(2024/5/6)

 

 

日本怪異妖怪事典 四国

毛利恵太(著)  朝里樹(監修) 笠間書院  2023/4/26

 

 

 

・四国地方は狸の宝庫として有名です。隠神刑部と呼ばれる講談に語られる狸の長、道行く人におんぶをねだる可愛らしい狸・赤でんちゅうなど、様々な狸たちが載せられています。そして四国にはいないなどと言われる狐たちもまた、実は四国に豊富に存在していることも教えてくれます。

 

鬼籠野(おろの)の鬼

・徳島県名西郡鬼籠野村(現・名西郡神山町鬼籠野)に伝わる。

 昔、この地に鬼が棲み着いて民を悩ませていたので、朝廷は藤原某という者を派遣して悪鬼退治の祈禱を行わせた。すると大日霊(天照大神の異称)、軻遇突智(かぐつち)、金山彦、句々廼馳(くくのち)、埴安姫(はにやすめ)、罔象(罔象女命)の六神が降臨し、鬼たちを谷間に追い込んで誅した。この伝説から鬼籠野という村名が名付けられたとされている。このため、鬼籠野神社はこの六神を祀っている。

 

怪獣ヶ峰(かいじゅうがみね)の大男

・徳島県三好市山城町の大歩危(おおぼけ)辺りの話。

 昔、いつの頃からか歩危の山に一人の大男が現れるようになった。この大男は見た目こそ人と違わないが、人の三倍とも四倍ともされるほどの大きさと力を持っていた。大男は四国三郎(吉野川の異称)を中にした峡谷を片足も濡らさずに飛び越え、ときどき村里に出ては田畑を荒らした。そればかりか村の若い女が姿を消すこともたびたびあったので、村人は神仏に祈ったり修験者に祈禱を頼んだりしたが、疾風のように現れて疾風のように去る大男には何の効き目もなかった。村人たちは生きた心地もしなかったが、ある時讃州(讃岐国、現在の香川県)から来たという浪人が「拙者が退治申そう」と言って怪獣ヶ峰へと入っていった。浪人が峰に入ってから、昼頃になって山鳴りが響き始め、次の日の明け方まで続いた。そして山鳴りが収まってからは平和な日が続き、大男も浪人も再び姿を見せることはなかったのだという。

 

金長狸(きんちょうたぬき)>

・徳島県勝浦郡小松島日開野(ひがいの)(現・小松島市日開野町)に伝わる。

 江戸時代末期に成立し、後に講談や映画などの題材にもなった「阿波狸合戦」の主人公。

 金長は日開野の鎮守の森に巣を構え、村の狸たちの頭領であった。しかし洪水によって巣が壊れてしまったため、眷属を率いて染物屋・大和屋茂右衛門の土蔵のそばに穴を掘って避難してきた。狸の巣穴を見つけた茂右衛門は狸たちを追い出さず、逆に飯や油揚げを供えさせたので、金長は恩返しのために大和屋を大いに繁盛させた金長は店に勤めていた職人の万吉に取り憑いて茂右衛門と意思疎通するようになり、茂右衛門は繁盛を感謝し、祠を建てて金長大明神として祀るようになった。ある時、金長は自身が位を持っていないことを気にかけ、四国の狸の総大将である津田浦の六右衛門狸の元で修行をすることにした。六右衛門の元で頭角を現した金長だったが、その才覚を恐れた六右衛門と対立するようになり、やがてそれぞれが軍勢を率いた合戦が始まった。合戦の結果、金長が六右衛門を食い殺して勝利したが、金長も戦いの負傷によって間もなく死んでしまったという。その後、茂右衛門は金長の願いを叶えるべく、京都の吉田家に願って正一位を授けてもらったのだという。

 

庚申新八(こうしんしんぱち)>

・徳島県徳島市左古町(現・徳島市南佐古三番町)の天正寺の話。

 天正寺の庚申堂は神籤(みくじ)がよく当たると評判だったが、これは傍らに祀られている庚申新八という狸の力であるという。新八は庚申谷に棲む狸のお頭で、阿波狸合戦の時は金長狸に味方して旗頭として活躍したという。

