「Auld Lang Syne(蛍の光)」の安らぎと歌い方 そして琉球音階2 

 前回の記事の「椰子の実」(歌曲)に引き続き、歌の楽曲解釈をさらに書いてみます。曲は「蛍の光」、原曲はスコットランド民謡の「オールド・ラング・ザイン(Auld Lang Syne)」です。実は、この記事を書きながら「椰子の実」との興味深い共通点を見つけました(書きながらですので、意図して選んだわけではありません)。それについては後述します。
 「蛍の光」は別れの曲のようになっていますが、原曲Auld Lang Syneは古い友人と友情を温めようという内容です。「蛍の光」の「月日重ねつつ、いつしか年も」の部分だけが原曲の内容の根源的な主題を踏襲しているような感じもします。
 「蛍の光」も原曲「Auld Lang Syne」もパブリックドメインだと思いますので、音形の全部や歌詞も載せます。

(1番の歌詞)
Should auld acquaintance be forgot(昔の友人が忘れられてよいのか)
And never brought to mind?(昔の友人は思い出されなくてよいのか)
Should auld acquaintance be forgot
And auld lang syne!(And days of auld lang syneの場合も)(そして過ぎ去った日々も)
For auld lang syne, my dear,(過ぎ去った日々のために、友よ)
For auld lang syne,(過ぎ去った日々のために)
We'll tak a cup o' kindness yet(親愛の杯を今も(今まさに)酌み交わそう)
For auld lang syne.(過ぎ去った日々のために)

auld=oldの方言、lang=longの方言、syne=sinceの方言、tak=takeの方言
auld lang syne=old long since=(意訳)times gone by(過去分詞でtimesを修飾する形なので、「過ぎ去った時」)

(発音カタカナ抜粋)
シュードーアクゥェィンタンスビーフォゴッt
アンdネーヴァブロートゥーマーインd 
アンdデーイズオブオーラングザーイン
フォーローオラーアングザーインマイディル
ウィルテーカ(ターカ)カップオーカーィンdネスイェt


 音形の解釈にあたって、先にポイントを整理しておきます。

(まず、前回の記事の復習 倍音列については前回の記事をご参照ください)
① 上位の倍音列でなおかつ平均律と一致が良い音程は(完全5度、長2度、短2度、短3度、長6度)です(該当しないのが、長3度、完全4度、増4度、短6度、短7度、長7度です。なお、平均律で実質同等な別呼称の音程は省略。長3度は本来は完全5度に次ぐ上位の倍音列(5倍音から)ですが、平均律とは若干ズレがあります。)。
② 長調の主音ド(階名)に対する長2度、完全5度、長6度であるレ、ソ、ラ、短調の主音ラに対する長2度、完全5度、長6度であるシ、ミ、ファ♯(旋律的短音階の上行)、は、その調性がはっきりした状況下ではその音単独でも、2度なら輝きや透明感、5度なら輝きと深みと安定感、6度なら遠くを見るような独特の味わいといった雰囲気を、平均律でも醸すことができそうです。主音から上に完全5度のソには別の用語では「ドミナント」として、下のドよりも近い上のド「トニック=主音」に移ろうとする働きもあります(終止形のような音形に)。ドミナントは不安定だからトニックへ向かう力があるというように一般的には解説されますが、それは一つの要素であり、完全5度自体には力強さや深みや安定感があると私は感じます。その影響として、ソ↗ドのソはテヌートで引き伸ばす歌い方があります。
③ ドとラの音が並べば、平行調の主音の組として力強さと温かみを感じさせるものになります(同じ短3度でもミ↗ソにはない感覚)。
④ ミ↗ソの短3度には、長調でも短調でもない独特のしみじみした叙情的な雰囲気を醸す力があります。
⑤ レ↘ドは輝かしい長2度の下行による終止の音形になります。(ドミナントの和音の構成音という見方もできます)
(今回気付いたこと)
⑥ ソ↗ラ、ラ↘ソは、完全5度ソの力強さと長6度ラの遠望感と長2度音程の透明感が合わさり開放感や伸びやかさを感じる音形です(「空」とかけているわけではなく偶然です)。レガートで伸びやかに膨らませるように、音量としても伸び伸び大きく歌うのが合うと思います。
⑦ ソ↗ド↗ミは、「極上の安らぎ」を感じる音形です(「極上」には、「ド↗ミが平均律でなく倍音列の長3度の場合は」という条件がつきそうです)。ド↗ミの長3度が前面に出る音形で、長3度は透明感のある長2度と力強さのある完全5度の中間にある倍音列であることから、「安らぎ」を強く感じる音程になるように思われます。倍音列としての長3度音程はピアノの平均律ではやや再現度が下がるため、声楽や管弦楽に向いているのではないかと思います。スクリャービンのピアノ協奏曲第2楽章の冒頭もこの音形ですが弦楽と木管で演奏されます。この音形はミで終止する特殊な終止形にもなると思います。
⑧ ド↗ソ↗ドは、ド↗ソの完全5度の力強さの上にトニックのドが強調され、非常に力強く、ソ↗ドが前面に出るためドミナントからトニックの終止の音形にもなるし、短くシンプルに調性感を確定する要素にもなります。
(前回からさらにもう少し考えたこと)
 ヨナ抜き五音音階、琉球音階の「倍音列起源説(私見)」についてもう少し検討しましたので、これについては末尾に掲載しました。


