法然浄土教を批判する理由

・『立正安国論』の中の「邪法」というのは、法然の浄土宗を指していますが、なぜ日蓮は、それほどまでに法然の浄土教を敵視するのでしょうか。

 ご存知のように、法然の浄土教では「南無阿弥陀仏」と念仏を称えます。これは阿弥陀仏というほとけさまへの絶対帰依を表明したことばです

 一方、日蓮の「南無妙法蓮華経」という題目は、『法華経』への絶対帰依を表明しています。

 この両者には仏と経典という差はありますが、「わたしは、これに帰依します」という絶対帰依を表明するところの意味はいっしょです。

 

・そして、この「宇宙の真理」「時間・空間を超えたお釈迦さま」が存在するのだということを述べているのが、二重かぎ括弧の『法華経』――わたしたちが現に手にしている、書物の『法華経』なのです。

 たしかに、歴史上、インドでお生まれになったお釈迦さまがいます。それと同時に、時間も空間も超越した永遠の存在としてのお釈迦さまもおられます。書物の『法華経』は、そういう存在のあり方でお釈迦さまがいまでも宇宙にいらっしゃるのだ、という思想を伝えたものなのです。

 ここに、日蓮の信仰の原点である題目――「南無妙法蓮華経」の真意があります。

 つまり、題目が意味する「『法華経』に帰依します」ということばは、「いまでも存在している時空を超えたお釈迦さまに帰依します」すなわち、「南無釈迦牟尼仏」ということにほかなりません。

 

・例えば、同じ神さまだといわれても、キリスト教徒が「アッラーに帰依します」とは絶対に言えないように、日蓮は「南無阿弥陀仏」とは絶対に言えないわけです。つまり、「釈迦仏に帰依する」か、「阿弥陀仏に帰依する」か、という問題であり、そこに妥協の余地はないのです

 

「政治」から入った日蓮

・『立正安国論』執筆の思想的背景には、天台宗に代表される「鎮護国家」的仏教理解が根底にあります。

 ところで、イエスにもお釈迦さまにも、「民衆の救済か、宗教的精神性の高揚か」を悪魔が試すエピソードがあります。そして、イエスもお釈迦さまも、ともに民衆一人ひとりの苦悩の除去ではなく、宗教的精神性の高揚を追求しました。 

これにたいして、日蓮は『立正安国論』を著して、「政治」から入ろうとしました。

 

・『立正安国論』は、国家への諫言の書とされています。そういう政治的な面はありますが、その目指す先は、苦悩するすべての民衆の救済でした。この地上に、いますぐほとけさまの国を実現させたい――。それが日蓮の願いだったのです。

 

・『法華経』を通して発している、このようなお釈迦さまのメッセージをなんとか伝えたい。みんなが安楽に暮らせる世界を打ち立てたい、といっているのが『立正安国論』なのだと思います。

 しかし問題は、その世界の実現にあたって、日蓮は政治的にやろうとしたことです。

 お釈迦さまやイエスが忌避した「政治」的手法を用いたのでした。

 でも、佐渡流罪を契機に、日蓮はそういう手法ではダメなのだと気づきます。

 仏教者として努力すべきことは現実の仏国土の建設ではなく、やはり心の平和である、ということに

 

無師独悟の人

・なぜ日蓮が宗教的精神性の高揚ではなく、政治的手段での民衆救済を目指したのかを考えると、一つには彼が無師独悟の宗教者であったこと、つまり先生がいなかったから、という理由が挙げられましょう。

 

伊豆へ配流される

・翌年の弘長元年(1261年)5月12日、日蓮は「貞永式目(御成敗式目)」違反で逮捕されます。

 なんの嫌疑かというと、捕まったときに問責された日蓮は、「『法華経』守護のためだったら、弓矢を揃えたっていいのだ」と、返答しています。自分で認めているくらいですから、逮捕されて当たり前かもしれません。