 

式部超えの妖怪

・徳島県美馬郡脇町(現・美馬市)に伝わる。

 昔、式部の村落の式部超えと呼ばれる山に、たびたび妖怪が現れて村人や通行人を脅かしていた。村の名主は「妖怪を退治した男には娘を与えて名主の跡目を継がせる」と約束したので、多くの男が妖怪退治に向かったが、誰一人として帰ってこなかった。名主が途方に暮れていると、ある日、身の丈が七尺(約2.1メートル)、顔は鬼瓦のようで、全身に猪のような毛を生やした男がやって来た。

 

・別の話も伝わっている。昭和の初め頃、左衛門という男が平帽子のほうへと出かけていったが、いつまでも帰ってこないので家族が心配し、人を雇って式部超えの地蔵さんの辺りまで探しに行かせた。

 

・左衛門の話によると、左衛門は恐ろしい式部超えの大滝道を恐る恐る登っていたが、ある所で胸騒ぎに襲われ、坂を見上げた。するとそこに足が細くて背の高いものが突っ立っていたのだという。それの目玉はチョク(猪口、盃のことか)ほども大きく、口が耳まで裂けていて、顔全体が馬のように長くざんばら髪で、耳が立っていた。それがそろそろと坂を下ってきたので、左衛門は「殺される」と思い、そこから先は何も思い出せないのだという。

 

常光寺の頬冠り(ほおかむり)

・徳島県那賀郡富岡町黒津地(現・阿南市黒津地町)の話。

 黒津地の常光寺の辺りは昔、竹藪が続き昼でも薄暗く、狸も棲み着いていた。この狸が豆絞りの手拭いで頬冠りをした男に化けて出たという。その他に悪戯をすることはなかったが、常光寺の近くを通ると頬冠りの男が出ると噂され、「常光寺の頬冠り」と恐れられた。

 

正夫谷(しょうぶだに)の高入道(たかにゅうどう)

・昔、山越谷の正夫谷(現・徳島県三好市井川町井内東辺りか)に、高入道が出没したことがある。この地を通る人が出会い、恐ろしく思って下から見上げると次第に背が高くなり、雲の上まで届く大坊主になってしまう。初めから恐れず上から下へ見下ろすと次第に小さくなり、百目(100匁か)の打綿を丸めたようなものになって消え失せてしまうという。この変化は、山伏が字・大日にある練石の大日如来の前で千巻供養の真経を読んだら出なくなったのだという。

 

白木山の牛鬼

・筆者命名。徳島県海部郡牟岐町に伝わる。

 昔、白木山に牛鬼という巨獣が棲んでいて、西俣の付近に出没して人や家畜を食っていた。ある時、平野に住む平史郎という猟師が白木山に入り、呼子の笛を吹いて牛鬼を呼び出した。そして許しの弾(京都の𠮷田家から授かるもの。許しの弾・関の小刀・高野の巻物の三点は猟師の身の守りなのだという)を撃ち込んで牛鬼を退治した。

 

オジョモ

・『綾歌町史』の「方言」の章で、オジョモは「妖怪 巨人である」と怪説されている。

 

浄願寺の禿狸(はげだぬき)

・香川県高松市番町の浄願寺に「白禿大明神」として祀られている化け狸。

 「讃岐丸亀地方の伝承」によると、常願寺(浄願寺)には1000年以上の年を経た古狸が棲んでおり、「常願寺のはげ狸」として讃岐では知らない者がいないほど有名であるという。この狸は源平合戦の屋島の戦いの模様をよく知っており、常願寺の住職が代替わりする時に、縁側で「はげよ、はげよ、どうぞ屋島合戦を観せておくれ」と頼むと眷属を引き連れて現れ、一度だけ屋島の戦いの有様を観せてくれるのだという。

『讃州高松叢誌』によると、禿狸はときどき僧の姿に化けて町に出てきては「浄願寺です」と名乗ってうどん屋で食い倒していたのだという。

 