 それでは、「Auld Lang Syne(蛍の光)」の音形と歌い方を解釈してみたいと思います。

 まず、音形を例の方式(階名、矢印↗↘→による上行下行、│による小節区切りと小節番号)で表してみました。

「Auld Lang Syne(蛍の光)」の音形
4分の4拍子
│1ソー↗│2ドー→ド→ドー↗ミー↘│3レー↘ド↗レ↗、ミ↘│4ドー→ド↗ミー↗ソー↗│5ラーー→、ラー↘│6ソー↘ミ→ミー↘ド↗│7レー↘ド↗レ↗、ミー↘│8ドー↘ラ→ラー↘ソー↗│9ドーー↗、ラー↘│10ソー↘ミ→ミー↘ド↗│11レー↘ド↗レ↗、ラー↘│12ソー↘ミ→ミー↗ソー↗│13ラーー↗、ドー↘│14ソー↘ミ→ミー↘ドー↗│15レー↘ド↗レ↗、ミ↘レ↘│16ドー↘ラ→ラー↘ソー↗│17ドーー│
13小節でドに上がるところは一般的な「蛍の光」では上がらずにラのままのパターンだと思います。
15小節のミ↘レも一般的な「蛍の光」ではミーだと思います。

 

 

 まず、全体としてファもシも一度も出てこないので、つまり「ヨナ抜き五音音階」になっています。だから西洋も東洋もない普遍的な親しみのあるメロディーとなっているのでしょう。
 音形を追うとソ↗ドやレ↘ド、ド↗レのような力強い部分と、ソ↘ミ、ミ↗ソのような叙情的な部分、ソ↗ラ、ラ↘ソのような開放的な部分があり、テンポ感としては、あの閉店音楽風の3拍子(こちらは古いアメリカ映画「哀愁」のために三拍子に編曲され「別れのワルツ」という邦題がついた曲ということで、これはこれでとても叙情的です)の緩めのテンポでも、軍隊の行進曲風でもないちょうどいい具合があると思います。ただ、どちらかと言えば、叙情性や開放感にやや軸足を置いたテンポがいいと思います。

