(2022/12/24)

 

 

『永田町動物園』

日本をダメにした101人

亀井静香 講談社 2021/11/20

 

 

 

政治家の裏と表、すべて書く! 俺が出会ってきた無数の政治家たちを振り返れば、権力と野望をたぎらせた一種の「動物」というべき人々の顔が浮かんでくる。そんな猛獣たちが暮らす場所が、永田町なのだ。

 

亀井静香  政治家には、光と影がある

・俺は島根との県境近く、広島の山奥の集落で生まれた。獣道を歩き、峠を越えて、今はもうなくなってしまった山彦学校に通っていた。峠途中の地蔵さんのところで弁当を食ったら、学校には行かず、よく回れ右をして家に帰ったりしたものだ。

 敗戦まで没落士族の家系であった父は、村で最も狭い田んぼで百姓をしながら村の助役を務めていた。子どもに分け与える土地がないために、教育を身につけさせようと、俺たちきょうだい4人を90㎞離れた広島市の学校に送り出した。

 修道高校1年の時、学校を批判するビラを撒いたため、俺は退学になった。東大に進んでいた兄と姉を頼って上京したものの、日比谷高校、九段高校などの転入試験を全て不合格。諦めかけていたとき、大泉高校の両角英運校長先生に出会い、温情で編入できた。

 その後、運良く東大に入学し、駒場寮に入った。在学中は合気道とアルバイトに明け暮れ、授業には一切出なかったが、落第することはなかった。

 

・東大を卒業して、大阪の別府化学工業(現・住友精化)に入社した。大事にしてもらったが1年で退職し、警察庁に入った。あさま山荘事件をはじめ、多くの極左事件を担当するうち、政治を変えなければならないとの思いが募って政治家になる決心をした。最初は全くの泡沫候補で、広島政界はもちろん、地元からもマスコミからも無視された。しかし、手弁当で支えてくれた竹馬の友や、少数だが心を寄せてくださった方々もいた。その必死の応援で初出馬初当選から選挙は13期連続で当選させていただいた。

 

だが書きながら、はたして俺たちは日本をよくすることができているのだろうか、むしろダメにしてしまったのではないか、と省みることも多かった。

 

令和を生きる14人

安倍晋三   気弱な青年・晋三を怒鳴りつけた日

・俺は安倍晋三を弟のように可愛がってきた。総理大臣時代には、立場上、「総理」と呼んではいたが、俺にとっては今でも父親(安倍晋太郎)の秘書官だった「三下奴」の晋三のままだ。

 

・昔、こんなことがあったらしい。安倍家に泥棒が入り、晋太郎先生のコートを盗もうとした。それを晋三が見つけて、追い払った。帰宅した晋太郎先生に、晋三がそれを自慢したら「コートくらい、やればよかったのに」と言われたと、晋三本人から聞いたことがある。

 晋三も、素直で人がいいところは、父親譲りだろう

 

・社会部会長のときの晋三は、俺に怒鳴られた思い出しかないだろう。宴会に来ても、同期の荒井広幸と一緒に、宴会芸ばかりやらされていた晋三が、父も成しえなかった一国の長に登りつめたのは感慨深いこの男には運がある。そうでなければ、2度も総理の座に就くことなどできないのだ。

 

小泉純一郎  風を読み切る「天才」の本性

・‘82年のこと。同じ清話会(福田派)で、小泉純一郎は俺の2期の先輩だった。福田赳夫先生が派閥の朝食会で、総裁選での「総総分離」について、一席ぶっているときのことだ。総理大臣と自民党総裁を分離し、「中曽根総理・福田総裁」とする案に、党執行部も乗ろうとしていた

 すると小泉が突然立ち上がり、「この戦いは大義がない」とものすごい剣幕で主張しはじめたのだ。派閥間で談合すべきではないという考えだったのだろう。

 早々に、総総分離案は立ち消えとなった。

 

俺は、日本には土着の思想があるのだから、強者が弱者を飲み込むような政策には反対だ。小泉のやっていることは、改革ではなく破壊にしか見えなかった構造改革自体には賛成だが、小泉の改革は間違いだらけだったと思っている。金持ちさえ都合が良ければそれでいいというだけのものだったからだ。