 ただ、日蓮自身は「世間の咎なし」、と言い続けます。それは、「貞永式目」の第十二条に抵触するというのが逮捕容疑でしたが、その第十二条は「悪口の咎」でした。それゆえ、「これは別件逮捕だ」という意味の主張かもしれません。しかし実際のところは、激しい念仏批判にたいしての処罰でした。

 これによって伊豆に流罪となります。これが、――伊豆法難――です。

 

社会はいつだって「デタラメ」

・日蓮は、この世に「安国」を打ち立てることを目指していました。その安国とは、「この世に浄土・仏国土を実現する」ということです。

 しかし、この娑婆世界というのは、じつはいつだってデタラメなのです。

 ところが、例えばわが国では、戦後の高度経済成長期にはそれが見えていませんでした。なぜなら、みんながそれぞれ伸びていましたから。

 

・この娑婆世界において、「努力」と「成功」の間に因果関係はまったくないのです。どんな時代がこようとも、どんな地域だろうと、絶対にそんな因果関係はありません。

 それが、高度経済成長期はいちおうはみんな伸びたので、「努力したら伸びる」と思ったわけですね。ただ、この錯覚は日本人特有です。わたしたち日本人は、もともと努力する人間だからです。

 

・ところが、日本人には努力がインプットされていますから、何事にも努力してしまうのです。しかし資本主義社会では、かならずしも努力では成功しないのです。

 努力してがんばっても商品が売れないことはあるし、なんの努力もしないで飛ぶように売れることもある――。だから、この世界はデタラメなのです。

 

・でも、わたしは「努力するな」とは言っていないのです。「死に物狂いの努力はいけない。努力するなら楽しい努力をしなさい」と言っているのです。

 つまり、「努力さえすれば、かならず幸せになれる」という固定観念に疑問を呈しているのです。

 

「法華経を信ずる人は冬のごとし」

他人の悩みを解決することなどできない

・臨済宗のあるお坊さんが、こんなことを言っていました。

 寺に来た人に言うことは三つしかない。ある人が話しかけてきたら「ああ、そうね」。これだけでいい。相手がいいたいことを言ったら「ああ、よかったね」。相手が「困ったことがありました」と言ったら、「ああ、困ったね」と言ってあげるだけでいい。

 仏教者に問題を解決してあげることなどできない。ただいっしょに苦しみ、悩んであげることだけだ、と。

 

滝口法難

・文永八年(1271年)、日蓮が再び『立正安国論』を幕府に提出して諫言したのをきっかけに、幕府は日蓮逮捕へ乗り出します。9月12日、平左衛門尉頼綱が兵を引き連れて日蓮を襲い、逮捕しました。

 

・幕府の評定所(裁判所)は、「佐渡流罪」の決定を下しました。しかし、実際のところは、現場の役人にその処理は任されていたようです。責任者の頼綱は、日蓮を打ち首にするつもりでした。

 評定所から護送され、鶴岡八幡宮にさしかかりました。すると日蓮は、大音声を発して八幡大明神を叱りつけました。

――わたしが今夜打ち首になって、霊山浄土へ往くようなことがあるならば、わたしは「天照大神や八幡大明神は、お願いごとを聞いてくださらない神です」と、お釈迦さまに申し上げるぞ。それは困るというならば、早急に赦免のおとりはからいをされたい――

 

最終的に、刑場の竜口(神奈川県藤沢市片瀬)へ連れて行かれました。

 滝口は処刑場で、のちに幕府へやってきた蒙古からの使者も、ここで打ち首になっています。

 現在、江ノ島電鉄(江ノ電)の腰越駅と江ノ島駅の間に、日蓮宗の大本山竜口寺が建っています。

 頼綱によってまさに斬首されようというとき、そこへ弟子の四条金吾らが駆けつけます。すると、有名な奇跡が起こりました。

 伝説によると、振り上げられた頼綱の刀に、江ノ島のほうから飛来した「光り」が当たって、刀が三つに折れました。「光り」はなおも飛んできて、北条時宗の屋敷まで届きました。