白峯相模坊

・香川県坂出市青海町の白峯寺に祀られている天狗。いわゆる「八天狗」にもその名を連ねている。

 相模坊は上古から南海道六ヶ国の天狗の司であり、弘法大師が相模坊を仏所の鎮守とした、と記されている。

 

太三郎狸(たさぶろうたぬき)

・香川県高松市屋島に伝わる。

 屋島東町屋島寺で「蓑山(みのやま)大明神」として祀られている化け狸。一般に「屋島の禿狸」として知られるさまざまな話は、基本的にこの太三郎狸の話とされることが多い。屋島の狸は阿波(徳島県)の狸と同様に四国の狸の親分格であり、太三郎は屋島寺の開基以来守護神として祀られ、寺内で異変のある前には必ず住職に夢告をするのだという。また住職が代替わりするごとに、幻術を用いて源平合戦の実演を見せて祝ったのだという。

 

・屋島は諸国の狸の修行所・狸の最高学府であり、太三郎はその総長格であり、また高松の白禿狸(浄願寺の禿狸)の最も良き相談相手なのだという。

 

・屋島の禿狸は源平合戦の屋島の戦いを高い木の上から見物していたので、その一部始終を知っているのだという。後に禿狸は香川県木田郡牟礼村の八栗寺に移り、希望があれば屋島の戦いを再演してみせた。

 

禿狸は四国の狸大将として暮らしていたが、ある時旅から帰り、盥(たらい)で足を洗っているところを狩人に殺されてしまったのだという。その後、どういう理由か阿波国に行って方々の人に乗り移り、他の狐憑きから憑き物を落としたり、身の上話や屋島の戦いの話を語って聞かせたりしたのだという。

 

・それによると、屋島には源平の頃から禿げた古狸が棲んでいて、それが老人などの姿に化けて四国各地でお灸を施すのだという。この狸は毎年一度必ずやって来るので、毎年顔を合わせていると自然に狸だとわかってくる。狸のほうも正体を悟られたと思うと、さらに慣れ親しんで懇意の間柄になってきて「ぜひ屋島に遊びに来い」と誘ってくる。そこで実際に訪ねていくと、さまざまな歓待をしてくれた後に余興として屋島の戦いを演じて見せてくれる。その面白さや不思議さは言語に絶するのだという。

 

それによると禿狸は「佐渡国三郎狸」と兵庫県の「柴右衛門狸」に並ぶ「日本三名狸」の一つであるとしている。禿狸は屋島寺本尊の千手観世音菩薩の御用狸として善行を積んだので、四国狸の総大将と崇められるようになり、その法名は蓑山大明神、または小八大明神だという。

 なお『香川県民俗誌』には蓑山明神が蓑彦大明神とも呼ばれ、かつては天狗を祀っていたのだとも記されている。

 

根香寺の牛鬼(ねごろじのうしおに)

・香川県高松市中山町の根香寺に伝わる。

 昔、青峰山に牛鬼という怪物が棲み、人畜を害することが多かった。人々は藩主に害を除くことを願い、藩主は弓の名人である香川郡井原郷安原の山田蔵人高清に討伐を命じた。高清はすぐに青峰山に行って探し回ったが、牛鬼は出没自在でどうすることもできなかった。そこで17日の間、根香寺の千手観音に祈願し、断食苦行をした。そして満願の夜明けに千尋が嶽の下にある鬼が原で、眼光鋭い怪物・牛鬼に出会い、見事に射殺した。高清は牛鬼の祟りを恐れ、その二本の角を切り取って禄米六石を添えて根香寺に納めたという。根香寺には今もその角と牛鬼の姿とされる絵が残っている。

 

飛鉢上人(ひはつしょうにん)