 

・当時、俺と江藤隆美さんが反小泉の急先鋒だった。小泉政権による「破壊」が続けば、日本はアメリカと中国の狭間で溶けてなくなると思った。中小零細企業からの貸し剥がし、地方の切り捨て、外資や大手企業を優遇する政策が顕著だったのだ。

 

続く‘05年の「郵政解散」はめちゃくちゃだった。郵政改革関連法案は衆議院で可決したものの、参議院では反対多数。すると小泉は、衆議院解散という奇策で流れを作り、俺の選挙区には刺客として「ホリエモン」こと堀江貴文を送り込んだ。衆院選後には俺はあっけなく自民党を除名となった。

 

菅義偉    「冴えない男」と歩いた横浜の街

・菅の当初の印象は、はっきり言うと「冴えない男」。秋田から集団就職で上京してきた苦労人という触れ込みだったが、笑顔がなく、暗い男だった。

 

・俺と菅で決定的に違うのは、郵政に対する考え方だった。

 

・菅のような民営化論者からしたら、民営化に逆行することはすべてが悪に映る。それでは議論のしようがないだろう、というのが正直な感想だった。

 郵政については、その後「ねじれ国会」となり膠着状態が続いたが、‘12年にようやく、郵政民営化を改正することで決着がついた俺の当初案からは後退してしまったものの、過度な民営化を一定程度抑制できたと思う。俺は大臣として、国会審議で「我々は民意に沿う政治をやっている」と言ったが、郵政の問題とは、まさに国民の力を向いているかどうかだ。その点において、菅が俺とまったく逆の方向を向いていたのは残念だった。

 

・ただし、俺からすれば当時の菅を、論戦の相手として意識したことさえなかった。そんな菅が、わずか数年後には官房長官として永田町に君臨し、総理にまでなったのだから、政治はわからないものだ。安倍政権が長く続いたのも、菅の功績が大きかった。調整能力が高いのだろう。今も菅の姿を見ると、冴えない男だった初当選時代のことを思い出す。

 

森喜朗    密室で「森総理」を決めた日

・森喜朗とは同じ清話会に所属していたから、俺が初当選した時からの長い付き合いになる。向こうが政治家としては先輩だが、年齢はほぼ同じだったこともあり、仲良くしてきた。それにならい、ここでも森と呼ばせてもらおう。

 

「なんで森みたいなのが総理になれたんだ」と言う人がいる。その理由はズバリ「他人への配慮」だ。上にも下にも、人に対して配慮するのが、ものすごく上手かった。だから、早稲田大学ラグビー部では補欠中の補欠だったにもかかわらず、総理にまで上り詰めたんだ。まさに大人(たいじん)だ。

 

・森は「えひめ丸事故」の時に、ゴルフをしていたことでマスコミに叩かれた。支持率が8%にまで落ち込み、政権は終わった。だが、あれはテレビがいけない。

 

・もっとも、それで影響される国民がアホだということだ。これははっきり言っておきたい。ああいうふうにマスコミに叩かれて辞めるのは、本当におかしな話だ。今はお互い政治家を引退しているが、変わらず友達づきあいができるのは、森の人柄のよさゆえだ。

 

石破茂    おい、本当に総理をやる気はあるか

・石破茂の親父は、石破二朗という。旧内務省の官僚から鳥取県知事になった。それはもう、おっかない男だった。俺は警察官僚時代、鳥取県の警務部長をしていたことがある。そのときの知事が石破二朗だった。その恐ろしさたるや、当時、警察庁で最も怖がられていた後藤田正晴以上だった。

 

俺もまだ20代の若造だった。おっかない知事と話をするときには、さすがの俺でも足がガタガタ震えていた

 石破の親父は、東京帝大法学部卒の内務省官僚だから超エリートだが、不思議と知性の匂いがまったくしなかった。息子の茂は、そんな親父が築いた地盤で選挙に出ているのだから、楽なのである。

 親父との縁があったから、石破が代議士になってからというもの、俺は折に触れて気にかけてきた。

 