 と同時に虚空から声が響き、それに恐れた時宗が竜口へ早馬を出して、日蓮の処刑を中止させました。

 処刑を免れた日蓮は、評定所の決定通り佐渡へ流されることになります。

 

日蓮の転換点

・一般に、「日蓮の転換点は佐渡流罪期にある」といわれます。

 わたしは、日蓮が佐渡にあって、それまで自分と関ってきた人々との関係をあらためて見つめなおしたことに、その縁があるのではないかと思います。

 例えば、この時期の日蓮に、キリスト教でいう「汝の敵をも愛せよ」といったニュアンスの、ほとけさまの慈悲をあらわすようなことばがあります。

 佐渡に渡った日蓮は、自分を打ち首にしようとした頼綱を「こういう人があってこそ、いまのわたしがある」と評価するようになります。

 

・こういう人たちがいて、わたしがこのような難に遭って、『法華経』のすばらしさをわからせてくれたのだからありがたい、といった表現から、日蓮の心境の変化がうかがわれます。

 

「縁」に気づいた日蓮

・ここが、日蓮にとっていちばんの転換点ではないかと思うのです。

 日蓮とこれらの人たちとの関係は、すべて「縁」なのです。初めは「あいつは敵だ。『法華経』の精神を踏みにじる悪いヤツだ」と見ているけれども、それを「これは縁だ」と気がついたわけです。これこそまさに、

――諸法実相――です。

 ことばを換えれば、これはまさに曼荼羅ですね。この宇宙そのものである曼荼羅には、人間の骨をバリバリ食べている魑魅魍魎まで描かれています。これも含めて曼荼羅なのです。

 自分が敵だと思っていた者も、ある意味で『法華経』の実践をうながす者、すなわち善智識であり、曼荼羅であるととらえるようになったのでした。

 

・さきに引用した箇所は、佐渡にいるときに書いた手紙に出てきます。死体置き場近くの小さな小屋(塚原三昧堂)の中で、寒いのでゴザをかぶって書いた手紙といわれています。

一番目に名前が挙がっていた、故郷安房の地頭東条景信が、日蓮にとってはいちばん最初の迫害者です。その景信を、自分にとってはやはり、敵でありながら同時に『法華経』をわからせてくれる、サポートしてくれる存在だったと受け止めるわけです。

 これ以降、とくに身延山に入ってから、「敵も善智識」と受け止めていきながら、日蓮は自己の思想を再構成していったのだと思います。逆にここから日蓮が、

――対機説法――

 をしていくのです。それゆえ、日本の高僧たちのうちで日蓮が一番書簡の数が多いのです。浄土真宗中興の祖・蓮如(1415~1499年)にも多数の『御文』がありますが、その数は桁ちがいで比較になりません。あれほど書簡の多い祖師はほかにいませんね。

 

「地位向上運動」は政治の仕事

・日蓮は、むしろ政治家的発想で問題に近づいてきました。

そうすると、現実に泣いている人々を何とかして救おうと考えて、実践します。それにはランクの上層の人々にちょっと遠慮させるとか、そういう人々を非難する――金持ちから金を奪って貧しい者に分けたほうがいい、といった平等運動みたいなものにならざるをえません。

 しかし、そういうのは全部、政治の仕事です。日蓮はそういった政治家的発想で宗教に近づいたのだと思うのです。そういう角度から『法華経』を読むと、ABCDEとランクづけされた中で、少しでも順位を上げていけばいいじゃないかという「地位向上運動」みたいなものになるわけですね。

 日蓮は現実の問題を解決しようとしたけれど、それは宗教者のやる仕事、解決方法ではありません。宗教者のやる解決方法とは、彼岸の価値観を説くことです。すなわち、「この世の中の物差しではかるのをやめて、神さま・ほとけさまの物差しではかりなさい」ということだと思うのです。

 

 

 

『近現代の法華運動と在家教団』   シリーズ日蓮4

責任編集  西山茂     2014/7/25

 

『国家改造と急進日蓮主義――北一輝を焦点に』 津城寛文

 

