・次に、奄美のケンムンも富を司る性格を有していることを、以下の二つの事例によって確認しておきたい。

 

事例4

 その家は、野菜などを作るには便利の良い所だったが、そこまで行く道が悪かった。その家の後に水溜りがあって、そこの娘は暑い時にはすぐそれに入って浴びたところ、まだ十才にもならぬ娘なのに、おなかが大きくなった。不思議なことじゃねーといっているうちにお産をしたら、生まれた子がケンムンによく似ていた。ていねいに育ててみると、猫か何かみたいに、家の周囲を廻っていた。その家に野菜がいくら出来ても不便なので買いに行かなかったのであるが、女たちはその赤子を見たくて遠方からでも野菜を買いに来たために家計がよくなったそうだ。

 

事例5

 オジさんの奥さんの妹が山に入っていた時、ケンムンに迷わされて妊娠した。生まれた赤子はケンムンの子どもで、頭が丸く、手も足も真黒で手足の指は長かった。いつもヨダレをたらしていたが、たいへん力が強く、山へ行ってたき木を投げたり、モチを容易にひっくり返したりした。その家は笠利村で一番の分限者で金貸しなどもしていたが、そのケンムンの子供が五才ぐらいで死んでしまってから、たちまちのうちに落ちぶれてしまった。

 

・このふたつの話では、主人公はケンムンではなくケンムンと人間の間にできた子供ということになっているが、富を司るケンムンのイメージが反映しているものと理解していいだろう。

 ところで、次の話はどうであろうか。平安座島(うるま市)に伝わる話として佐喜真興英が報告したものである

 

事例6

 浜端の翁がキジムンと友達になり、キジムンは毎晩彼を連れて漁に出掛けた。左の目だけ自分で食べて後は、皆彼に与えた。彼はお蔭で長生きをした。後になって彼は、キジムンと交際するのが末恐ろしくなり、キジムンと交際を絶とうと決心した。ある晩、お前は何が一番恐いのかと聞くと、キジムンは蛸と鶏だと答へた。翁は次の晩タコを門口にかけ、自分は蓑を着て屋根の上に、キジムンがきた時に羽ばたきをして暁を告げる鶏の真似をした。キジムンは鶏かと思って立ちよらなかったが、よく見ると浜端の翁であることを知り、取り殺してやろうと進もうとしたが、門口にかけてあるタコが恐くて慄へあがって、そのまま姿を消してしまった。キジムンは浜端の家には来なくなったが、翁はその後三日経って死んでしまった。

 

・この話で、キジムンと付き合って浜端の翁が得た者は具体的な富ではなく長命ということになっているが、長命はすぐれた富の一種であり、これまでみてきた富を司るキジ譚と同一のメッセージを伝えるものとして理解していいだろう。

 

・以上のことより、キジムナーが家の盛衰を司る存在であることが明らかとなる。くりかえして言うと、キジムナーと仲良くなり、それとうまく付き合っている間はその家は富み栄えるが、キジムナーを追放した家は何らかの災いを被り、衰退することになるのである。この点でのキジムナーは、主に東北地方で伝えられているザシキワラシと共通した性格を有することになる。

 

キジムナーと縁切りをする理由

・この説話におけるキジムナーとの縁切りは、魚を独占して金持ちになった家が周囲の人に妬まれたことが契機となっており、話の展開としては納得しやすい内容になっている。しかし、この種の筋書は管見の限りではこの一例しかなく、他のほとんどすべては、キジムナーと親しくしてきた当人自身がキジムナーを追放する話である

 縁切りをする理由について多くの逸話にあたってみても、明確に語られることがなく、また語られたとしても、キジムナーとの付き合いが煩わしくなったからといった程度のものでしかない。富み栄えたことを妬まれた結果、妬みを抱く人々によってキジムナーが追放されるのは理にかなった筋書で納得しやすいのだが、富をもたらしてくれるキジムナーを、それとの交際が煩わしいというだけの理由で追放したというのは、どうも釈然としないものが残る。話の結末を知っている我々としては、少々煩わしくてもキジムナーとの交際を続けておけばよかったのに、と思うことになるのである。

 