・だが、このままのやり方では全然話にならない。石破がいまいち総理候補として存在感を示せないのは、なぜなのか。ズバリ言えば総裁選のときしか動かないからだ。戦いというのは、平時から兵を養い、ゲリラ戦から何から、どんどん仕掛けていくものだ。

 

さらに大事なのは、仲間に金を配ることだ、俺が総裁選に出たときは、15、6億円くらいかかった。盆暮れもカネを配る。そうやって支えてくれる人間を増やしていかなければ、総理総裁なんてなれっこない。

 

衛藤晟一   自民党を黙らせた「名演説」

政治家の能力のなかでも、重要なもののひとつが演説力だ。単に演説が上手いだけならごまんといるが、たった一言で政治の流れを変えることができる政治家はそうはいない。

 

・衛藤の名演説がなければ、多数の離反議員が出て、自民党は割れていただろう。そういう意味でも、衛藤は自社さ政権樹立の功労者のひとりだ。

 

俺が政治家を引退したのは、衛藤のような良い相棒がいなくなったからだ。

 

武田良太   政治家は、行儀が悪くてちょうどいい

・良太は若い頃、俺の秘書をしていた。政治家人生の第一歩から見てきた存在だ。

 

自民党公認ながら、3回続けて落選という憂き目にあったのだ。‘03年の総選挙では公認さえもらえず、無所属で戦った。普通ならとっくに音を上げる状況だが、良太の根性は半端ではない。初挑戦から10年後のこの選挙で、なんと自民党の公認候補を破って初当選を果たしたのだ。

 

・有権者に土下座さえした。俺は自分の選挙では土下座はしないが、奴を当選させるためなら何でもするという思いだった。

 

政治家である以上、少し毒を持っているくらいが、ちょうど良い。自分の意思で行動できる者が頭角を現す世界だ。良太には、「年齢から考えれば、堀の中に落ちないかぎり、お前は総理になれる」と言っている。能力のある政治家というものは、みんな刑務所の塀の上を走っているようなものだ。俺も塀の上を走り続けたが、ついぞ落ちることはなかった

 

平沢勝栄   晋三の家庭教師、ついに入閣す

・東大を出て警察官僚となり、その後政治家に転身。俺と瓜二つの人生を歩んできたのが平沢勝栄だ。世襲ではなく裸一貫の政治家として、選挙に強い点も共通している。歴史観や国家観が近く、風貌もどこか似ている。

 

・国会会期中も、わずかでも時間が空けば地元に戻り、会合やお祭り、冠婚葬祭をハシゴする。自分が行けないときも、秘書を挨拶に向かわせる。タバコを買うときは、一箱ごとに買う店を変え、散髪するときには毎回違う店だ。選挙民に顔を覚えてもらう意味もあるが、最大の目的は、地元の人たちが何に困っているか、生の声を聞くためだ。

 

・平沢が選挙に強いのは、このマメさに尽きる。ここまで地べたを這いずり回ることのできる政治家は、そういない。能力も高く、広い人脈の持ち主なのに、菅政権で復興大臣になるまで長いあいだ入閣できなかった理由のひとつは、平沢が安倍晋三の小学校時代、家庭教師を務めていたことだろう。

 

下村博文   俺の息子との知られざる因縁

・下村とは、個人的な因縁もある。実は俺の息子が、下村の選挙区から出馬するかもしれなかったんだ。息子は東京11区の板橋区で開業医をやっている。受け持つ患者が何百人もいるうえ、父親が亀井静香だから、選挙があるたび医師会などから担がれそうになった

 本人も全く色気がなかったわけじゃないが、俺は息子を下村と喧嘩させたくなかった。親バカのようだが、息子が出れば結構強かったんじゃないかと思う。でも、「絶対ダメだ」と立候補を諦めさせた。下村もこの件を気にしていたが、俺は下村に「絶対出さないから心配するな」と言った。政治家とはあくまで有権者のしもべだ。やるなら自分で決意し、親の力など頼らず自力で当選しないとダメだ。俺の息子はいま、下村の応援者の一人になっている。