・香川県仲多度郡まんのう町の話。

 大川山の北西の谷に、中寺という場所があり、かつては修験の道場として七つの坊舎があった。この中寺に飛鉢の法を使う上人がいて、瀬戸内海を通る船めがけて鉢を飛ばしたという。飛んできた鉢は船をどこまでも追いかけ、船頭がその鉢に白米を入れれば帰っていく。しかし何も入れないと鉢が燃え、火を吹きながらどこまでも船を追いかけるのだという。

 

ヒヒ

・香川県仲多度郡琴南町美合(現・仲多度郡まんのう町美合地区)の話。

 ある人がネゴヤ(寝小屋。山仕事をする人が寝泊まりする小屋)で火を焚いていると、ヒヒがやって来た。ヒヒは火のそばに来ると、自分の金玉をこれでもかと広げてきた。しかしそこへ白髪の神様が入ってきたので、ヒヒは「今夜のことにはならん」と言って帰っていった。次の日、同じようにヒヒが来て大きな箕(み)のように金玉を広げてきたので、そこへ真っ赤に焼けた石を投げ込んだ。するとヒヒは悲鳴を上げて逃げだし、後を追うと山で死んでいたという。

 

屋島山の馬蘇仙人(やしまやまのばすせんにん)

・香川県高松市の屋島寺に伝わる守護神。婆蘇仙人とも。

 『全讃史』の屋島寺の項によると、天平宝字四年(760)に鑑真が屋島山に入った時、馬蘇仙人(婆藪仙(ばすせん)・婆藪仙人。仏教の護法善神であり、千手観音の眷属である二十八部衆の一員)がこれを迎え入れた。仙人は「ここに錫杖を掛けて衆生を救え」と言ったので、鑑真はここに仏堂を建て千光院と号した。後に弘仁元年(810)に弘法大師が寺を現在の地に移し、屋島寺と号したのだという。

 

大きな相撲取り

・愛媛県温泉郡中島町野忽那(のぐつな)(現・松山市野忽那)に伝わる。

 二十日正月(1月20日)には農家の人々で山の神祭りを行うが、この日は山に入ることを禁じる地域が多い。野忽那島では大きな相撲取りが出てきて、人を捕るので山に入るのを禁じるとしている

 他の地域でも類似の禁忌がある。西条市丹原町高松では、この日は山に神々が集まって雑煮を炊きながら会合をしているので、山に入ると罰が当たって体が弱くなるとしている。

 

烏天狗(からすてんぐ)

・愛媛県の石鎚山(西条市・上浮穴郡久万(くま)高原町)の話。

 ある夏、西条(現・西条市)の人が6歳になる男の子を連れて石鎚山を登ったが、山頂でその子を背から降ろして休んでいるうちに、その子の姿が見えなくなってしまった。人手を借りてあちこち探したが見つからず、仕方なく我が家に帰ると、不思議にもいなくなったはずの子供が先に帰っていた。驚き喜んで様子を訊くと、山頂で休んでいる時に祠の裏で小便をしていると、真っ黒い顔の大男が来て「坊や、こんな所で小便をしちゃいけないよ、おうちはどこかね、おじさんが送って行ってあげるから目をつぶっておいで」と優しく言ってきた。そして言われた通りにしていると、気がついたら自分の家の裏庭に一人で立っていたのだという。これは烏天狗の仕業だろうとされた

 

喜左衛門狸(きざえもんたぬき)

・愛媛県東予市北条(現・西条市北条)の大気味神社に伝わる。

 大気味神社の楠の大木の根本に棲む狸で「喜の宮さん(喜宮明神)」として祀られている。

 

・屋島の禿狸と化け競べをした話や、日露戦争に出征して活躍した話なども語られている。日露戦争においては、ロシア軍の総司令官であったアレクセイ・クロポトキンが手記で「日本軍の中に赤い服を着た兵隊がいて、これはいくら射撃しても前進してくる、その赤い服には〇の中に喜の印があった」と書いているのだという。ただし、近代の戦争に神様などが出征したという逸話は数多く語られており、『<怪異>とナショナリズム』の「出征する<異類>と<異端>のナショナリズム「軍隊狸」を中心に」において詳しく論じられている。特に喜左衛門狸の逸話については、翻訳されたクロポトキンの日記などを検証しても、前述のような記述は確認できなかったとしている。

