徳川家康の命日に


久能山東照宮の御例祭に参列して来ました。


叔父の慶朝は、こういった祭り事への参列は

見送っておりました。


というのが、ご宗家が列席する場に

徳川慶喜家はなるべく出席を控えていた


というのが、正しい解釈で


決して、ご先祖さまの事を蔑ろにしていた訳ではなく


別の機会に、ちょくちょく足を運んでいました。


徳川慶喜家としても

家康公への尊敬は当然のごとくあり


この度、姫岡宮司さまより


山岸さん、出席されますか?


と、お声がけいただきました。


以前からの交流で、


私が徳川慶喜家の責任者


として向き合ってくださっており、また


姫岡宮司さまのお人柄のお陰もあり

浮月楼 久保田会長との交流もありで


今回の参列となりました。


徳川慶喜家の参列は多分、50年以上ぶりとなったと思います。


水戸徳川家の御当主もいらっしゃり


初めてお目にかかり、ご挨拶したら


あぁ。。。表に出てくるようになったのね。


と、おっしゃっていました。


徳川慶喜家を閉じる最後として

形を整えようとしている事も、

伝わったように思いました。


来賓には他に


徳川宗家 分家の次期御当主

徳川喜秀さまと


津山松平家 次期御当主

松平齊康さまも


お越しでいらっしゃり、


私が初めて参列したにも関わらず

東照宮の計らいで、上座に座らせていただいたのもご理解くださっていて、

非常に嬉しかったです。


徳川家や松平家の交流会なような物があるのですが、その名も葵交会(きこうかい)


葵の御紋を家紋にする子孫の交流会があり


叔父もメンバーでしたし、母もメンバーでした。


しかし、私は母の娘で、女子は一代までが対象なので


私は外れています。


しかし、叔父の遺言で指名されているので


これまでの風習破り的な


女子ながらも徳川家の当主


という事になったのです。


元々徳川家は女子は継ぐ事が出来ませんが

現代の法律と、家の風習の狭間にあるといっても過言ではありません。


大政奉還がなかったら、どうなっていただろうと

思う事があります。


大政奉還により

徳川慶喜は、全ての立場を辞退しました。


政権の責任は朝廷に返上

徳川宗家当主の立場も辞任しました。


その当時、徳川慶喜には

実子がいなかったので、


仕方なく6歳だった亀之助を

田安徳川家より養子を取り、

徳川宗家当主としました。


後に家達と改名しましたが、

徳川慶喜は全ての財産を家達に譲りました。


それが、現在の宗家の御当主家広さまの曽々祖父です。


しかし、大政奉還していなければ

その時に慌てて養子を取る必要がなく


今のご宗家は、

存在することがなかったと思います。


ですので、今の宗家の方々は

徳川慶喜とは血が繋がっておりません。


その後、慶喜は

10男 11女をもうけました。


夭折した子も多い中


健康に成長した年長男子は4男の厚

そのご長男は脈々と受け継がれ


今回お会いした

喜秀さまが、受け継がれていたのではないかと

思っております。


ちなみに喜秀さまは

家康の時代から数えて20代目です。


今は、徳川宗家 分家として

存在しています。


しかし、江戸時代ははるか昔に終わっております。


私が言って良いものか分かりませんが


もう家の格がどうとかの時代ではなく

そういった事は、歴史として伝えつつも


普通に暮らして、良き交流を持ち

それぞれの幸せを追求するのが、


徳川慶喜が願った世界なのではないかと思っています。


写真 左が喜秀さま


写真右の方は

松平齊康(なりやす)さま


津山松平家をお継ぎになる予定かと思います。


徳川慶喜 7女 浪子(なみこ)さまが

松平齊民さまに嫁がれ


齊康さまはその

ご長男のご長男のご長男


こうして、今もご存命の方々がおられるので、

詳細は載せられませんが


徳川家、松平家といっても

様々な家があり、

全国に散らばっています。


私は

2番 徳川慶喜家です。


これは、大政奉還後の爵位にも通じるものがあると思います。


宗家、慶喜家は 公爵


御三家は侯爵

(水戸家はのちに公爵)


御三卿

(田安、一橋 清水)は伯爵






徳川慶喜は水戸徳川家生まれでしたが、
水戸徳川家からは将軍が出せないので
一橋徳川家に養子として迎えられ
9代当主を4年務めたのち宗家に転出

15代徳川宗家当主となり、将軍になりました。

この頃は、とにかく男子を産め状態で
その為には側室がいるのは当然でした。

側室の存在を否定して
男系にこだわるのは、私は遺伝に詳しい訳ではありませんが

多分、生物学的に無理があるように思います。

徳川慶喜家は

大政奉還後
全く立場がない中、
宗家の一員として籍がありましたが

孝明天皇、明治天皇が

徳川慶喜の功績をずっと大きく評価していて

明治35年に
新たな徳川家として

公爵の授爵と共に
徳川慶喜家

というのが創られました。

明治天皇は徳川慶喜に対して、常に位は
養子にした家達よりも
下の身分にならぬようご配慮くださっていて

どのタイミングで、
徳川慶喜家として、立ててあげるべきかと考えてくださっていたのだと思います。

よく宗家の別家とか、分家
と言われる事もありますが
(怪しい情報 Wikipediaさんも含め)

私たちの意識は少し違います。

ただ徳川慶喜は
周りが何と言おうと、黙って見過ごす。
わかっている人がいる

という意識で、特段、間違いをその場で訂正せずに来ています。

自己主張する事をあまり良しとしない
謙虚な家柄でもあります。

その中で、こうして発信する事は
あまり家風にそぐわないとおもうのですが

家を閉じる前に
正直に伝える事も大切に思い、
こうしてブログに書いております。

そして、偉そうに振る舞ったりしないよう
気をつけています。

色々書きましたが、
何より、今回、慶喜子孫の方々とお目にかかれたのは
非常に嬉しく

東照宮さまには感謝しかありません。

今度、お墓参りをご一緒に

という事になりました。

きっと慶喜公もお喜びになるかと思います。