今日は「3月8日」
国際女性デーです。
日本では先週に、桃の節句がありました
今日は世界の女性達の記念日だとされています。
毎年、この日になると過去に行われた悲惨な「男女差別」等の出来事を追悼したりしています。
そんな「男女差別」
特に日本では儒学の影響が強力で
当たり前のように行われていました。
、
西洋では、色々な革命で早めから「男女差別の撤廃」を定めていましたが
日本が男女差別について動き出したのは
その数百年後の頃
第二次世界大戦後の日本国憲法で始めて、「男女差別」について明記されるようになります
それまでは当たり前のように風習として行われていました。
「女はお婿様のために人生を全うしろ!!」、「女は黙って家事だけにしとけ!」などなど
まるで奴隷のように扱われていました。
実際、祖父母世代までは「女中」という奴隷制度同様の扱いをされた住み込み職があったわけです
よく、「今の家政婦と同じ!」と解釈されがちですが、似てるようで全然違います。
家政婦さんはしっかりと事務所なり、個人なりで正式に対等な契約を行い、公平な収入がお客さんや事務所などによって支払われるわけです
それが、女中さんは今ではありえないほどの安過ぎる賃金で
当時は身売りそのものでした。
これは近代以前のお話
現代の日本はどうでしょうか
多くのネットの声を見ますと
「今は女性の時代!」とか、「今や男性より女性が輝く時代!」なんていうものばかりで
その理由が「今は企業の役員なども女性のほうが多くなり、その分男性よりもスパルタ風潮が起きた。」など
他には、「芸能界でも、昭和は男性アイドルが独占するように輝いていたが、平成から令和はジャニーズよりもAKB、坂道アイドルなどの女性タレントや女性アイドルが目立つようになった。」という声も見られました。
確かにそうですよね
ドラマや映画も今や女優さんの主演数が圧倒的に増えています。
政界でも多くの女性議員が活躍しています
そんな多岐にわたり、女性が活躍している現代
そう考えると、今では男性よりも女性のほうが上のイメージが強いでしょう
実際、自分も「これって今の時代は男尊女卑じゃなくて、女尊男卑じゃね?」
と小学の頃から見てきて思ってたわけです。
とにかく「レディーファースト」の風潮があり
どこに行っても、女性のほうが権力に強い時代だ!
そう思っていたのですが
それは、ごく一部にしか無かったのです。
よく考えてみると
それは違うという事に気づくわけです。
残念ながら、今でも男女差別の仄めかすような家庭内教育が行われてしまっているというのは事実かもしれません。
実際、自分は
3人姉弟でしたが
僕達弟勢は、台所に入らせて貰えませんでした。
自分は、幼い頃から料理などに興味があったりして
よく台所に入ろうとしてたらしいですが
「黙って、入るんじゃない!」
とよく言われてました。
あの肌から見るとタダのスペースに壁が出来たわけです。
そして、言われた事が
「あなたが入る場所ではない!ここはお姉ちゃんとお母さんしかダメな場所!」
なんて言われ
その禁令は姉が上京する頃までありました
やっと台所が解禁して、入れるようになったのは中三の頃
姉が上京してからです。
一昨日も自分は料理しましたが、それが姉がいたら出来なかったわけです
他にも、「男なんだら~は出来ないといけない!」とか「男なんだら~であるべき!」っていうのはよく言われてました
例えば、「男なんだからスポーツは絶対でも出来ないといけない!」とか
自分には無理ゲーな事でした
そんな言って、弟はそれに応えるようにして
スポーツ万能です。
逆に「女の子は料理は絶対出来ないといけない!」とか言って、しつけられてました。
家事は絶対的だったようです
ホントに全て言ってる事が古いですねぇ
今や「LGBT」の時代
「男なんだから〜であるべき」や「女なんだから〜であるべき」というのはもう今では古いしつけになります