 

金平狸(きんぺいだぬき)

・愛媛県松山市の大宮八幡神社に伝わる。

 大宮神社境内の大柏に鎮座している狸で、金森大明神とも呼ばれている。隠神刑部(その他)の直系とされ、お袖狸の亭主だともされている。読み書きや算盤が得意な学者狸として、また大宮神社の宮司のお使い狸として知られている。

 

また、文政年間(1818~30)の頃の伝説も残されている。大阪に恵原屋という大きな宿があり、ある日一人の修験者がここに泊まった。すると修験者は宿の主人・金十郎を怪しみ、金十郎が狸であることを見破った。そこで金十郎は修験者に「あなたに知られた通り、自分は人間ではなく、伊予国(愛媛県)の大宮八幡の大柏に棲む金平という古狸である。千里四方でこのことを他人に話したら、命はないと思ってくれ。そして、もし伊予に行ったら郷里の人に、金平は元気でいるから、大阪に来たら恵原屋に寄るようにと伝えてほしい」と言った。修験者はその後、恵原に行ってこれを伝えたのだという。

 

しばえもん狸

・高知県香美郡物部村岡ノ内(現・香美市物部町岡ノ内)の話。

 岡ノ内にある誓渡寺の和尚さんは、庫裏(くり)の片隅に小さな箱を置いて、日々の食べ残したご飯やおかず、野菜漬物の切れ端などを入れていた。しかし、毎晩何ものかがやって来て、箱の中の残り物を食べてしまうことが続いた。

 

・こんな時間に人が来るはずがないと思った和尚さんが「誰なら」と言うと、「私はこの向こうの山に棲む、しばえもん狸というものですが、近いうちに讃岐の屋島へ宿替えをしようと思っております。長い間、和尚さんにご馳走になったお礼に、源平合戦の模様をお目にかけたいと思います」と返ってきた。和尚さんが「ぜひ見せてもらおう」と言って、寺の後ろの池近くへ行くと、三坪くらいの池がみるみるうちに大海となり、船に乗った平家の侍と源氏の騎馬武者が激しく斬り合いを始めた。和尚さんが驚き呆れて見ていると、夜が明けて鶏が鳴き始めたので、狸は「もう屋島へ行きます」と言って帰っていった。池の水面を見ると木の葉がいっぱい浮いていたのだという。しばえもん狸は賢い狸で、屋島へ行っても「屋島のハゲ狸」として可愛がられ、いろいろな物に化けて人々を喜ばせたのだという。

 

猿猴(えんこう)

土佐では河童のことを猿猴と呼ぶ。水中に棲み、頭に水皿、手に水掻きがあり、子供を取って食うとされている。

 

芝天狗(しばてんぐ)

・芝天とも。高知県の各地に伝わる。

 河岸の堤の上に棲み、芝生の上に成長したもので、空中を飛翔する大天狗よりも河童に近いものだという。その身長は小さいが力強く、人を化かすことはないがよく相撲を挑んでくる。

 

夜須の牛鬼

・高知県香美郡夜須町(現・香南市夜須町)の話。

 昔、夜須には牛鬼という、首から上が牛で首から下が鬼という恐ろしい化け物がいた。牛鬼は田畑を荒らしたり牛馬を取って食ったりして人々を困らせ、退治に来た人も食い殺していた。ある時、人々が集まって相談しているところに近森左近という弓の名人が来て、牛鬼退治を引き受けた。左近は赤松の西の谷に隠れている牛鬼を人々に追い出させ、深い田にはまって動けなくなった牛鬼を一矢で射殺した。夜須の人々は喜んで左近が弓を引く真似をし、それが三月の卯の日に行う百手祭(ももてさい)の始まりになったのだという。

犬神

四国地方全域で見られる憑き物の一種。単なる憑き物ではなく、これを使役する家系・犬神筋があるとされ、差別や偏見の原因・理由付けとなっていた側面もある。

 