 

・こういう危機は政治家にとって、己の力量を示すチャンスでもある。難局の中で力を発揮してこそ、裁量は大きくなる。そして、自ずと総裁候補への道も開けてくるというものだ。

 

古屋圭司   亀井派を支えた名コーディネーター

・俺が清話会から飛び出し、亀井派を立ち上げたのは‘98年9月のこと。山中貞則さんや中山正暉さんなど実力派の議員が集まり、翌年には志帥会として、衆参合わせて60人規模の大派閥になった。毎晩料亭で侃々諤々と語り合ったのも懐かしい。

 そんな血気盛んな連中のなかで、中堅から若手をまとめていたのが古屋圭司だ。

 

・従順だった圭司が、一度だけ反発したことがあった。俺が死刑制度の廃止を主張したときだ。圭司は「被害者家族の気持ちもあるから、死刑には賛成です」と、はじめて俺に反発してきたのだ。だが俺は「どんな凶悪犯であっても人間には魂がある。人の命は重い。俺は絶対に死刑廃止はやる」と突っぱねた。

 

二階俊博   「晋三に花道を」と、俺は二階に言った

・自民党幹事長を長く務めた二階俊博は、代議士としては俺の2期後輩になる。34年という長期間にわたり、同じ時間を国会で過ごしてきた。

 

・平成以後の自民党には、利害調整ができて、党内の空気に敏感に反応しつつ策を立てて動き、さらには義理人情で接するという調整型の政治家がいなくなった。

 

・‘20年9月、二階は田中角栄先生を抜き幹事長在職日数で歴代1位になった。ただし、これだけ長くできたのは、自民党が弱くなっていることの裏返しでもある。昔は必ず反主流派がいて、常に権力闘争をしていた。いまは権力を腕ずくで奪い取る強盗のような政治家がいなくなってしまった。中選挙区が廃止されたとはいえ、公認権とカネを握る幹事長というポストを、最大限に使いこなしたのが二階なのだ。

 

・党の選挙要職を務めている人物を委員長に起用するのは、異例のことだった。これでは、「郵政民営化に反対する議員は選挙で支援しない」と言っているようなものだ。当時の小泉は、国会人事に介入してまで、好き放題をやっていたのだ。選挙に突入すると、この二階が陣頭指揮をして、「党の考えと違う主張をする候補には対抗馬をぶつける」と言い、刺客を立てまくった。

 その結果、俺は自民党を離れることになった。一方で選挙大勝の功績から、二階の地位は高まった。当時の俺からすれば、二階など大した存在ではなかったが、それから16年、気がつけば二階は自民党の最大権力者まで上りつめた。

 

俺からみれば、俺の派閥を居抜きで持っていった二階は凄い男だ。志帥会にこそっと入ってきた「コソ泥」かと思っていたら、あっという間に家ごと全部乗っ取った「大泥棒」だったわけだが、大した腕である。それに留まらず、日本国まで国盗りしてしまった。

 安倍晋三のような、人の良い殿様の息子では、二階のような策士には簡単にやられてしまう。二階からすれば、ちょろいものだろう。晋三は一本足の案山子みたいなもので、二階の支えがないと権力を維持できないところがあった。

 

昭和を築いた13人

中曽根康弘   小泉純一郎を「無礼者!」と一喝

・中曽根先生を初めて見たのはそのときだ。先生は「青年将校」といわれていた。来賓者が座る一段高いところではなく、道場の床に正座して座っていたことが強く印象に残っている。「威儀正しい」という表現がしっくりくる初対面だった。

 中曽根先生といえば、「上州戦争」が有名だ。

 

・すると、そこにふらっと現れた中尾栄一さんが、中曽根先生を連れてそのまま本会議場に入ってしまったんだ、唖然として、何が起きたのかわからなかった。なんと中曽根先生は、土壇場も土壇場で反主流派から抜け、不信任案への反対票を投じたのだ

 結局のところ、欠席が多かったため、不信任案そのものは賛成多数で可決され、世にいう「ハプニング解散」に突入することとなった。だが中曽根先生にとっては、ここで主流派・田中サイドに身を寄せたことが、その後の総理への道につながったと思う。「風見鶏」と言われる中曽根先生らしい行動だが、政界の風を巧みに読んだからこそ、総理になれたのだ。