今は一人一人に自由な個性が求められる時代となっています。
一人一人、誰もが自由になる時代
この時を最も望んだとされる1人の女性が今回の本題となります。
日本国憲法に定められた「男女平等」
そして戦後の教育基本法で定められた「共学」
それらは、この方がいなければおそらく実現しなかった事でしょう。
そんな多大なる偉業を成し遂げた革命家
その名も「津田梅子」
後に日本初の英女子学校となる「津田英学塾」を建て、後に日本初の女子大学となる現在の「津田塾大学」の設立者であります。
津田塾大学は一時期、「女東大」として女子大学の最難関とされていました。
それらも創始者自身の偉業の力だとされています。
そんな津田梅子の一生を少しだけ簡単に遡っていきたいと思います。
津田梅子の人生
幼少期からアメリカへ留学
梅子は江戸の地方町で生まれ、すくすくと育つ
父、「津田仙」は旧幕臣であり
明治維新後は職を失うも、日頃の知識を活かし農学塾を設立
後にその功績が評価され、大学教授に抜擢されます
その後は教授として北海道開拓使の嘱託となります。
そんなある日、北海道開拓使のトップであった黒田清隆が女性留学について興味を示し
北海道からの参加を呼びかけます。
それを見聞きした父である津田仙は、まだ幼い梅子の名で応募
それが意外にも審査に合格してしまうのです。
梅子は女子留学生としては、史上最年少となる6歳という幼さでアメリカへ留学します
そこが、梅子にとって大きく運命を変えたわけです。
あまりにも幼かった事から引率者だった森有礼
またはあの伊藤博文までが梅子を最も可愛がっていたそうです。
6歳ながら、ある程度の英語を喋り
ホストファミリーの方とも普通に話していたと言います。
ホストファミリーは、梅子を娘のように育て
幼少期と成長期を時と共に11年間過ごします。
もちろん、その間にアメリカの小学から高校を卒業します。
本来なら10年間でしたが
親友の捨松は大学、梅子は高校の卒業をするために1年延長を申請します。
その翌年後
梅子は捨松と共に、祖国日本へ帰国します。
帰国後に待っていたのは…
梅子は帰国後
女性のための学校を建てる事を決意します。
ですが、そんな梅子に待っていたのはあまりにも悲惨な日本での男女差別でした。
今まで過ごしてきたアメリカでは、男女共に一人一人が自由なライフスタイルを贈っていたのですが
日本では大きく異なり
女性は男性に全てを尽くすために生まれたという扱いでした。
男性だけが上級教育を受け
女性は、まともな教育を受ける事が出来なかったのです。
梅子が他に見たのが、男性に仕える女性達と遊郭などで身売りする女性達でした。
まるで奴隷のような扱われ方
それを梅子は嫌いました
「西洋と大きく違う…なんで?、なんで同じ世界なのにこんなに違うの?」
そう悩む日々が続きました。
高等英学校の教師になるが…
実は、女子留学生らには留学した後に大学教授になる事を約束されていたのです
ですが、それは北海道開拓使のみでの制約
帰国した時には北海道開拓使は廃止されており、文部省も大学教授の推薦を認めませんでした。
その理由が「女性は大人しく家事でもすべき!」というもの
梅子はそれに反論しますが、それでも否定され断念。
その後は、英学校で教師として勤める事になります。
ですが、給料は10円(現在の10万円程度)と教師にしては安かったのです。
最初は気にしてなかったのですが、ある時に外国人教師に50円以上(現在の80万円以上)の給料を支払ってる事が明らかになり
梅子は他の日本人女性教師と共に徹底抗議に出ますが
もちろん幹部は否定
そして、言われた事は「日本人女性の先生方は大人しく上の指示に従い、黙って授業をしとけばいいのです」というもの
それに腹が立った梅子はすぐに退職します。
一時職を失うも…
英学校教師を辞めた梅子は、無職となり実家へ引きこもりになります
外出するのは、友人と会いに行くのみ。
そんな友人達は、