宇和島の牛鬼

・愛媛県の南予地方(特に宇和島市周辺)や上浮穴郡、または高知県高岡郡や幡多郡、四万十市や宿毛市などで祭礼に用いられる練り物の一種。

 神霊を乗せた神輿が地域を巡る時、その行列の先導を務める露払い役として、牛鬼という独特の作り物を用いる。形態は地域によって少しずつ異なるが、全長3~7メートルほどで、胴は赤・黒の布や棕櫚(しゅろ)の毛で覆われ、尻尾は剣型である。頭は牛とも鬼ともつかない形相で、二本の角と三日月もしくは日輪を象った前立物を乗せている。

 

<狐>

・「四国には狐はいない」という言説がよく語られているが、実際には狐憑きや狐の嫁入りなど、さまざまな怪異の原因を狐とする例が各地域で語られている。

 狐や狸の毛皮を持っていれば化かされないとして、守り袋の中に御守りと一緒に入れることがあったという。また狐と狸の肉を食えば化かされないとされていたという。

 

・山出(やまいだし)では、昔は狸・狐・蛇・人が人々に取り憑いて、ちょっとしたことを口走ったり、具合が急に悪くなったりすぐに治ったりしたのだという。垣内や岩水でも狐憑きがあり、狐憑きの人は「手を握ってみろ」と言われたら必ず親指を隠すようにして握ったという

 

<高坊主>

・香川県大川郡長尾町造田(現・さぬき市造田乙井・造田是広)と木田郡三木町の境にある駒足峠に高坊主が出たという。ある夜、造田の白羽に住む猛者がこの峠を通っていると、両側の山を跨いだ人の足のようなものを見つけたので、見上げると大男が下を覗いて笑っていた。猛者が勇気を出してその足に斬りつけると、確かに手応えがあり、それから高坊主の話は聞かれなくなったのだという。

 

<狸憑き>

四国の各地で語られる憑き物。狸が人に取り憑き、物を語ったり苦しめたりする。「阿波に於ける狸伝説18則」によると、狸が憑くのは当人が狸に悪戯をしたとか、その狸が食物を十分に得られないからとかの理由があり、憑かれた当人がそれを口走るので動機がわかるとされている。狸が憑いたら陰陽師や修験者を招いて祈禱してもらい、憑いた狸からその名前や動機を聞いて、その注文を承諾してやって落とすのだという。

 

<山爺>

・四国の各地の山で語られている。

 土佐(高知県)の山中には山爺という一眼の者が多く棲んでいるという。姿は人に似ていて背丈が三、四尺(約90~120センチ)で、全身が鼠色の短い毛で覆われている。顔に目は二つあるが、片方は甚大で光っており、もう片方は逆に小さいので一眼に見える。歯がとても強いので、猪や猿の骨を大根を齧るように食べてしまうという。

 

隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)

・愛媛県松山市を舞台にした講談などに登場する。

 天智天皇の御代に生まれて古くから松山に棲み着き、808匹の眷属(八百八狸)を率いて松山城を守護していた狸の大将。隠神刑部の登場する講談は、江戸末期から明治にかけて形成されている。

 

牛の頭の化け物

・千頭王鬼と化した楠木正成が大森彦七盛長の刀を奪おうとして目論見み、彦七の元に送り込んだ化け物の一つ。

 

川父

・佐々木の三郎に殺された渡し守の死骸が朽ちることなく水底にあり、ときどき陸に上がって苦しげな声で叫ぶのだという。

 佐々木の三郎とは、源平の戦いで活躍した佐々木三郎盛綱のことだろうか。

 

相模九郎(さがみくろう)

・この話の中で、崇徳新院(崇徳上皇)はその死に際して、忿怒の末に魔界に入り「わが名は死すともこの体は象頭山に分け入り、金毘羅権現と形を現じ、諸人の願望成就せん」と呪文を唱えて消え失せた。そしてその崇徳新院を守護するため、犬神の術を得た相模九郎という者が天狗道に入り「相模坊」と名乗ったとしている。