キジムナーの両義的性格>

本章では、人間に対するキジムナーの存在が、正・負(プラス・マイナス)両面の性格を有して、いるということに注意を向けていきたい。まずは、正の側面からみていくことにする。

 キジムナーが人間にとってプラスの存在であることは、海での漁や山から木を運ぶ手伝いをすることによって人間に富をもたらす存在であることに端的に現われている。さらに、キジムナーと友だちになり、大和見物に連れていってもらった話や、キジムナーが住んでいるウスクの木に芋を置くと、一週間ほどでキジムナーと友だちになることができるという話も、キジムナーのプラス面と関わるはずである。

 その一方で、キジムナーのマイナス面を語るものとしては、井戸裏の燃えさしで人間の目に突き刺すなど、人間に非常に残忍な仕返しをするという点に見出すことができるだろう。以下で、キジムナーによる残忍な復讐譚の事例をさらにいくつか追加しておく。

 

・さらに、キジムナーの性格のマイナス面を示すものとしては、おなじみの寝ている人の胸を押さえつける話や、キジムナーが人間の霊魂を抜き取るという話などをあげることもできる。久高島(南城市)では、キジムナーに連れ去られた女性が、村人の必死の捜索により洞穴から発見され家に連れ戻されたが、赤土を食べさせられた痕跡があり、周囲の人間による看病のかいもなくしばらくして病死したという話が伝えられている

 

事例12)

(1) ある人が嫁に行ったけれど、姑めがとてもきびしくていじめたそうな。

(2) 最期には、夫も姑めといっしょになって、嫁をだまして奥山に連れて行ったそうな。

(3) そして、両方の手を広げて、カジュマルの木に、五寸釘で打ちつけたそうな。そして殺したそうな。

(4) この嫁の魂が、ケンムンになったそうな。神様にはなることができず、人間に石を投げたり、千瀬や山のガジュマルの木にいたりするそうな。

(5) ケンムンは、人が「おうい」と言うと、「おうい」と答えて、「相撲取ろう」と言うそうな。夜歩いていると、火が何十もついたり、消えたりするのを見ることがあるけれど、あれは、ケンムンの頭に皿があって、その中の水が光って、そう見えるということだよ

 

・副田晃は、奄美ではケンムンの由来譚として語られる説話が、沖縄では、この事例のように木の精の由来譚として語られる傾向にあることを指摘しているが、そのことからも、木の精とキジムナー(ケンムン)との間にはつながりがあることが理解できるだろう。

 

「最近、キジムナーがめっきり見えなくなったのは、沖縄戦の時に艦砲射撃で皆やられたらしい」という説があるという。キジムナーの絶滅化の一方では、大宜味村は1998年の村制90周年記念事業として、ブナガヤのキャラクターデザインを公募し、大賞に選ばれた作品を村起こしに活用しようと試みている。大賞に選ばれた作品は愛らしくデザインされており、子どもたちのマスコットに相応しいものとなっている。当然のこととはいえ、人間を拉致したり、人間に残忍な仕返しをしたりするキジムナーのネガティブな側面は完全に捨象されており、その点は冒頭に掲げた「チョンチョンキジムナー」の歌も同様である。

 キジムナーの絶滅化と、一方でのキジムナーのマスコット化という今日的現象は、われわれの社会が長い歴史を通じて維持してきた人間と自然との緊張が失われてしまったこと、あるいは失いつつあることと相関関係にあると考えていいだろう。

 

山から木を運ぶキジムナー

・伊波普猷は、キジムナーを「もと海から来たスピリットで、藪の中や大木の上に棲み、人間には少しも害を及ぼさないもの」と述べているが、海から来たスピリットであることの根拠は示されていない。また渡嘉敷守も、キジムナーが海で漁を営むことに着目してキジムナー海に原郷を持つ存在として捉えている。これらの見解は、先に検討したキジムナーの語義からしても同意できるものでなく、本章で注目するところの「山から木を運ぶキジムナー」の性格を無視したことから導かれた誤った見解である。 本章では、従来の研究では注意が向けられることのなかった山から木を運ぶキジムナーにについて焦点を当てることによって、キジムナーについての理解をさらに深めていくことにしたい。

 