 1小節目から2小節目のソー↗ドーは、前回の「椰子の実」の「いずれの日にか」の最初と同じで、冒頭の音は主音から完全5度上のソとして輝きと深みと安定を感じる「はずの」音であり、フレーズの冒頭として、この音のそうした感覚を心地よく味わうように、そしてアウフタクトの音としても、少し粘ってテヌートをかけてこのソの音を少し長めに歌ってよいと思います。2音目はドミナントのソから予定どおり上のトニック(主音)のドに向かう自然な音程の上行です。なぜ「はずの」と書いたかと言えば、全体の冒頭としてまだ調性感を決定づける要素が全くないメロディーの冒頭の段階では、聴く側としてはソの単音だけから自然に感じられる感覚ではないからです。歌う側は調性感をイメージして歌い始めるので、歌う側にはその感覚はあり、聴く側に伝えるためにも深みを持った音としてソを歌い始めるのがよいと思います。そしてドミナントからトニック(主音)への上行(擬似終止的)により、第1音が主音から上に完全5度のソであった可能性が少しだけ感じられ、つまり調性感がいくらか感じられ始めるのです。そして、ドー→ド→ドーと、ここがトニック(主音)であると念押しするかのように歌われます。
 2小節目、ド↗ミは長3度の上行で、ソ↗ド↗ミの順に重ねられたことにより、ドのトニック(主音)感とド↗ミの長3度で、調性感がさらに付加されます(ソ↗ドが前置きされないド↗ミ↗ソの順だとミ↗ソの短3度という調性不明な独特の情感、叙情性のほうが前面に現れる可能性があります)。つまり、最初の2小節で聴く人にはある程度の調性感が与えられます。
 ここで少し余談を含めた話になります。
 コーラスで和音の練習をする時、ド↗ソ↘ミ↗ドのように順に音を重ねていくことがあるように思います。ド↗ソの完全5度の強さは重要で、まずそこを押さえて、短3度下がった(主音から上に長3度の)ミを加えるのですが、これだけではまだふわっとしているため、主音のオクターブ上を加えてトニック感を強めるわけです。しかし、もっと単純にド↗ソ↗ドだけでもトニック感、調性感は出てきます。この音形の具体例としては、例えば、リヒャルト・シュトラウスの有名な「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭、「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」では終盤の階段の場面でジュリー・アンドリュースが最後に「ドー↗ソー↗ドー」と高音で熱唱し「ソ↗ド」を重ねて終わるのが印象的です。ドミナントからトニックのソ↗ドはかなり強烈な解決感、終止感があるということです。
 そして、このAuld Lang Syneの冒頭の音形│1ソー↗│2ドー→ド→ドー↗ミー↘│3レー↘ド↗レの最初のソ↗ド↗ミ↘レ↘ドという音の動きについてですが、ほかにも具体例がいくつか浮かびました。まず、スクリャービンのピアノ協奏曲嬰ヘ長調第2楽章冒頭が全くこの音形です(ピアノではなく弦楽や木管で奏されます)。さらに前回取り上げたばかりの「椰子の実」の前奏、そして歌の冒頭の音形も何とソ↗ド↗ミ↘レー↘ソーと、レまでは全く同じでした。これを書いていて偶然気付きました。この音形の雰囲気としては、この冒頭の音形ソ↗ド↗ミだけをゆっくりと音を伸ばして歌ってみるとミのところで非常に濃厚な「安らぎ」を感じます。この音形だけでミの音による特殊な終止の形にもなるように思います。これはド↗ミの長3度が前面に出る音形だからでしょう(これまで書いてきた例も同じですが、あと出しの音程が支配的になるようです)。この「安らぎ」は、透明感のある長2度と力強い完全5度の中間だからなのでしょうか。平均律のピアノではなく声でやってみてください。極上の安らぎを感じられたなら、きっとそれは平均律ではない倍音列の長3度になっているのだろうと思います。この音形により「椰子の実」も「Auld Lang Syne」も冒頭から心をつかまれるのかもしれません。中世以降のヨーロッパで、この倍音列の長3度を生かす音律が開発され積極的に用いられたのも頷けます。
 さて、本題に戻ります。2小節目から3小節目、ミー↘│3レー↘ド↗レは、輝かしい長2度の下行が2回、そしてレー↘ドは終止の音形です。フレーズの小さな終止感として、このレの音はほんの少しだけ「緩む」ように長く伸ばして歌ってよいと思います。しかし、ド↗レにより、力強く上行し、ここはまだ終止でなく、次につながることが明確にります。
 ミ↘│4ドーの長3度の下行は輝かしく(私の個人的な感覚かもしれませんが、長3度は上行より下行のほうが輝かしい感じがします)、そして4小節目から5小節目のミー↗ソー↗│5ラーのミ↗ソは調性を薄め叙情的な音形ですので、レガートでつなげ感情を込めるような歌い方が合っているように思います。そしてソ↗ラですが、力強い完全5度のソに遠望感の雰囲気のある長6度のラ、その音程が透明感のある長2度ということで、非常に開放的なイメージがあり、歌い方としては伸びやかにレガートで膨らませ音量としても開放的に大きく歌うのがいいと思います。(後述するロバート・ショウ合唱団の演奏では1番だけミ↘│4ドー→ド↗ミー↗ソー↗│5ラーーの部分がミ↘│4ドー→ミ↗ソー↗ソー↗│5ラーーとなっていて、ミが短く、ここでは叙情性をあえて少し抑え気味にし開放感を中心にしておき、後半の12小節目からのほうの叙情性、気持ちの高まりや2番以降にとっておくような感じになっています)
 5小節目から6小節目のラー↘│6ソー↘ミで、ラ↘ソは前述の「開放感」のとおり伸びやか、長2度下行で輝かしく、ソ↘ミは下行でもやはり叙情的な短3度で、ここ全体としてレガートで音をつなげるように歌ってよいと思います。
 6小節目から7小節目のド↗│7レー↘ド↗レは、先ほどと同じ長2度下行のレ↘ドによる小さな輝かしい終止感で少し緩み、ド↗レで力強く次につなげます。
 7小節目から8小節目のミー↘│8ドー↘ラ→ラーは、ミ↘ドの長3度の下行の輝かしさ、そしてドー↘ラ→ラーは、平行調の主音のドとラの組として力強く温かい音となり、それを味わうように少しゆっくり歌ってよいと思います。そして、ラー↘ソー↗│9ドーでは、開放感のラ↘ソは滑らかに膨らませ、ソ↗ドの力強いテヌートからの終止となります。つまり8小節目からこの終止まで、全体が終止に向かう塊として少しゆっくり歌う感覚でよいと思います。。
 9小節目終わりから11小節目始めは5から7小節目を念押しするかのように同じ音形。
 11小節目終わりから、ラー↘│12ソーと再びラ↘ソが出てさらに12小節目から12ソー↘ミ→ミー↗ソー↗│13ラーと、後半が4小節目と似た音形で、違うのは前半に叙情的な短3度の下行上行の念押しがあって、曲中で最も感情がこもった部分になり、ここはレガートで音をつなぎ、さらにソ↗ラの開放で音を膨らませます。
 そして、13小節目の13ラーー↗ドーは(ただし、一般的な「蛍の光」ではドに上がらない)、力強く温かい音となります。
 14小節目からは14ソー↘ミ→ミー↘ドー↗│15レー↘ド↗レと6小節目からと同じ、ソ↘ミは叙情的、レ↘ドで少し緩み、ド↗レで力強く進みます。
 15小節目から16小節目をミ↘レ↘│16ドーと、レを入れるパターンのほうにしましたが、長2度下行の繰り返しの力強さとレ↘ドの終止感がありこのほうが合っているように思います。
 16小節目からの16ドー↘ラ→ラー↘ソー↗│17ドは8小節目からと全く同じです。ド↘ラは最も力強く温かい音、ラ↘ソは開放感、ソ↗ドはテヌートからの終止であり、味わいと強調のド↘ラ、伸びやかなラ↘ソ、味わいのドミナントと、ここは全部をゆっくり歌ってよいと思います。