 

・犬の首を落として犬神を作り出すという手法や、犬神憑きの血縁と結婚することで犬神の影響下に入るという考えなど、実際に伝承されてきた犬神の話が物語の中に取り込まれている。

 また甚平が名乗った相模坊とは、白峯の天狗として知られる香川県の白峯相模坊のことだろうが、実際の歴史では相模坊は崇徳上皇配流以前から名が知られている。

 

手洗鬼

・讃岐国(香川県)高松から丸亀に続く入海(湾、入り江)があり、その間の三里(約11.7キロ)もある山々を跨いで手を洗うものだという。その名は誰も知らず、ただ「讃岐の手洗鬼」と呼ぶのだという。また、手洗鬼は大太郎坊(だいだらぼう)という大魔の使いでもあるとされている。

 香川県にはオジョモという巨人の妖怪の話が各地で語られている。

 

 

 

『いま人に聞かせたい神さまの言葉』

(船井幸雄+中矢伸一)(徳間書店)  2008/3/1

 

 

 

先代旧事本紀大成経に印された天孫族の姿は、やはり竜だった!

先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう)

・神武天皇以来数代にわたる天皇の容貌に関する描写に私は、デーヴィッド・アイクがこれまでの著書で指摘してきたレプティリアンの容貌の記述そのままを見るのです。

ただし、誤解のないように言っておきますが、アイクは全てのレプティリアンが悪いと言っていない。彼はごく一部の特徴のあるレプティリアンの血統が人類のすべてを一人残らず奴隷として支配しようという悪意をもって延々と活動を続けてきたと言っているのです。日本では古来より竜は神々とイコールです。私が優れた霊的書物として評価する「日月神示」にも「神が人間の前に姿を現すときの形は竜である」とはっきり書かれています。

では説明に入ります。

先代旧事本紀大成経には神武に先立って「天日子光殊星亜肖気尊」の記述があります。

天上界から光輝く超生命体が降臨してきたようなイメージの名前です。その方のことは以下のように記述されています。

 

{天日子光殊星亜肖気尊}

・その鼻の長さは約2メートル、背の高さは約10メートル、口はつぼまっていて、目はきらきらと輝いて三種の神器のひとつである「八咫鏡(やたのかがみ)」のように輝き、赤くなったホオズキに似ていらっしゃいます。

 

{神武天皇}

・背の高さは約3メートル15センチ、胴回りは両手を伸ばして一抱えした長さに約15センチほど足した長さ。頭には9センチほどの角が二本あり、それはまるで雪のような色をしています。背中には龍のような背びれがあり、その長さは約1メートル20センチ。尾の裏側には大きな鱗が72枚あります。105歳のときに皇太子の位に就かれました。

 

{綏靖(すいぜい)天皇}

・身長は約3メートル、目は黄色に光り、まるで水星のような輝きを放っています。背中に鱗があり、怒られたときにはそれが逆立ちました。

 

{考霊(こうれい)天皇}

・天皇の生まれながらのご容姿は、他の方とは大きく異なり、お顔が長く龍のようですが、決して醜くはありません。耳は逆立ち、その耳の後ろには白い鱗があります。胸にも9枚の鱗があり、その9つの隙間から気を放っておられます。

 

{崇神(すじん)天皇}

・背の高さは、1メートル90センチほど、額に10センチほどの青い角が一本あります。下あごの歯は長く鋭く、上あごの歯は短く丸く、舌は長く鼻にまで届きました。

 

{垂仁(すいにん)天皇}

・背の高さは約1メートル80センチ、髪は右回りに顔を九周するように生え、頭頂部で輪のように巻いて留まっていました。両脇の下には金と緑の羽根を持ち、肘にも同じような羽が根ざしておられました。

 

{神功(じんぐう)天皇}

・ご容姿は非常におだやかで美しき、その眼にはふたつの瞳をお持ちでした。乳には九つの穴があり、力は強く建物の柱を揺るがすほどでした。

 