 

 

<日蓮主義>

ほとんどの宗教には、平和的な理想とともに、闘争的な種子が含まれている。とくに、理想を実現するための手段として、「聖戦」「正義の戦争」などの語彙を持つ思想は、内外の一定の条件が揃えば、急進的に闘争化する。非暴力の原理を打ち出した宗教ですら、人間集団のつねとして、一部が暴力化することは避けられない。

 本稿では、1930年代(昭和10年前後)の日蓮主義の急進化を、北一輝(1883-1937)に焦点を絞り、さまざまな「法」「仏法」や「国体思想」などの宗教的世界観、「世法」と呼ばれる実定法、「心象」と表現される私秘的ビジョン、考え、思想・行動の根拠・原理となる規範体系)の交錯する情景として描いてみる。

 

時代状況

・「右翼テロ」の出発点とされる1921(大正10)年の安田善次郎刺殺事件の犯人、朝日平吾は、社会に害をなす「吝嗇」な「富豪」を殺害するという暗殺思想を単独で実行し、「右翼テロリズムの偶像」となった。朝日が『改造法案』の影響を受けており、遺書の一つは北一輝宛であったこと、それを受け取った北が読経中に朝日の幻影を見たというエピソードは、随所で語られる。

 

・「国家改造」「昭和維新」という言葉が流行した時期、国内ではテロやクーデターのうねりが高まっていた。北一輝を迎えた猶存社(1919年結成)は、その震源の一つであり、「国家組織の根本的改造と国民精神の創造的革命」を宣言し、綱領の七点の内には「改造運動の連絡」が謳われており、指針として配布された北の『国家改造法原理大綱』という政府批判の強力な「魔語」、「霊告」などが絡み合い、事件が相継ぐ。このように、一連の事件の出発点から、北一輝の関与が見え隠れしている。

 

・北一輝は、「北の革命思想と宗教というテーマに取り組んだ研究は、まだ見当たらない」と指摘されるように、政治と宗教の関係に「謎」が残る人物である。またその「宗教」は、西山茂氏によって「霊的日蓮主義」と表現されるように、「社会」的側面だけでなく、「他界」的要素に光を当てねば理解できない部分がある。

 

・「日蓮主義」とは田中智学が造語し、その影響で本多日生も用いた言葉で、「法国冥合(政教一致)」による理想世界の実現を最終目標とする、社会的、政治的な志向性の強い宗教運動を指し、1910年以降の社会に大きな影響力を及ぼした。統一閣を訪れた中には、のちの新興仏教青年同盟の妹尾義郎、いわゆる「一人一殺」を標語とする「血盟団」の首謀者の井上日召(1886-1967)、いわゆる「死のう団」の指導者(盟主)の江川桜堂(1905-38)などがいた。狭い意味での日蓮主義は、この智学と日生、およびその周辺を指すが、従来の研究では近現代の日蓮信奉者や日蓮仏教を広く取りまとめる用語としても拡大使用される。そのような(不正確かもしれない)傾向との連続性のため、本稿では敢えて広義の日蓮主義を採用する。急進日蓮主義とは、この広義の日蓮系の思想運動が急進化、かつ事件化したものを指しているようであり、血盟団事件、死なう団事件、2・26事件が目立っている。

 

血盟団事件と死なう団事件

・井上日召が日蓮宗に惹かれたのは30代半ばからで、国柱会その他の法華宗や日蓮主義の講演を聴き回り、日蓮関係の書籍を読むことで、「自分の肉体を武器として、日本改造運動の一兵卒」になることを志すようになった。やがて日蓮主義や日蓮各派から離れ、改造運動指導者を別に求め、40代を超えて「国家改造の第一線に立とうと決心」し、茨城県の立正護国堂で実行者たちを育成することになった。

 

・戦後に発表された「血盟団秘話」では、当時は語られなかった経緯も出てきて、暗殺という直接行動については、「悪いに決まっている。テロは何人も欲しないところだ。私は政治がよく行われて、誰もテロなどを思う人がない世の中を、実現したいものだと念じている」と述べている。