 

 

(まとめ)
│1ソー↗│2ドー→ド→ドー↗ミー↘│3レー↘ド↗レ↗、ミ↘│4ドー→ド↗ミー↗ソー↗│5ラーー→、(Should auld acquaintance be forgot And never brought to mind?)
 冒頭のソ(Should)はテヌートでやや引き伸ばして深みのある声で。ミー↘│3レー↘ドのレ(be)は少し引き伸ばすように。次のド↗レ(forgot)は歯切れ良く。ミ↘│4ドー(And ne-)は少し力強くテヌートで、ミー↗ソー↗│5ラー(brought to mind)は音をつないでソからラへ音を膨らませ開放的に声を出して。

ラー↘│6ソー↘ミ→ミー↘ド↗│7レー↘ド↗レ↗、ミー↘│8ドー↘ラ→ラー↘ソー↗│9ドーー↗、(Should auld acquaintance be forgot And days of auld lang syne)
 ラー↘│6ソー(Should auld)は伸びやかにテヌートで、6ソー↘ミ(auld acq-)は音をつなぎ、ミー↘ド(-uaintance)は力強く、7レー↘ド↗レ↗のレ(be)は少し引き伸ばすように、ド↗レ(forgot)は歯切れ良く。ミー↘│8ドー↘ラ(And days of)のミ(And)はテヌートで、ドー(days)から主音を味わうようにややゆっくり、ラー↘ソー(auld lang)はゆっくり膨らませて終止へ。

ラー↘│10ソー↘ミ→ミー↘ド↗│11レー↘ド↗レ↗、ラー↘│12ソー↘ミ→ミー↗ソー↗│13ラーー↗、(For auld lang syne, my dear, For auld lang syne,)
 ラー↘│10ソー(For auld)は伸びやかにテヌートで、10ソー↘ミ(auld)は音をつなぎ、ミー↘ド(lang)は力強く、7レー↘ド↗レ↗のレ(syne)は少し引き伸ばすように、ド↗レ(my dear)は歯切れ良く。ラー↘│12ソー(For au-)は非常に伸びやかに、12ソー↘ミ→ミー↗ソー(auld lang)は音をつなぎ曲中で最も気持ちを高めていき、ソー↗│13ラー(-ang syne)で気持ちを最大に開放し音を膨らませて。

ドー↘│14ソー↘ミ→ミー↘ドー↗│15レー↘ド↗レ↗、ミ↘レ↘│16ドー↘ラ→ラー↘ソー↗│17ドーー│(We'll tak a cup o' kindness yet For auld lang syne.)
 ド(We'll)はテヌートで力強く、14ソー↘ミ(tak a)は音をつなぎ、、ミー↘ドー(cup o')は力強く、15レー↘ド↗レ↗のレ(kind-)は引き伸ばすように、ド↗レ(-ness yet)は歯切れ良く。ミ↘レ↘(For)はテヌートで音をやや引き伸ばし、│16ドー↘ラ(auld)は主音を味わうように8小節目よりゆっくり、ラー↘ソー(auld lang)も8小節目よりもさらにゆっくり膨らませて終止へ。


