留学を終え帰国後、就職活動をし、

父の友人の紹介で、英国(香港)系商社


ジャーディン・マセソンに就職出来ました。


本来ならば、就職した社名をわざわざ明かすのも。。。


と、思うのですが、


このジャーディン・マセソンは

幕末に横浜で、様々な商業を行なってきた会社で

幕府軍、政府軍共に関わってきた商社でした。


総務部付で勤めたのち

会長室に転籍となり、秘書のアシスタント業務を

しておりました。


1年くらい勤めていた頃

ずっとイギリスにいた彼が

やっぱり私がいなくなって、相当寂しくなったようで

(正確に言うと、つまらなかったらしい)


それならばと、結婚する事になりました。


1992年の年末に一時帰国し

お互いの両親に挨拶、1月末に両家顔合わせ

2月に結納、3月に入籍

5月に結婚式


と、慌ただしくなりました。


母に


これは美喜が持ってゆきなさい。


と渡された、今泉今右衛門の和食器のセットと

母が結婚式で着た振袖

その他、色々と母や祖母や親戚が持たせてくれました。


振袖は

成人式ごときでは着せてあげられない


と、祖母や母が徳川家のプライドを込めた品でした。











彼はイギリスにいたので、両家顔合わせと結納の席には

欠席


会ったばかりの義両親と結婚式の準備を進めるのは

かなりの緊張が伴いました。


実は、母の実家が徳川家だという事を伝えたのは

結婚が決まってからでした。


リアクションは


だから何?

埋蔵金でもあるの?


ってな返事で、絶句するしかなかったのですが。。。(・_・;


イギリスに行く事ですし、今は特に何かある訳でもなく

いずれどういった事か

わかるだろうと思いました。


また私も一言では説明も出来ませんでしたし。


私の結納の報告を

大叔母様である、高松宮妃喜久子殿下に報告したら


あのお小さかった美喜ちゃまが。。。


と、とても喜んでくださり

お祝いにと、真珠のブローチをくださいました。





結婚式では、私の親族が、徳川、松平ばかりでしたので

席次表が大人気だったようです。


徳川の祖父は当時、パーキンソン病を患っており

祖母はその介護で、家に付きっきりだったので

当初は参列できなかったのですが


2月6日の80歳の誕生日に亡くなりました。


家の風習で

夫が亡くなって1年間は喪に服すという事で

本来ならば結婚式のような華やかな場面には出席できないのですが

3ヶ月の喪は明けたので

出席しても良いでしょうか?


と、お伺いを立てたのは、伝統の名残が

あったのだと思います。


3月に彼がイギリスより日本出張で帰国したので、

そのタイミングで入籍をし、私の苗字が山岸になり、


パスポート取り直し

ヴィザの申請、運転免許証の書き換え、から〜の

国際運転免許証申請

などなど。。。


結婚式の翌日には出国するので

とにかく、慌しかったような記憶があります。


また、彼の会社からも

駐在員家族の研修などもあり

先輩駐在員よりお話を伺う機会も作っていただいたりしました。


全く知らない国に行くのではなく

これまで住んでいた所なので

他の駐在の方よりは、気持ちが楽だったトコロはあるかもしれません。


何より、言葉の不自由がない事は

非常に有り難かったです。


駐在員はとにかく言語。

英語圏でない所に行かれる方は

まずそういった不安があるかと思いますし

駐在準備中、語学学校にも通い始めておられる方も

チラホラいらっしゃいました。


自分が望んだのではなく

家族の都合で海外に住む


という事は、心の準備も不安も大きいです。


海外で仕事をするという夫の活躍を

応援したい気持ちがありますが

自分のキャリアをペンディング、またはギヴアップする

という事です。


私もせっかく就職した会社を退職、その時にかけた生命保険の解約は

何かもの悲しいものがありました。


こうして結婚式を迎え、いよいよ出国。


イギリスに向かいました。


曽々祖母

有栖川宮慰子女王(13代加賀藩主 前田慶寧四女)


曽祖母

慰子妃次女 徳川実枝子




祖母

徳川和子



和子長女 安喜子







時代の移り変わり。

品格は、やはり歴史には敵いません。

(レンタル衣装だし😂)


昔はこんなハリボテケーキ😂😂😂


いい思い出です。