・大宜見村の二つの事例から、山から材木を運び、あるいはさらに家造りを手伝うというキジムナーの性格が明らかになる。山から材木を運ぶというキジムナーの話は、その他に、大宜味村白浜と国頭村安田からも採録されているが、他のモチーフに較べるとそれほど数は多くなさそうである。しかし、このモチーフを有する話がかなり古い時代から存していたことは、17世紀初頭の琉球に滞在した僧侶の袋中が記した『琉球神道記』の記事からして明白である。

 

・この話でいう「國上」(国頭)は、沖縄本島北部のいわゆる山原地方のことだと思われる。造船用の材木を山原の山から伐る際に、琉球国の人たちは「山神」(山の神)に依頼するのだが、山の神は次郎・五郎という二人の小僕に言い付けて(下知して)それを実行させるというのである。小僕という表現は、次郎・五郎が山の神の家来であり、かつキジムナーがそうであるようにその身なりが小さいことを意味しているだろう。次郎・五郎が日本衣装を着ているとか、名前も日本的だというのも興味深いが、いずれにしてもこの次郎・五郎が、今日のキジムナーに系譜的に繋がるものであることは疑い得ない。

 この説話の舞台も沖縄本島北部であるが、山から木を運び家(船)造りの手伝いをするというモチーフの話は、砂川拓真が指摘するように山が豊富にある沖縄本島北部に集中的に分布するものである

 

山から木を運ぶキジムナーの性格に注目する理由について言及する前に、類話が宮古と奄美にも存在することを確認しておきたい。宮古にはキジムナーという言葉はないが、キジムナーと類比できる説話上の存在が認められる。マズムン(マズムヌ)あるいはインガマヤラブ、インガマヤラウなどと呼ばれるものがそれであり、まずは、旧伊良部町佐和田の次の説話に注意を向けたい。

 

事例19)

・伊良部の人がインガマヤラウというマズムン(魔物)と友だちになり海に漁に行くが、マズムンのすみかをつぎつぎと焼いたので、マズムンは八重山に移り住むことにする。マズムンが「遊びにこい」と言ったので、男は八重山に行きマズムン家を捜す。男はマズムンの友だちに会ってマズムンの家を聞き、「マズムンの家を焼いたのは自分だ」と話す。マズムンの友だちが、それをマズムンに話すと、マズムンは男に仕返しをしようと思い、みやげ箱を一つ与えて、「家に帰ったら、家族を集めて戸を閉めきって箱を開けろ」と言う。男は帰る船の中でみなに「箱を開けて見せろ」とせがまれ、箱を開けると、マラリヤの菌が飛んでいって来間島に着き、島の人はみな死んだ

 

・この説話に登場する「インガマヤラウというマズムン」は、人間と漁をし、住処を焼いた人間に復讐するという点において、キジムナーと同じ性格を有していることがわかる。罪のない来間島の人たちがマズムンの仕返し犠牲になったという語りは興味が引かれるところだが、その点は不問に付しておく。

 つぎに、宮古のマズムンも家造りのために木を運ぶ性格があることを、以下にあげる旧上野村新里の説話によって確認したい。

 

(事例20)

津波で生き残った人たちが、知らずにマズムン(魔物)の集まる所に村を作る。村人たちが広場で踊っていると、マズムンも加わって踊り、鳥の鳴き声がすると帰っていく。ふしぎに思った村人が鳥の鳴きまねをして、あわてて帰ろうとしたマズムンを朝までつかまえていると、焼けた木になる。マーガという人がマズムンたちのところへ行って、「家を建てる材木を運んできてくれたら、ごちそうをする」と言うと、マズムンは承知する。マーガは、マズムンたちが家の近くまで材木を運んでくると、屋根で鳥の鳴きまねをすると、マズムンたちは材木を置いて逃げる。マーガは翌日の夜「ごちそうを作って待っていたのに、なぜ来なかったか」とマズムンに言い、同じようにして一軒分の材木を運ばせた。

 

・このように、宮古の説話に登場するマズムンやインガマヤラブは、沖縄本島地域のキジムナー同様に、材木を運び、家造りを手伝う性格を有していることがわかる。キジムナーとの違いは、宮古の場合は、人間にだまされて木を運ばされるという点にある。事例20の「マズムンを朝までつかまえていると、焼けた木になる」という語りやインガマヤラブのヤラブが樹木の名称であるのは、この妖怪が、キジムナーと同じく木の精霊の化身したものであることを示しているものと思われる。