 

・江川家の墓所を預かる三有量順氏は、江川桜堂の関係者から託された一次資料をもとに、「日蓮会」および「日蓮会殉教青年党(いわゆる「死なう団)」の当事者側の情景を描き出している。夭逝した桜堂を、三友氏は「哀悼の会」をもって「市井の熱烈な日蓮主義者」と呼び、「純粋な法華・日蓮信仰は周囲の人々に感化を及ぼした」こと、「自ら書画をよくした」ことなどを資料で跡付けている。そこに像を結ぶのを抱いて強化活動に邁進しようとする、若き宗教的指導者」としての桜堂である。

 

・それによると、血盟団事件や5・15事件で東京の警視庁がめざましい活躍をしていたので、神奈川県警も手柄を立てようと焦り気味であったところに、恰好の事件が起こった。日蓮会は「政治的、思想的、反社会的団体ではない」ことを井上が説明したが、県警は「死なう団は右翼テロ団」という報告書を出して、事件はまったく違ったものになったという。この間の県警による捏造や隠蔽などの不祥事も、淡々と語られている。

 

2・26事件

・2・26事件は、先行する血盟団事件や5・15事件と同様、「その後の用意・計画がない」とされる一方、綿密な計画を持つクーデターともされ、別のあり得たシナリオもさまざまに描かれている。夥しい研究によっても全容が解明されているとは言い難く、とくに北一輝の思惑や関与については、定説がない。そのようなわかりにくさの集約した場面が、2・26事件後の北の「無為無策」という「謎」である。

 

・考えられる別のシナリオについて、首謀者の一部にそのようなプランや思惑がじっさいにあったという指摘が散見する。筒井清忠氏によれば、血盟団事件や5・15事件は、「暗殺を行なうことそれ自体が目的」の「捨石主義」的なテロであったが、2・26事件は「政権奪取計画」を持ったクーデターだった。

 この事件の「成功」の可能性を検討」するために、筒井は青年将校を、「斬奸」のみを目的とする「天皇主義」グループと、「政治的変革」を目指した「改造主義」グループに二分する。磯部浅一らを中心人物とする後者は、『改造法案』を「具体的プログラムとして」、「宮城占拠」や工作により、「皇権」「政治大権」を奪取奉還することを目指していた。

 

・政府や軍部内にさまざまな動きがある中で、天皇の意向を受けた木戸が合法的な手続きを踏んで「鎮圧」を決定した、というわけだが、別の「法」に基づく合法性があり得たとすると、これは「合法性」の戦い、さらには「法」そのものの戦いと言える。この「磯部と木戸の戦い」というところを、背後まで突き詰めて「北と天皇の戦い」と言い換えても、同じことが言えそうである。

 

北一輝の社会思想

・「非合法、合法すれすれ」の煽動家とされる北は、若き日の社会思想では、その理想とするところも、論説による啓蒙や投票といった手段についても、合法的なもので一貫していた。

 初期の論考「咄、非開戦を云ふ者」や「社会主義の啓蒙運動」そして集大成『国体論及び純正社会主義』においては、「国家の力によりて経済的平等を実現」「鉄血によらず筆舌を以て」「立法による革命」「純然たる啓蒙運動」「普通選挙権の要求」「「投票」によりて」など、「方法は急進的にあらず、手段は平和なり」と主張される。その「理想を実現」するため、対外的には「帝国主義の包囲攻撃の中」において「国家の正義を主張する帝国主義」の必要が説かれる。戦争の擁護というリアル・ポリティックスも、好き嫌いはともかく、現代においてすら、非合法な主張ではない。

 