 

・その間、俺は部屋の外に待たされていた。小泉が部屋へ入るなり、ものすごい声で「無礼者!」と怒鳴る声が聞こえてきた。中曽根先生の怒号だった。断固として引退に応じない先生は、怒り狂って「政治的テロみたいなものだ」と発言した

 

・しかし、小泉執行部はビクともしなかった。同じく引退勧告されていた宮澤喜一さんがおとなしく引退を表明したこともあって、中曽根先生も最終的に観念し、引退に追い込まれた。

 

竹下登     目配り、気配り、カネ配りの三拍子

・絶大な権力を握っていた竹下登さんが亡くなってから、20年以上が経った。永田町の誰よりも政界の力学を知り、「目配り、気配り、カネ配り」で総理になったと言われた竹下さんは、与野党はもちろん、財界、官界に幅広い人脈を持っていた。表から裏まで張り巡らされたその人脈には、あの中曽根先生も敵わなかった。

 

もっとも竹下さんのほうは、俺が幼いときから、俺や兄貴(元参議院の亀井郁夫)のことを知っていたという俺の生まれ故郷、広島県庄原市川北町は、竹下さんの地元である島根県の選挙区と山を越えた隣同士だ。うちは村で下から数えて2~3番目くらいの貧乏な百姓農家だったが、俺と兄貴の2人が東大に入ったことが評判になった。それが山を越えて竹下さんの耳に入っていたらしく、「亀さんのことは幼いときから知っていたよ。山を越えた所に2人の神童がいると聞いていたから」と言われたことがある。同じ山陰の田舎の空気を感じたし、竹下さんは青年団運動から上がってきた人だから、俺と同じように土の匂いがする苦労人だと、親近感を持った。

 

そんな竹下さんが、みんなから人望があった理由には、カネ配りもあったと思う。派閥が違う俺のところにさえ、遣いの者を通じて多額のカネを寄越された。清話会は一銭もカネをくれなかったし、ポストを配る力もなかったが、竹下さんは毎年必ずカネをくれたのだ。派閥が違うのにカネを持ってきてくれたのは、同じ中国山地の山中のよしみからだろう。

 

安倍晋太郎   晋三を守った父の「人徳」

・俺が長年、安倍晋三を弟のように可愛がってきたのは、父上である安倍晋太郎先生に大変世話になったからでもある。

 

晋太郎先生を一言で言えば、徹頭徹尾、善人だ。優しすぎた。だが総理総裁になれずとも、他のどの政治家よりも徳を積んできた。それが息子の晋三をも、陰に陽に助けてきたのだ。晋三が長期政権を樹立できたのも、父上の徳のおかげだろうと今は思う。

 

金丸信     部屋中からカネが湧いて出た

・「政界のドン」と称された金丸信さんは、昭和の激しい政局の時代、常にその中枢で立ち回った、まさにキングメーカーだった

 俺が国会議員になった当時は、田中角栄さん率いる田中派全盛の時代で、俺のいた福田派は傍流とみなされていた。

 

・金丸さんの凄いところは、徹底的に黒子であり続けたところだ。

 

・当時ペーペーで、派閥も違った俺は、金丸さんとの接点は少なかった。ただ、随所に「この人は大人だ」と感じる場面があった。

 彼の力の源泉の一つは、抜群の資金力だ。俺も一度、金丸さんからオカネをもらったことがある。

 

次に当時幹事長だった金丸さんの事務所に行くと、すぐに「わかった」と共感してくれた。おもむろに背広のポケットからおカネを出し、それだけで100万円はありそうだった。だが「これじゃ足りないな」と呟くと、机の引き出しや棚をゴソゴソと探し、札束はみるみる500万円ほどになった。部屋を漁るだけでおカネが出てくるのにも驚いたが、それをいとも簡単に渡してくれたことにも驚いた。