 次に、奄美のケンムンについてみていきたい。

 

事例22>)昔、ある所にひとりの大工の棟梁がいた。その人は独身で、自分には嫁の来てがないだろうと思っていた。ところが、同じ村に絶世の美人がいて、これまた自分には良人になる人がないだろうと思っていた。が、ある日のこと、棟梁が美人を見染めて、自分にはあの人以外には妻になるものはいないと思ったので求婚した。

(1) ところがその女がいうことには、「はい。あなたの妻になりましょう。だが一つ条件があります。それができたら私はあなたの奥さんになりましょう」と言った。その条件とは、畳が六十枚敷ける家で、内外の造作のできた立派な家を一日で建築してほしいというのであった。

(2) それで棟梁は「よろしい、一日で完成してみよう」と言って家に帰った。ところが容易に引き受けたものの、はたと困ってしまった。考えに考えぬき、そこで彼は藁人形を二千人作ってまじないをして、息を吹きかけてみたら人間になった。彼は、二千人のひとりひとりにそれぞれの役を割りあてて、その一日で注文通りのすばらしい家を完成した。

(3) そこで彼は彼女の所へ行き、約束を果たしたことを告げると、「仕方がありません。約束通りあなたの奥さんになりましょう」と言って、そこで二人は夫婦になった。

(4) 数年経て、妻が棟梁に「自分はこの世の者ではない。自分は天人である、だから人間であるあなたと暮らすことはできない」と言った。が、棟梁も、「自分も人間ではないテンゴの神である」と言った。そして、「先の二千人の人間は元に返そう」と言って息を吹きかけたところが、みんなケンムンになった。

(5) そこで千人は海、残りの千人は山に放してやった。七月頃になると、「ヒューヒューヒュー」と言いながら海から山にケンムンが登るそうだ。

 

 この話では、大工の家造りの手伝いをした藁人形がケンムンになったとはっきりと語られていることに注目したい。この点を踏まえたうえで、奄美のケンムンに関する資料に注意を向けていくと、たとえば、「クィンムンは人間に悪戯もするが、また協力もする。山から木を伐って下ろす手伝いをしたり、海での貝拾いを手伝ったりする」という報告を見いだすことができる。

 

・原田信之は、八重山地域におけるキジムナーと同類の妖怪の名称として、石垣島のマンダー、小浜島のマンジャー、マンジャースー、西表島のアカウニなどがあるとし、次の小浜島の事例をあげている。

 

(事例23)

 昔、男がマンジャーと友達になった。毎日魚を取り、マンジャーは目玉を、男は魚を取った。うるさくなった男は、マンジャーが出てくるあこうの木に火を付け、伐採した。怒ったマンジャーは、男を呪い、焼いたので、男は岩の下に隠れた。

 

 この話に登場するマンジャーは、友人となった人間との魚取り、人間の裏切りとその後のマンジャーによる復讐などの筋書きからして、明らかに沖縄のキジムナーと同類のものである。類話は、西表島でも確認できるのでそれについてもみておこう。

 

(事例24)

 網取のクバデーサーの木にいたシーというのは木のヌシ(主)のようなものです。クヮーキ(桑の木)にもやっぱりヌシがいます。桑の木の穴から人の形をしたシーが出て来て、魚をとる時にたくさん魚がとれるように助けてくれるのです。

 

 「人の形をした木のシー」というのはキジムナーそのものであり、魚取りのモチーフも沖縄のキジムナーの話と一致する。このように、数は少ないものの、八重山地域においても沖縄のキジムナー譚と類比できる説話があることがわかる。しかし、筆者が注目したいのはこの種の存在(説話)ではなく、じつは、これまで沖縄のキジムナーとの関係では全く言及されることなく看過されてきた説話が八重山地域には存在しているという事実である。

 以下にあげるのは、「小人伝説」という項目で『沖縄文化史辞典』に掲載されたものである。

 

(事例25(西表島祖納))