・『改造法案』には、巻一で「憲法停止」「戒厳令」、巻二で「在郷軍人会議」(検閲を憚ったもので、実は「軍人会議」とされる)の革命思想が出ている。「啓蒙」と「投票」という平和的手段による「革命思想」から、革命は合法的にはできないというリアリズムに変わった転換点は、『支那革命外史』の前半部と後半部のあいだに求められている。北自身、このころから「信仰」に専心したと供述し、また暗殺された友人・宋教仁の亡霊が現われた、というエピソードもしばしば語られている。

 

「霊告」という私秘的ビジョン

・北一輝の影響は、「統帥権干犯」といった政治的「魔語」の操作だけでなく、「霊告」という呪文となって、財界や軍部に浸透していた。法華経読誦を手段とする「霊告」については、以前から断片的なエピソードとして言及されてきたが、松本健一氏が、『北一輝 霊告日記』として編集刊行して以来、全貌が知られるようになった。1929年から1936年まで記録されている「霊告」について、松本氏の最も短い説明は、北が法華経を読誦していると、その横に座っていた妻すず子が何か口走り、それを北が解釈、筆記したもの、となる。シャーマン研究の用語を使った説明では、「シャーマンの言葉」を「プリースト」が聞き取り、読みとったものとされる。「プリースト」という言葉の使い方はやや不適切であるが、これは「霊告」がシャーマニズム研究の対象となるべきことを指摘したという意味で、重要な説明である。その機能については、「北の漠然とした思いや心理に、表現を与える」「神仏の名を借りて誰かに自分の思いや考えを述べる」もの、とされている。松本氏が強調しているのは、「霊告」と前後の事件を読み合わせると、それが「幻想」の記述ではなく、「時々の事件をふまえての記述」になっていることである。たとえば、「軍令部の動きと政友会、そして政治の裏面における北一輝の暗躍とは、明らかに連動する」として、ロンドン海軍軍縮条約が調印された際の、「朕と共に神仏に祈願乞ふ」という明治天皇名の霊告は、「明治天皇の名を借りて……国家意志を体現しようとしたもの」とされる。5・15事件に際しての山岡鉄舟名その他の霊告が、どれも「まだ時期が早い」といって止めるのは、明治維新の「事例」を引いて「忠告」するもの、と解釈している。

 

・「霊告」という「宣託」の出所について、北一輝研究では「想像力」「無意識」といった心理学用語で済まされる一方、「心霊学」といった分野が示唆されることもある。北一輝研究の一里塚とされる田中惣五郎氏は、「お告げ」や「亡霊」について、「心霊学の域にぞくする」として、そのような説明を求めている。

 大正半ば以降の北が法華経読誦に没頭したこと、「亡霊」と語り始めたこと、とくに「霊告」を綴ったことについて、これまで多くの論者によって二つの契機が指摘されている。一つは、暗殺された友人、宋教仁の幻影を見たことである。もう一つは、法華経読誦による神がかりを永福虎造という行者に習ったことである。どちらも、弟・昤吉の記録が重要な典拠になっている。

 

・こういう問題を考えるときに、最も巧みな用語を工夫しているのは、やはりC・G・ユング(1875―1961)である。ユング的な解釈では、無意識は集合的無意識にまで拡大し、「漠然とした思いや心理」の範囲は限定が難しくなる。藤巻一保氏は霊告について、北の自我が後退し、「神仏」=「深奥の闇に形成された意識化の影の自我」が前面に出てきた者、と説明する。「影」とはユング心理学の用語である。『霊告日記』を、「その特異な性格から、アカデミズムが言及を避けてきた著作」「霊界通信録」と位置付けた藤巻氏の著作は、たしかに「まとまった分析は、筆者の知るかぎり、本書が最初のもの」とは言える。

 

・藤巻氏は北昤吉の記述などから、北の特徴を八つにまとめている。そのうち、「神秘的性質」「霊感」「神憑り的」「幻視者」の四つは「作家や詩人、画家」などとも共通し、五つ目の「法華経の「狂信者」」も少なくないが、六つめから八つめの「霊界通信ができる」「ウィルソンを呪殺したと確信する呪術者である」「予言者である」の三つについては、これらは「シャーマニズム研究に共通する難問であり、藤巻の説明もその前で足踏みしている。そこから一歩でも踏み出せば、ウィリアム・ジェイムズらの心霊研究が待っていることに気付くだろう。