 金丸さんは名前の通りおカネを持っていたが、溜め込むのではなく、意義のあることだと思えば、普段付き合いのない俺のような奴にもポンと渡してくれる器の大きい人だったのだ。

 

それほどの実力者だったが、最後はあまりにも哀れだった。‘92年8月、金丸さんが5億円のヤミ献金を受け取ったといういわゆる「佐川急便事件」が発覚。金丸さんは記者会見を開いてこれを認め、副総裁辞任を表明した。

 

福田赳夫    エリートだが、どこか土の匂いがした

・だが、肝心の福田派は選挙戦が始まってもなかなか本腰を入れてくれない。というより驚くほど応援してくれなかった。理由は簡単で、俺が「泡沫候補」扱いされていたからだ。必死に応援してくれたのは、福田派の先生ではなく、中川一郎先生だった。

 5000票差でぎりぎりの最下位当選を果たした俺は、そのまま福田派に所属した。だが選挙での恩義もあり、中川先生率いる中川派にも出入りした。新人でいきなり2つの派閥を掛け持ちしたので、「両生類」と揶揄する連中もいた。俺には、陰で文句を言う奴の相手なんてしている暇などなかったが。

 

・もうひとつ印象深い思い出がある。俺は‘89年の総裁選で、清話会の方針と異なる山下元利さんの擁立を画策し、清話会を除名になった。結束してこそ力になるのが派閥だから、勝手な動きをする奴は除名されても文句は言えない。

 

・福田先生は‘76年から’78年まで総理を務めたが、もっと長期間総理をやるべき人物だった。息子の康夫も総理になったが、あれはサラリーマンだ。印象が薄い。福田先生は大蔵官僚の出身ながら土の匂いのする政治家だった。しかし康夫からは、その匂いが感じられなかった。

 

中川一郎    熱血漢を襲った悲劇

・俺の初選挙では、福田派の幹部である安倍晋太郎先生にも応援をお願いしたが、ダメだった。そんななか、俺の志を意気に感じてくれたのが、当時国民的にも大変人気のあった中川一郎先生だ選挙期間中、広島県庄原市の山奥まで駆けつけてくれて、翌年のハプニング解散後の選挙戦でも「俺が行くぞ」といって、どんどん選挙応援をやってくれた。

 中川先生は北海道開拓民の家族の出で、子だくさんの家に育ち、とても苦労された方だ。その熱血漢ぶりに俺は魅了され、短い間だったが非常に濃密な関係を結んだ。

 

・年の瀬、事務所のあった永田町の十全ビルで、こう声を掛けたのが最期になってしまった。「中川先生、がっかりしないでください。年が明けたら、私と狩野明男と三塚博の3人が先生のところに移籍します。いま福田先生から了解を得たのですから、元気を出してください

 年明けの1月9日、先生は自死された。「北海道のヒグマ」と呼ばれるほど豪快な人だったが、同時に繊細で気が弱いところがあったんだろう。総裁選で負け、孤独になったことで一気に弱ってしまった。まだまだいくらでもチャンスがあったのに、残念でならない。

 

平成を駆けた31人

後藤田正晴   俺を政治の道に進ませた「圧力」

・後藤田さんは役人時代から、田中角栄さんの懐刀として重宝されていた。あるとき、俺が公職選挙違反で衆院選の自民党候補を逮捕しようとした。すると、刑事局から逮捕にストップがかかった。角栄さんの命を受けた後藤田さんからの指令であることは明らかだった

 普通なら、逮捕を泣く泣く諦めて終わりだ。ところが、俺にそんな圧力は通用しない。「それはまかりなりません」とばかり、逮捕してやった。後藤田さんからすれば面子丸つぶれだ。それをきっかけに、後藤田さんは「亀井の野郎」と疎ましく思っていたようだった。

 その後しばらくすると、埼玉県警捜査2課長だった俺のもとに人事の内示があった。警視庁本富士署の署長で、警察キャリアにとって出世の王道コースのひとつだ。しかし、それを知った後藤田さんが「亀井は警視庁なんかに入れちゃいかん。何をやるかわからん」と言って、人事をひっくり返した。そして、「極左をやっつけるならいくらやってもいいから、極左担当にしろ」ということで、俺は‘71年、警備局の極左事件に関する初代統括責任者になった。