 
「オールド・ラング・ザイン」の私のとても好きな編曲、演奏としてロバート・ショウ合唱団(男声)による演奏があります。YouTubeにありましたが(11年前にアップされています)、演奏者やレコード会社の公式チャンネルではないので念のためリンクはやめておきます。「Auld Lang Syne Robert Shaw」のGoogle検索で出ると思います。


ヨナ抜き五音音階と琉球音階の倍音列起源説についての考察(前回のつづき)

 ヨナ抜き五音音階、琉球音階(ドミファソシのミを基準にミファソシドとすると、短2度、短3度、完全5度、短6度となり、ニロ抜きではなく一応ヨナ抜きとは見なせる)は倍音列が心理的な動機となり4度と7度が抜かれているのではという私の想像(説)をもう少し考えました。
 まず、完全5度はオクターブに次ぐ最も上位の倍音列で非常に影響力があり、完全5度から基音の2倍音への音程(階名でソ↗ド)が完全4度の感覚の基準となるとすれば、基音から上に完全4度のあたりにある倍音列の音(11倍音、21倍音)はこれとかなりズレているため、あくまで基音からの倍音列を基本として人工的には音程をつくらないことを前提にすれば、まず4度は除外される可能性があります。また、別の見方として、ソ↗ドのような終止感をド↗ファに生じさせてしまうと、音階の中に別の基音を置くことにつながり(ダブルスタンダードとなり)混乱を生じるためファを置かないということも考えられます。こちらのほうが説得力がありそうです。
 そして、完全5度に次ぐ上位の倍音列で、基音に近い側にある倍音列の長3度(5倍音)もそれなりに影響力があると考えられます。ただし、完全5度のかなり正確な7等分の音程になっている倍音列の短2度、この4つ分の音程からは少しズレています(平均律ならピッタリ一致)。
 一方、基音からは完全5度よりも遠い側にある長7度(15倍音)と短7度(7倍音)ですが、それぞれから基音の2倍音への距離と、短2度(17倍音)、長2度(9倍音)の音程はかなりずれています(平均律ならピッタリ同じになるところ)。つまり、倍音列によるシ♭↗ド、シ↗ドの間隔は、倍音列によるド↗レ、ド↗レ♭の間隔とはかなり違うということで、音程感が非常に複雑になります(平均律なら同じです)。もう一つ、ド↗シ♭、ド↗シの7度の雰囲気は、切迫感があり感じようによっては不気味、不安定、不安感があるということ、しかも倍音列ではシ♭、シが平均律よりかなり低めなのでなかなか想像しにくいですが、独特の雰囲気があることでしょう。そのような美的感覚により7度が避けられた可能性もあるかもしれません。
 もう一つ、もっと単純な考え方を思いつきました。完全5度はオクターブに次ぐ絶大な影響力のある倍音列ですから、この基音と完全5度の2音を基準として、基音から上に2音、そして基音の完全5度上からも上に1音つけてみたという考え方です。隊長に2人の部下、副隊長に1人の部下というわけです。隊長は副隊長に近い3人目(つまり4度)は置かず、副隊長も隊長の子(オクターブ)に近い2人目(つまり7度)は置かない。このように基音と完全5度の独立性を保つため、4度と7度という空白ができます。一般的なヨナ抜き五音音階(ドレミソラ)ではドから長2度、長3度、ソから長2度(ドからは長6度)を採用し、長3度から完全5度の間の短3度、長6度から完全8度の間の短3度に空きがあります。一方、琉球音階(ミファソシド)ではミから短2度、短3度、シから短2度(ミからは短6度)を採用し、短3度から完全5度の間の長3度、短6度から完全8度の間の長3度に空きがあります。極めてシンプルに同じ理屈で説明できます。自分の中では今のところ最も説得力があり有力な説です。倍音列が関係ないかというとそんなことはなく、完全5度はもちろん、短2度(17倍音)、長2度(9倍音)、短3度(19倍音)、長3度(5倍音)も上位の倍音列の音程です。(これを書いた後に調べて知りましたが小泉文夫氏の擬似テトラコルド説に構造的にはなんとなく似ています。しかし、そこに完全5度を基準にする考え方はないと思いますので別のものです。)
 いずれにせよ、まだ想像によるこじつけの域にあります。