 昔、西表島の祖納部落にひとりの貧しい若者がいた。住むに家なく、着たきり雀の乞食同然のあわれな姿で、誰も相手にしてくれない。赤子の時に両親を失い、お爺さんに養われたが甲斐性がないので、お爺さんにもきらわれて家を追い出されてしまった。悲しさのあまり若者は泣きながら、無茶苦茶に山奥を歩きまわり、泣き疲れて洞穴かと思われるばかりの大木の虚にたどりつき死んだようにねむった。何時間たったかわからぬが、ふとどこからか声がする。「若者よ悲しんではいけない、元気を出して懸命に働けば、きっとお前は幸福になれる。御前はこれからすぐ御前が生まれたお父さんお母さんの屋敷に帰って見るのがよい」。ハッと若者は起き上がった。木の虚からさすすがすがしい朝の光に、若者は元気を取りもどして山をかけ下り、自分の屋敷にいった。ところがどうだろう。屋敷は草一つないまでに掃き清められ、屋敷の真中に大きな大黒柱が一つ立っている。これはどうしたことか、昨夜の夢といいこれはただごとではないぞ、と若者は物陰に隠れて、しばらく様子を見ているとたくさんの小人がエッサ、コラサといろいろな材木を運んで来る。物に憑かれたように若者が小人の後を見え隠れにつけていくと、だんだん山奥へ入り、驚いたことにたしかに昨夜一夜の宿を借りたあの大木の虚へ入っていくではないか。彼は夢ではないかとじっと目をこらしていると今度は小人たちがエッサ、コラサと建築材料をかついで麓へととんでいった。彼は木のほらの入り口へ近づき、そして梢を見上げると、それは西表の樵夫達がジンピカレーといっている木(和名、ヤンバルアワブキ)であった。若者はその一枝を折り取って急いで自分の屋敷へ引き返したが、そこはりっぱな家がすでにできあがって村の人達が集まって落成式の準備をしているところであった。村の人たちは若者を大黒柱のそばに案内した。若者がよくよく見れば、それはジンピカレーであった。思いあたるところがある若者は、手にもったジンピカレーの枝を打ち振り打ち振り大きな声で落成式の祝いごとをとなえながら大黒柱のまわりを何回もまわり、村の人たちも唱和した。それ以来だれも若者を馬鹿にする者はいなくなった。小人の話を伝え聞いた村人たちは誰いうとなくジンピカレーにユピトゥンガナシ(寄人加那志)の名をつけ、柱立て(建築の初め)の儀式にはかならず大黒柱の先きにユピトゥンガナシをかけるようになった。

 

 この「小人伝説」は、琉球諸島の説話資料を集大成している山下欣一・他編(1989)および稲田・他編(1983)にも収録されておらず、キジムナー説話の類話としてとりあげられたのはかつて一度もないが、これまで山から材木を運び家造りの手伝いをするキジムナーの話をみてきた我々としては、この説話に登場する小人は「八重山のキジムナー」だと断定することができる。この説話から「八重山のキジムナー」が建築儀礼と関わっていることを窺うことができる。

 

八重山の家の神

・八重山諸島では、床の間に「家の神」を表彰する香炉が置かれるのが一般的で、それをザーフンズンと呼ぶ宮良部落についての報告では、「ピヌカンとザーフンズンがそろって一世帯という条件とみなし、それを『プトゥキブル』と呼んでいる。プトゥキブルの一つであるザーフンズンは家の主要な守りであるとし、新築したときの落成式に拝んだ香炉を床の間に置き、ザーフンズンとする」とされている。

 

・八重山の家の神の変遷について、次のような仮説を導き出すことができたと考える。八重山の床の間で祀られる家の神の正体は、両義的性格が馴化された木や茅の精霊である。この家の神は中柱に宿るものであったが、家屋の内部に床の間が設置されるようになったことを契機にして床の間の香炉を通しても拝まれるようになった。その点については、与那国のトラノハの香炉とドゥントゥヒラの関係、白保のミーシキ儀礼におけるフンジンと中柱の関係などにその痕跡を窺うことができた。次の段階として、床の間の香炉と中柱の関係が忘失される一方で、中柱に対する信仰は残存し、さらに、床の間の香炉で祀られる神は、実体不明の家の神として拝まれるという現在のような状況を迎えることになった

