人工透析というのは

あまり詳しくご存じない方が多いと思います。


私の母は、小さい頃から腎臓の働きが悪く


北里研究所で、漢方薬を処方していただいたり


月に一度は東京の病院に通って

診察を受けていました。

(幼少期、甲府市に住んでいました)


関東に引っ越してからも

ずっと病院にかかっていましたが


40歳の時、とうとう腎臓の機能は完全に停止し、

透析を始める事になりました。


私が中学生の時です。


母はその頃には、体重が29キロで

骨皮筋子よ


なんて言っていましたが、

頑張って生きていました。


母が偉いなと思ったコトはたくさんありますが


いつも家が片付いていたコト。


そして、辛かった時も沢山あっただろうに、

私たち兄妹が幼かった頃は

きちんとご飯がありました。


成長と共に、私が料理をする事が多くなり


今の私の料理の原点は

母の病気がキッカケでした。


母と過ごした時間が長かったので

透析は我が家の日常でした。


透析は簡単な事ではありません。


腎臓の機能の代理です。

人間の身体は本当に良く出来ていて


人工的な代わりというのは難しいのです。


腎臓が動かなくなると、体の水分や毒素を

排出できなくなります。


透析しないと尿毒症となり、命に関わるという事で

半年ほど関東中央病院に入院しました。


シャント


と呼ばれる、動脈と静脈を交差する機能を

腕に取り付けていただき、透析の準備が整います。


人工的に血液を排出し、機械を通して2〜3日分の

水分と毒素を取り除きますが一回に数時間かかります。


透析を始めてしまったら、必ず週に3回受け

それを一生続ける事になります。


万が一、透析患者が透析を受けられなくなってしまったら

1週間で命の危機に陥るでしょう。


ですから、災害時、透析患者は

優先的に避難が求められます。


透析には、大量の水と電気と機械が必要です。


一旦止まってしまった腎臓は、2度と機能を取り戻す事が

ありません。


若い方は


透析をしながら、腎臓移植を待っていたりします。


母の腎臓が悪くなった時


私の腎臓を使って欲しいと、申し出ましたが

母は頑なに拒み、病院の先生も


若くて独身の人からの提供は、

引き受け難い


と言われ、透析で命をながらえる事としました。


その昔、1970年代


透析は有料でした。


お金の切れ目が命の切れ目。


破産した上に、亡くなってきた方も多く


それを保険化したのが

田中角栄首相でした。


ですから母は、新潟に足を向けて寝れない


と話していました。


実際は方角を気にして寝てはいませんでしたが。。。

気持ちがそうだったというコトです。


徳川家に生まれながら

辛い一生でした。


母が亡くなった日の夜


旦那さんと2人で焼き鳥を食べに行ったのですが

旦那さんが、一口食べた串を

コレ、美味しいよ。


と、渡してくれた時


そんな風に夫から大切にしてもらえなかった母が

あまりに気の毒で、号泣してしまいました。


焼き鳥屋では、完全にオンナを泣かせた悪者

になっていた夫に申し訳なかった💦



母は常日頃


最大のオシャレは、清潔であるコト。


今日食べるご飯があり

雨ツユしのげる屋根のある家に住めて

健康であるコト。


それが大事です。


と。。。


何より質素に暮らしていて

心の底には誇りを持ちつつも


一生懸命生きていた母が亡くなったのは

1995年3月25日の事でした。


享年53歳でした。


そんな母や叔父が背負ってきた、命を

最後きちんと仕舞うという事を大切に思っています。




母が生まれた時






母が暮らしていた事がある西園寺公望の別荘 坐漁荘(明治村)

(まだ叔父は生まれていなかった)




母が1番元気だった頃




高松宮御殿にて、妃殿下の誕生日のお祝い。

(水色のカーディガンが母)

左より

井手次郎 井手慎 母 井手純 高松宮殿下 妃殿下

徳川和子 井手久美子 徳川慶朝







大事に育ててくれました。


それは、あたかも母が実家で大事に育ててくれた事の

繰り返しのように。。。



無事にお嫁に行き


母はその2年後に亡くなりました。


写真、少し、順不同ですみません。。。