徳川家に生まれながらも


苦労の多かった母が亡くなったのは


1995年の事でした。


53歳の短い命でした。


当時、ロンドンに住んでいた私は

急いで帰国しましたが

そこには危篤状態の母の姿があり


もう2度と話すことができないと悟りました。


その3週間ほど前にも

目は開いていたけれど、意識のない母の姿があり

その時も帰国したのですが

すぐに良くなったので安心し

イギリスに戻りました。


その入院中に

脳幹内出血を起こしてしまい

危篤状態になりました。


急いで再び帰国し、病院に直行したら

瞳孔も開いている状態で母の姿がありました。


もう長くないと悟りました。


どれだけ泣いた事でしょう。


今度の一時帰国の時は、一緒に温泉に行こうね。


好きなところに連れてってあげたいから選んでおいて。


と、言っていました。


のちに母の部屋から

温泉のガイドブックが3冊も出てきて

非常に悲しかったです。


母は昭和17年に徳川慶喜家に生まれました。


母の出生は


公爵 徳川慶喜家の新しい命という事で

皇族をはじめ、そうそうたる華族の方々にお祝いされました。


その時の記録が残されています。








その後、第二次世界大戦の敗戦により

華族は膨大な財産税が課せられ

母が生まれた屋敷は、物納される事になりました。

(現在は国際仏教大学院大学になっています)





徳川慶喜家に勤めていた方々には、

暇を出さざるを得なくなりました。


その後、静岡に移り住み

東京に引っ越し

父と結婚


身体も弱く、結婚生活も

幸せとは言えませんでしたが

母は、とにかく私を可愛がってくれました。





多分、徳川家にとって

女の子大事にする文化があったのだと思います。





私が大きくなり留学に出る朝

玄関で別れたのですが

身体が弱かった母は心の中で


もう娘に2度と会えないかもしれない。。。


と思ったそうです。


その後、留学していたロンドンに

会いに来てくれたのはとても嬉しかったです。


透析をしていると

1週間に3回、必ずしなくてはならず

命に関わります。


イギリスでも受けられるようにと

段取りして、母はやってきました。


透析しながら海外旅行というのは、

非常にハードルが高いです。


それだけ会いたかったのだと思います。


2週間、一緒にいましたが

とても楽しかったです。





その4年後に亡くなったのですが

母が遺してくれた着物などは

やはり想いが残っているのですぐには寄贈とかは出来ませんが


そんな母と娘の思いやりと愛情が


祖母から母へ


母から私へ


と時代を超えて紡いできた歴史があります。







私が26歳の時に母は亡くなったのですが

親孝行はこれからという時だったので

思いを残しており

今も命日のお墓参りは欠かしません。


ちょうど東京芸大の卒業式の日と同じで

桜舞う上野を母の言葉でいう


「キレイなおべべ」を着た若者の間を縫って

墓地に向かうのが、何となく楽しみでもあります。


人は必ず死にます。

母の死を悲しんでいる時も多かったのですが


それよりも今は


ありがとう


の気持ちでいっぱいです。


身体の弱かった母が

自分の命をかけて産んでくれて


1番の親孝行は

自分が健康でいる事と思います。


少々ヤンチャが過ぎるところがありますが

ヒヤヒヤしながら、見守ってくれていると

思っています。