 

 

 

『琉球怪談』 現代実話集  闇と癒しの百物語

小原猛   ボーダーインク  2011/2

 

 

 

<キジムナー>

・たとえば沖縄でもっとポピュラーな妖怪であるキジムナーは、戦後という垣根を越えると、急激に目撃例が減少している。取材していく中でも「戦前はキジムナーがいっぱいいたのにねえ」「戦後すぐはいたけど、もういないさ」という、オジイ、オバアの声を聞いた。

 もしかしたら戦争でのウチナーンチュの意識が変わり、キジムナーの存在を受け入れなくなってしまったのかもしれない。沖縄戦、という次元を超えた壁が、怪の世界にも立ちはだかっていることを、身を持って実感した。

 

<戦後の駄菓子 キジムナーのはなし1>

・Nさんはとある離島の出身である。

 Nさんのまわりでは小さな頃から、キジムナーの話は日常的に伝えられてきたのだという。

 その昔、キジムナーは家々を回り、さまざまな人々と物々交換をしていたのだという。

 

・島のキジムナーは、本島のキジムナーのようにガジュマルの樹を住処とせず、洞窟の中で暮らしていたという。

 戦前までは、むらを訪れては食べ物を交換したり、人間に火を借りにきたことさえ、あったのだという。そんなキジムナーも、戦後はぱったりと現れなくなった。

 だがNさんは、幼い頃にキジムナーを一度だけ見たことがあるのだという。

 夕暮れどき、Nさんがまだ子どもの頃、実家の家の近くの浜辺で遊んでいたときのこと。

 一人のキジムナーが、森の中から現れて、Nさんのほうをじっと見ていたのだという。友達数人もその場所にいたが、彼らにはキジムナーを見えるものと、見えないものに分かれたのだという。見えたもの代表として、Nさんはキジムナーに声をかけることになった。

 Nさんは、知っている限りの方言でキジムナーに挨拶をしたが、どれも無視されてしまった。

友達の一人が、駄菓子をくれたので、Nさんはキジムナーのそばまでいって、駄菓子をあげたのだという。

 するとキジムナーはそれを奪ってから、すばやく林の中に逃げていった。それが、おそらく島で見られた最後のキジムナーに声をかけることになった。

 それ以来、キジムナーを「感じた」とか、「らしき影を見た」という話は、何度も耳にしたそうだが、キジムナーに正面で出会ったという話は、あまり聞かれない。

 

<小便 キジムナーのはなし2>

・Tさんが子どもの頃、Fくんという友達がキジムナーが棲んでいたといわれているガジュマルの木に立小便をしたそうである。

 友達は、えい、キジムナーなんていないさ、怖くない、と大声で叫びながら、木の周囲に小便を輪のようにひっかけた。キジムナーを見たことはなかったが、信じていたTさんは怖くなって一目散に家に帰ったという。

 夕方、気になったTさんは、小便をかけた友達が住んでいる団地へ行ってみた。

 

・すると、部屋の中は見えなかったものの、3本指の奇妙な跡が、いくつもガラス表面についているのが見えた。

 まるでニワトリの足のような、3本指の奇妙な跡が、いくつもガラス表面についていた。

 

・次の日、Fくんは学校を休んだ。そして次の日も、次の日も学校を休んだ。

結局、1週間学校を休んで、帰って来たときにはゲッソリと痩せていた。

学校で久しぶりに会ったFくんは、Tさんにこんな話をしたそうだ。

 小便をかけてしばらくすると、気分が悪くなってきた。

 家に帰ると、立てなくなってそのまま寝込んだ。

 母親がどうしたのかと聞くので、しかたなくガジュマルに小便をかけた、と本当のことを言った。母親はあまり迷信を信じるほうではなかったので、風邪ぐらいにしか考えていなかった。

 ところが、Fくんが寝ていると、ベランダにまっ赤なキジムナーが何人もやってきては、ガラスをぺちゃぺちゃたたき出した。母親も一緒になってそれを見たので、すぐさま知り合いのユタを呼んで、その夜にお祓いをしてもらった。