 

「法」のせめぎあい

・西山茂氏の言う「霊的日蓮主義」には、日蓮的な仏法(宗教的世界観)、世法(実定法)に加え、さらに私秘的なビジョンという、三つめの「法」が関わる。この私秘的ビジョンを「心象」と呼ぼう。宮沢賢治が「自分の目に映る情景」を他人に伝えるときに用いた言葉を、用語として採用するものである。

 

・この三つの法は、宗教とまとめられる世界に、さまざまな組み合わせで交錯している。北一輝の場合、霊告(心象の範囲)は、法華経読誦(仏法の範囲)を手段として、国家改造(世法の範囲)に関与している。国体論の中にも、記紀神話(宗教法の範囲)、と統治(世法の範囲)と、各人のビジョン(心象)が交錯している。

 

・北夫妻のシャーマニズム技法について、藤巻氏の指摘で、最も重要なのは、永福から伝えられた「神懸かり」は「安直な方法」「興味本位の見世物」「民間巫覡や「霊術家」の降神法」「催眠術で身につけた精神統一」および自己暗示」であり、「複雑な手続きと厳格な次第」を持つ「日蓮宗の寄祈禱」とは異なる、という点である。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

 ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)

北一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件の「理論的指導者」として逮捕され、軍法会議の秘密裁判で死刑判決を受けて刑死した。

 

1920年(大正9年)12月31日、北は、中国から帰国したが、このころから第一次世界大戦の戦後恐慌による経済悪化など社会が不安定化し、そうした中で1923年(大正12年)に『日本改造法案大綱』を刊行し「国家改造」を主張した。

 

その後、1936年に二・二六事件が発生すると、政府は事件を起こした青年将校が『日本改造法案大綱』そして「国家改造」に感化されて決起したという認識から、事件に直接関与しなかった北を逮捕した。当時の軍部や政府は、北を「事件の理論的指導者の一人」であるとして、民間人にもかかわらず特設軍法会議にかけ、非公開・弁護人なし・一審制の上告不可のもと、事件の翌1937年(昭和12年)8月14日に、叛乱罪の首魁(しゅかい)として死刑判決を出した(二・二六事件 背後関係処断)。

 

死刑判決の5日後、事件の首謀者の一人とされた陸軍少尉の西田税らとともに、東京陸軍刑務所で、北は銃殺刑に処された。この事件に指揮・先導といった関与をしていない”北の死刑判決”は、極めて重い処分となった。

 

これ以降、梅津美治郎や石原莞爾など陸軍首脳部は、内閣組閣にも影響力を持つなど、軍の発言力を強めていった。

 なお、北は、辛亥革命の直接体験をもとに、1915年(大正4年)から1916年にかけて「支那革命外史」を執筆・送稿し、日本の対中外交の転換を促したことでも知られる。大隈重信総理大臣や政府要人たちへの入説の書として書き上げた。また、日蓮宗の熱狂的信者としても有名である。

 

  

 

『シリーズ日蓮4   近現代の法華運動と在家教団』

西山茂 責任編集    春秋社   2014/7/20

 

  

『石原莞爾と「世界最終戦争」・「東亜連盟運動」  仁科悟朗』

 

  

最終戦争論

・最終戦論が世に出たのは、1925年、ドイツから帰国の途中のハルピンでの国柱会の講演会であった。その後、1940年9月発表の『世界最終戦論』で、広く知られるようになる。

  過去の歴史をいろんな分野で探って見ても、今や人類の前史は終わろうとしている。そして絶対平和の第一歩になる、人類の最後の大戦争が目前に迫る、と将来を予想する壮大な理論であった。

 