 

・その後、‘76年の衆院選で先に後藤田さんが政治家に転身し、3年後に俺も政治家となった。同じ警察官僚出身とはいえ、派閥は違ったし、後藤田さんからしたら俺は憎き男だ。官房長官時代も、一切カネをくれることもなかったし、俺に目をかけてくれることもなかった。また、俺もそれを望んでいなかった。だから酒席を共にしたこともない。

 

・なだめたりすかしたりといった芸のきくような、可愛げのある人ではなかったのだ。その辺りが「カミソリ」と呼ばれる所以だが、自分でも総裁のポジションには不向きだと自覚していたのだろう。俺とは政治スタンスが全く異なり、どこまでも「官僚」だったが、私利私欲のない一本独鈷な政治家であった。

 

梶山静六    総理になれなかった悲運の政治家

・政治家に必要なのは、強い信念に基づいた覚悟と、人を魅了する力だ。だが、それだけでは天下はとれない。運が必要なのだ。安倍晋三だって運がなければ、父親が得られなかった総理の座を、2度にわたって獲得することはできなかったはずだ。

 そういう意味で、悲運だった政治家の筆頭といえば梶山静六さんだろう。

 

橋本龍太郎   俺が作った橋龍内閣を、壊した理由

・橋本内閣が誕生し、俺も組織広報本部長という新設された四役に就いた。ともにお国のために頑張ろうと意気込んだのだが、現実は違った。あいつは総理になった途端に変わってしまったのだ。大蔵省の虜になり、緊縮財政を主導し、政策的に縮小路線に舵を切る。官僚にのせられ、消費税を3%から5%に引き上げてしまった。公共事業もなんでも切ってしまえと、無茶なことをやりだした。

 翌年から長期デフレに陥り、失われた20年を深刻化させた。俺のおかげで総理になれたのに、言うことはまったく聞かない。結果、俺は梶山静六さんと手を結び、橋龍おろしを画策した。自分が担いで作った内閣を、自分で壊すというのは皮肉なものだ。政治の世界では、昨日の味方は今日の敵。今日の敵は明日の味方。それ以降、橋龍とは会うこともなくなってしまった。大蔵省の虜になってしまった変節だけは、残念でならない。

 

野中広務    偉大な裏方に「許さない」と言った日

・老獪な一面もあったが、抵抗勢力と呼ばれて、時々の政権に批判もしてきた。野中は目線を低くして生きているからだ。保守色が強い自民党にとって、彼のような平和主義を追求する姿勢は必要不可欠だった。偉大な裏方を、日本は失ってしまった。

 

中川昭一    親父さん譲りの「情」が忘れられない

弟のように可愛がっていた中川昭一が亡くなり、早12年が過ぎた。

はにかみ屋のところもあったが、いつも屈託のない笑顔で、俺を兄のように慕ってくれた。

 

・‘09年2月、昭一は財務・金融担当大臣としてローマで開かれたG7に出席した。その後、酩酊したような朦朧状態で記者会見に出て猛批判を浴び、責任をとって大臣を辞任。半年後の総選挙で謝罪行脚をしたが、民主党候補に敗れ、比例復活もならずに落選した。1ヵ月後、自宅の寝室で倒れているのを発見された。

 その日、俺は自分の事務所にいたが、一報を聞いて慶應病院へ急行した。だが昭一は、すでに息を引きとっていた。今でも病や発作によるものだったのか、それ以外の理由があったのか、はっきり分かっていない。いずれにしても、昭一ほどの男を失ったのは残念と言うほかない。

 

与謝野薫   頼まれたら断れない働き者の生涯

・永田町の「仕事人」としての皆の記憶に残っているのが、与謝野馨だ。俺は彼を「最強のテクノクラート」と評していた。それほど頭の切れる男だった。

 与謝野がライフワークとしていたのが「財政健全化」だ。彼は徹底した財政緊縮論者だった。

 

