し遂げていません。そして、誰ともつるまない孤高の実力者、リンダマンに、負けているのです。(一度目はお互いに自分が負けたと思い込んでいた引き分け、二度目は春道の負け)
WORSTにおいて、鈴蘭史上初の統一を成し遂げて初代番長となった月島花は、やはり、クローズにおけるリンダマンに近い立ち位置(派閥を作らない最強の男)の花木九里虎に負けますが、勝った九里虎がこの男しかいないだろうと後押ししたことで、番長の座におさまるのです。
そして鈴蘭初代番長となった月島花は、番長の役割とは、「火消し」だと語ります。皆が起こすトラブルを収めること。トラブルの発生を未然に防ぐこと。月島花には、坊屋春道にはなかった「統治」の視点がある。
さて、楓士雄はどうでしょうか。

●上田佐智雄 理想のリーダー

今回、スポットがあてられたリーダーはもう一人いました。鳳仙のアタマ、上田佐智雄です。佐智雄は明らかにリーダーの理想形として描かれており、肉体的な強さのみならずその精神性が楓士雄よりも上手であることもはっきりと描かれています。「やれ」ではなく「やろう」と言うリーダーのその先の姿として、非常に完成されたアタマの形、非の打ちどころのない存在として君臨しています。
まず「七森の件」については、クローズ世界あるあるの「敵地に単身で乗り込む度胸と誠意でトラブルを収めることができる」という、いわゆる「敵を感心させる」ほどのレベルの高い人間だという描写です。そしてサバカンがスキンヘッドをひっぱたくのを許さない、下っ端ひとりひとりへの思いやり。すべて己の肩で背負い、結果を考え率先して動こうとする責任感。
神社で楓士雄と出会うシーンでは、重圧を正しく受け止め、奢ることのない内省的な姿もうかがえます。
そして沢村の血まみれの制服を手に吠えるシーンでは、意思決定機関の最高位としての格を見せつけました。
器の大きさとともに、細やかさもふんだんに描かれています。乱戦のさなかにサバカンが駆け込んできたとき異常を察知した視野の広さ、絶望団地に踏み込む前にダチを探しているという楓士雄の様子を横目で伺い(おそらく四天王に通達して)協力した姿勢、周りをよく見て助けに入る戦闘中の余裕など。

こうしてみると、リーダーには強さと人望だけではなく統治力も必要だということがわかります。問題解決能力と言い換えてもいいかもしれませんが、組織の末端にまで気を配り、情報を集め、適材適所で人を使い、的確な判断をくだし、外交をこなして、トラブルの火種を消していくというガバナンス。

この点、楓士雄は佐智雄の足元にも及ばない。クローズ/WORSTの主人公属性を備えつつも、月島花ではなく坊屋春道の精神性を引き継いでいる彼は、番長としての統治能力はまだ持ち合わせていない。
彼は常にやりたいことをやるだけです。仲間のことが大好きだからこそ、結果としてその「やりたいこと」が仲間を守ることになってはいますが、原則的には心の動くまま、何も考えていない。新太を連れ戻そうとする幼馴染一同の会合において「お前は何をやるんだよ」と突っ込まれ、鬼邪高統一のほうに夢中だと吐露していたように。
結果としてその隙の多さが放っておけないとばかりに、楓士雄に尽くしたいと思う仲間が集まってくるのですから、その吸引力は素晴らしいものですけれども、やはり鳳仙全員を心酔させている佐智雄には敵わない。リーダーとしての格の差が映画ラストのタイマン勝敗を決したことは間違いないでしょう。

●鬼邪高全日の今後について

轟は「TOPの座はいったん預かる」と楓士雄に言いました。預かるということは、いつか返すということ。では、その時はいつやってくるのでしょうか。「勝ってもらわねぇと困るんだよ」というラストの流れからそのまま考えると、楓士雄が佐智雄に勝った時、ということになります。そしてハイローの文脈としては、タイマンでは常に精神性の格が高いほうが勝ちます。
しかし、楓士雄は、クローズ世界の住人の性格が強い。先述したように、あちらの世界の主人公の内面描写はとても少なく、最初からほぼ完成されており、別人のように成長するということはほぼないと言えます。(むしろ脇役である鳳仙TOPの月本光政などはリーダーとして見事な変貌を遂げました)そんな楓士雄が、リーダーとして佐智雄を上回る日が来るのかと考えると、もう三年生である彼ら、少なくとも高校在学中には無理ではないかと思うのです。
それにやはり楓士雄は、欠点があるからこそ仲間が補ってくれるタイプのリーダーです。完璧な頭として君臨するタイプではない。ただ、皆に同じ方向を向かせることはできる。皆を同じ席に着かせて、今何が大事なことかを、「おれ馬鹿だから」と言いつつ指摘することはできます。自分で解決策は見つけられなくとも。合議制の議長のようなものです。

今後、ひょっとすると、楓士雄は轟に挑み、轟が勝ってそのうえで楓士雄を番長に推すという、WORSTの月島花・花木九里虎 方式が取られることがあるのかもしれない。でも、花木九里虎はその後、一切学校の揉め事には首を突っ込みませんでした。轟はそうではないはず。楓士雄の側に居続けると思うのです。
それであれば、轟が頭のままという可能性を考えたい。轟が楓士雄に頭の座を返すことはなくていいかもしれない。あえて、預かってくれているままのほうが、収まりが良いのかも。鬼邪高全日は、現三年生が在学している限り、卒業までずっと、あの景色が良い神社でのラストシーンのように、皆でわちゃわちゃと進めてくれればいいのになと思います。トップダウンの反対であるボトムアップの形であれば、独りで全てをこなせるカリスマは必要ないのです。まさしく、TOP DOWNの鳳仙に対しての鬼邪高全日、あるべき姿なのではと思ってしまいます。

いずれにしろ、眼帯を外した轟の目は今や、村山良樹がテッペンから見た景色と同じものを見ている。彼は変わり、世界も変わった。誰とどこで何をするか、それで白湯の味も変わると楓士雄の爺ちゃんも言っていましたが、今や、轟の目に映る何もかもが色を変えたのかと思うと、感無量としか言えません。その先にはさらにオトナという高い山もそびえているでしょうが、それはまた成人してからのお楽しみでしょう。

きっと、村山良樹が彼に願ったことは叶ったと思う。


村山良樹が鬼邪高を卒業した時、轟洋介もまた村山良樹を卒業しているのです。

そして卒業とは縁の切れ目を指すものではない。固定された永遠ではなく、形を変えながら続いていくMUGENです。紡いだ絆は決して切れないし、一緒にいるだけが仲間じゃないのですから。