 ユタがいうには、この子がしたことは悪質だったから、お灸をすえる意味でも、1週間は熱を引かさないようにした、とのことだった。

 その言葉通り、Fくんはちょうど1週間後に熱が引き、学校に来ることができたという。

 

<赤ら顔  キジムナーのはなし3>

・Wさんが子どもの頃、学校に行くと、友人の一人がおかしなことになっていた。

 顔は赤く晴れ上がり、はちきれんばかりにバンバンになって、非常に苦しそうだった。本人も、息ができんし、と喘いでいる。先生が寄ってきて、どうしたね、と聞くと、その生徒はこんな話をしたそうだ。

 朝起きてみると、顔が赤く腫れ上がって、息ができない。オバアに相談すると、「これはキジムナーが悪さをしているから、ユタに見てもらいに行こう。ただし、そのユタは午後からしか見れないから、昼過ぎに学校に迎えに行くまで、学校でおとなしくしている」と言われたそうだ。

 

・次の日には、その子は何事もなかったようにケロッとして、学校に登校してきたそうである。

  

<今帰仁の小さなおじさん>

・Fさんが早朝、自転車に乗っていたとき、目の前の空き地に、知り合いのオジイが倒れていたという。

 死んでいるのかと思って自転車を降りて近寄ってみると、酒のちおいがプンプン漂ってきた。おい、このオジイ、酔っぱらってるし。Fさんがオジイの肩に手をかけて、起こそうとしたその時。

 倒れているオジイの周囲に、5人くらいの小さなおじさんが、オジイを背もたれにして座っていたのだという。

 オジイを揺らしたものだから、びっくりした5人のおじさんたちは悲鳴を上げながら、一斉に走って逃げたという。

 おじさんたちは空き地の中へ一目散に逃げると、そのままパッと掻き消えるようにしていなくなった。

 

・Fさんが眉をひそめながら自転車に戻ろうとすると、自転車の周囲にも小さなおじさんたちが複数いた。

 Fさんがびっくりして「うわあ!」と叫ぶと、それに逆にびっくりしたのか、クモの子を散らすようにして逃げ去ったという。

 おじさんたちは、それぞれ上半身は裸で、眉毛がつながっていたのが印象に残っているという。

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より

<小さいおじさん(ちいさいおじさん)>は、日本の都市伝説の一つ。その名の通り、中年男性風の姿の小人がいるという伝説であり、2009年頃から話題となり始めている。

『概要』 目撃談によれば、「小さいおじさん」の身長は8センチメートルから20センチメートル程度。窓に貼りついていた、浴室にいたなどの目撃例があり、道端で空き缶を運んでいた、公園の木の上にいた、などの話もある。ウェブサイトでも「小さいおじさん」に関する掲示板や投稿コーナーが設置されている。

 

<キジムナー(キジムン)>は、沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の生物、妖怪で、樹木(一般的にガジュマルの古木であることが多い)の精霊。 沖縄県を代表する精霊ということで、これをデフォルメしたデザインの民芸品や衣類なども数多く販売されている。

多くの妖怪伝承と異なり、極めて人間らしい生活スタイルを持ち、人間と共存するタイプの妖怪として伝えられることが多いのが特徴。

『概要』 「体中が真っ赤な子ども」あるいは「赤髪の子ども」「赤い顔の子ども」の姿で現れると言われることが多いが、また、手は木の枝のように伸びている、一見老人のようだがよく見ると木そのものである、などともいう。土地によっては、大きくて真っ黒いもの、大きな睾丸の持ち主などともいう。

 

 

 

『ニッポンの河童の正体』

 飯倉義之  新人物ブックス  2010/10/13

 

 

 

<外国の河童たち>

 <○○は外国の河童?  -河童は日本固有種かー>

・では日本以外の土地に河童は存在しないのだろうか?どうやらそうではないようだ。世界各地の妖怪を紹介する本や文章ではしばしば、「妖怪○○は××国の河童である」というような紹介され方がなされるように、海外の妖怪を日本の河童にあてはめて紹介することはままある。たとえば、韓国のトケビがそれである。

 