・思うに、与謝野馨は頼まれると断れない人間だったのだ。だから、中曽根さんが師匠のはずなのに、自分を重用する梶山さんについて行き、仇だったはずの民主党にも請われれば入閣した。敵味方に囚われず活躍の場を探し続ける姿は、まさに稀代の「仕事人」だった。

 

小林興起   「上から目線」をやめて、戻ってこい

・小林興起は、通産省の官僚出身だ。農林大臣だった中川一郎さんと出会って政治家を志した。福田派に所属しながら中川派の会合に出ていた俺は、たまたま、自分とどこか風貌が似ている男がいるな、と思って小林を認識した。

 

・お膳立てをしてやれば、あとは親分の中川さんがなんとかするだろうと見ていたが、中川さんは‘82年の総裁選出馬の後、悲運の自死を遂げる。なんとか小林を国会議員にするため、俺は応援に動きまわった。しかし、当時の小林は泡沫候補扱いで勝ち目もない。

 

・苦戦は続き、‘83年、’86年と総選挙に連続で落選。

 

一度は当選して政界に復帰したが、その後は落選続きだ。理由はなんとなくわかる。優秀で能力は抜群だが、自分が一番優秀で偉いと思いこんでいるのだ。「上から目線」の唯我独尊では、選挙民が反発して票が集まらない。政界復帰のため、小林は今も頑張っていることを知っている。まずは、謙虚になることだ。

 

自民党と対峙する21人

玉木雄一郎  総理大臣候補になるためには………

・国民民主党代表の玉木雄一郎は、まだまだ若いが、間違いなく将来の日本を担っていく政治家だと思う。今はキラキラする経歴が邪魔している。

 

・玉木に言いたいのは、机上の勉強じゃダメだということだ。政局で揉まれ、修羅場をくぐる。批判され、めちゃくちゃにマスコミに書かれないとダメだ。

 そのためにも、政局を仕掛けていかないといけない。

 

志位和夫   本気になれば、日本を変えられる

・志位和夫とは、実に柔軟な男だ。良いものは良いとし、悪いものは悪いという是々非々の姿勢を持っている。

 

・だが原理原則がなく柔軟で、何でもありとなると、そういう男は怖い。悪魔とさえ手を握ることもできるからだ。俺はこれまで志位とは何度も会い、天皇制や日米安保、北東アジア問題、野党共闘、内政と、幅広いテーマで議論をしてきた。天皇観を巡っては真逆の考えの持ち主だが、他の部分では共通する部分も多い。一部の人たちが富を独占する新自由主義は駄目であるとか、増税反対の考えにも俺は共鳴している。

 

・志位は、権力を握らないといけないと考えているのだから、本気で野党共闘に臨んでもらいたい。共産党だけでなく、野党トータルとしての共闘を実現してほしい。彼にそれだけの器と力量が備わっている。

 

大塚耕平   四面楚歌の俺を支えてくれた

・総選挙で民主党が圧勝し、俺の率いる国民新党、そして社民党を含めた3党連立の鳩山由紀夫政権が誕生した直後、郵政改革・金融担当大臣に就任した俺は、世間が飛び上がる政策をぶち上げた。モラトリアム法案(中小企業金融円滑化法案)だ。中小零細企業や住宅ローン利用者の借金の返済猶予を銀行に促す法案を作るよう提唱したのだ

 

・モラトリアム法案は無事完成し、‘09年11月には可決成立、翌月に施行された。年末で会社の資金繰りの厳しい時期に施行できたことは大きかった。俺の信条を理解し、片腕となって多大な尽力をしてくれた大塚には今でも感謝している。彼なくしては法案成立までこぎつけなかった。俺の部下として来てくれたのは、まさに天の配剤だった。これからも大塚には弱者に寄り添った政策を作ってもらい、日本の政界を引っ張っていってほしい。

 

菅直人    緊急事態下の総理といえば、この男だった

・俺は、副総理の話を断り、代わりに首相補佐官に就任した。菅は総理まで務めたが、決して大物政治家とはいえない。そうはいっても、自民党の世襲議員ばかりが出世するのが常の昨今の永田町で、市民運動家から首相にまで上り詰めたのは、大したものだと思う。