 それは「Ⅰ.真に徹底する決戦戦争なり。Ⅱ.吾人は体以上のものを理解する能わず。Ⅲ.全国民は直接戦争に参加し、且つ戦闘員は個人を単位とす。即ち各人の能力を最大限に発揚し、しかも全国民の全力を用う」とされる。そしてこの戦争が起こる時期は、「Ⅰ.東亜諸民族の団結、即ち東亜連盟の結成。Ⅱ.米国が完全に西洋の中心たる位置を占むること。Ⅲ.決戦用兵器が飛躍的に発達し、特に飛行機は無着陸にて容易に世界を一周し得ること」で、間もなくやってくる、と考える。過去の戦争から何を学び、何を為すべきかの実践的な対処、決断を要請する理論でもあったのだ。

 

・「私の世界最終戦争に対する考えはかくて、1.日蓮聖人によって示された世界統一のための大戦争。2.戦争性質の二傾向が交互作用をなすこと。3.戦闘隊形は点から線に、さらに面に進んだ。次に体となること。の三つが重要な因子となって進み、ベルリン留学中には全く確信を得たのであった」

 

・石原の信仰への動機は、兵に、「国体に関する信念感激をたたき込むか」にあった、という。そこでその答えを神道に、または本多日生に求めたりして、模索を続け、遂に1919年に入信を決意する。日蓮の『撰時抄』中の「前代未聞に大闘諍一閻浮提に起こるべし」は、軍事研究に「不動の目標」を与えた、という。

 

国柱会の創始者の田中智学(1861-1939)は在家で、日蓮信仰の改革、高揚を目指すと共に、「八紘一宇」の旗の下、日本国体を強調して明治・大正・昭和時代に、仏教関係者に限らず、多方面に大きな影響を持ち、一つの枠に入りきれぬ人物であった。高山樗牛、宮沢賢治の師としても知られている。

 

1938年、石原は舞鶴要塞司令官時代に、信仰上の危機に襲われる。その衝撃は日記にも残っていた。「仏滅年代に関する大疑問!人類の大事なり」、「本年は仏滅2426?70年以内に世界統一???」。

  石原は大集経による正法の時代、仏滅後1000年、次いで像法の時代、1000年、これら二つの時代の後に末法の500年が来る、という信仰を持っていた。石原は信じる。日蓮は自分こそ、この最後の500年、つまり末法の最初の500年に釈尊から派遣された使者、本化上行なのだ、と自覚する。そして日本を中心に世界に未曾有の大戦争が必ず起こるが、そこに本化上行が再び出現し、本門の戒壇を日本に建て、日本の国体を中心とした世界統一を実現する、と予言したのだ、と。同時に石原は確信する。だがしかし時はまだ来ていない。その末法500年まで、つまり仏滅後2500年までに実現する、いやさせなければならない。それをこの日までの石原は疑っていなかった。

 

・それが仏滅の年代が後年にずれた結果、日蓮誕生が今まで自分が信じて疑わなかった末法の時代ではなく、像法の時代であることになる。それで信仰が根底から揺らぐ衝撃をうけたのだ。

 苦悩の末、日蓮の『観心本尊抄』の一節、「当に知るべし。この四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成りて愚王を誡責し、摂受を行ずる時は、僧と成りて、正法を弘持す」を支えにすることで、この危機を脱したのである。

 石原の言葉を引用しよう。「本化上行が二度出現せらるべき中の僧としての出現が、教法上のことであり観念のことであり、賢王としての出現は現実の問題であり、仏は末法の五百年を神通力を以て二種に使い分けられたとの見解に到達した」のであった。

 

・「五五百歳二重の信仰」である。この考えは以来、国柱会を始め、先学の批判にあっても、生涯変えようとはしなかった。石原の堅い信仰になる。西山茂氏が指摘する通り、アドベンティストの予言である。明確な年代表示に拠る信仰は、厳しい現実に直面することになる。日記にあった、仏滅年代が西暦前の486年とする。『衆聖點記』に従えば、没後2500年は間もなく到来する。中村元説に拠れば、釈尊入寂は、西暦前383年なので、現時点では必ずしも破綻したとは言えないのだが。