 <「トケビは韓国の河童」か?>

・韓国の「トケビ」は山野を徘徊する小鬼で、その正体は多く血がついたことにより化けるようになった、箒(ほうき)やヒョウタンなどの日常の器物である。トケビは人間を化かしたり、道に迷わせたり、野山に火を灯したり、快音を出して驚かせたり、夜に人家に忍び込んだり、格闘を挑んで負けたりと、ほとんどの怪しいことを一人でまかなう「万能妖怪」として大活躍を見せる。そのユーモラスな風貌と多彩な行動は、よく河童と比較される。

  

・前項でも河童の親類として紹介した奄美のケンムンやブナガヤ、琉球のキジムナーもまた、そうした「万能妖怪」という点でトケビとよく似た存在である。小柄でザンバラ髪の童形、好物や嫌いな物がはっきりとしており、ユーモラス。人間に関わり、からかう。トケビとケンムン・ブナガヤ・キムジナーと河童とは、性格や行動が共通していることは一目瞭然である。

  

・しかし重大な相違点もある。トケビは器物の化け物、ケンムン・ブナガヤ・キジムナーは樹木や森林のムン(化け物)としての性格が強く、河童の存在の根幹である水の化け物という性格を持ち合わせない。性格の一致と属性の不一致が、河童とトケビの間にはある。

 

 <「ヴォジャノイはロシアの河童」か?>

・他に多く「外国の河童」として挙げられる存在に、中国の河水鬼や水虎、ロシアのヴォジャノイやルサールカ、チェコのヴォドニーク、ポーランドのハストルマン、ドイツのニクス。フィンランドのネッキ、スコットランドのニッカールやケルピーなどが挙げられる。

これらの存在はいずれも水界に棲む存在で、人間や牛馬を水の中に引き込むとされ、彼らに挙げる季節の祭りなどが催されることなどが、河童と同一視される点である。

  

・しかしこうした水精の属性や行動以外の点では、河童と彼らの隔たりは大きい。河水鬼やヴォジャノイ、ヴォドニーク、ハストルマンは髭を蓄えた老人とされ、湖底で自分の財産である牛馬の群れや財宝を守って暮らし、機嫌が悪いと川を荒れさせるという固陋な存在である。ニクスやネッキ、ニッカールは成人男性の姿で現れて、荒々しく牛馬や子どもや婦女子を奪い去る肉体派である。ネッキやその同類が、半人半馬や馬に化けた姿を取るというのは、馬の姿をしていて人を水の中に誘い込むケルピーとも共通する。

  

・ケルピーに代表される「ウォーター・ホーズ」伝承は、ヨーロッパ各地にあまねく広がっており、龍の妖怪伝承といえば、ロッホ・ネス・モンスター、すなわち「ネッシー」である。ケルピーは河童と同じくらい、ネッシーにも近しい存在なのだ。

 

・ルサールカには溺死者の浮かばれぬ霊というイメージが色濃くついており、この点で幽霊や産女、雪女に近い属性を持つといえる。

  どうやら「××の河童だ!」と言われてきた妖怪たちは、河童と重ね合わせて理解できる部分とそうでない部分とを、同じくらいの分量で持ち合わせているようである。

 

 <やはり「河童は日本の河童」か?>

・水はわれわれの生存に欠かせないと同時に、恐るべき存在であるがゆえに、水の神と水の妖怪を持たない文化はない。そのような意味で、「河童は世界中に存在する」。

  

・しかし今見てきたように、そうした河童的な存在がどのような姿で現れ、いかなる言動をとるかは、文化によって全く違う。ロシアの冷たい湖水に棲むヴォジャノイは老人の姿で重々しく、スコットランドの湖沼地帯に棲むケルピーは活動的で攻撃的だ。そして里近くに多くの川や小川、沼や溜め池をもつ日本の河童たちは、人に近しく愛嬌があり、どこか深刻でない表情を持つ。一方で、日本の河童に近い韓国のトケビ、奄美のケンムンやブナガヤ、琉球のクジムナーは、水の精という性格をほとんど持っていない。

  

・こうした水の神・水の妖怪の多様なありようは、各々の文化において人と水とがどう関わっているかに規定されている。その意味では、「河童は日本にしかいない」。

  妖怪を比較することはすなわち文化を比較することなどである。「妖怪○○は××国の河童である」という言い切りは、あまりにも大胆すぎるもの言いであるだろう。