{応神(おうじん)天皇}

・背の高さは、約2メートル、肘には弓を射る時の「鞆(とも)」という丸いあて皮のような形がありました。目の形は引き絞ったときの弓のような三角形をしていました。中の角は天に向かってまるで弓に鏃(やじり)をつがえたかのようでした。胸には72本の青い毛が牛の尾のように生えていました。その長さは馬のしっぽほどで、とても強く根ざしていたので、最後まで抜け落ちることはありませんでした。

 

・いかがでしょう。以上が先代旧事本紀大成経からの抜粋です。わずらわしいので、現代語訳のみを載せました。これらの記述は正しいのか否かは別にして我々日本人の出身の常識を根底から揺るがすもののように思います。

 

 

世界の構造の裏の裏を知る知識

・紀元前3千5百年ごろ書かれたシュメール文書の「爬虫類族が本当に降りてきた」という記述は、間違いなくアヌンナキの到来を表している。シュメール文書によれば、エンリルは地球でのアヌンナキのリーダーだった。そこには、彼のことは「光る目を持つ輝かしき蛇」と描写されている。

 

・ヘブライの神話では、聖書の「ネフィリム」つまり「神々(gods)の息子たち」はアウィームと呼ばれるが、その意味は、「破壊者」または・・・・「蛇」である。ネフィリムは地球の内部に住んでいたと言われている。

 

・人類型異星人の起源は、琴座周辺からやって来た異星人だが、ほかにプレアデス星団やアルデバランの生物も混ざっている。彼らは、もともと別の次元に人間と同じ姿で存在していた。平和に暮らす人々で、青い目に白またはブランドの髪をしていた。しかし、爬虫類人とDNAを交わらせた結果、もともと素朴だった性格が変化し、爬虫類気質が入った。これが人間の堕落である。

 

・ノルディックはレムリアとアトランティスに関係した重要な地球外種属の一つである。その昔、彼らは、レプティリアンと戦争になり、レプティリアンたちを地下や宇宙の他の場所、あるいは異次元に追いやったという話がたくさんある。以来、レプティリアンは、自分たちのものになるべき惑星を再び支配しようと取り組んできた。そして「王族」の血統であるノルディックと交配することが、そのためにも最も効果的な方法だったのだ。

 

最古のサンスクリット文書の一つである『ドジアンの書』。そこでは「サルパ」まやは「偉大なる竜」と呼ばれるレプティリアンの種族が空からやってきて世界に運命を授けたと書かれている。また、「黄金時代」を終わらせた大洪水は「巨人族」(ノルディックのことか?)を絶滅させたが、蛇神たちは戻って来て支配したとある。彼らは、人間の顔をしているが竜のしっぽがついている。そのリーダーは、「偉大なる竜」と呼ばれ、これがペンドラゴン(「偉大なる竜」)という古代イギリスの王の中の王を表す起源である。

 

 

 

『異星人遭遇事件百科』

 (郡純)(太田出版)(1991年)

 

 

 

<星座の名前は知的生物の姿?>

・星座の名称はこれまで単純に「星の形」とのみ関連付けて語られてきたが、近年その常識に見直しの気運が高まっているのは周知の事実である。

 

・星座の名称の由来は星の配列を似た動物にあてはめたとされるが、はたしてスバル(牡牛座)やシリウス(狼犬座)の配列が牛や狼の形に見えましょうか?これは他の星座すべてにいえることだが、(中略)星座の名称とは、その星座における代表的な知的生物を表現しているのではあるまいか?そして牡牛座と狼犬座の知的生物は、その名称通り「牛」と「狼」のような風貌をし、しかも、古くから交流があり、互いに月を前哨基地にして地球にも頻繁に訪れていた、と考えれば聖書を含めた多くの古代文献の記述も矛盾なく納得できるのである。

 

・ただ、異星人は単一の種族ではなく、様々な母星からきていたという立場に立つと話が違ってくる。人間をはじめ生き物はすべて異星人による被造物、と考えることが可能になるのだ。

 

・人間、牛、馬、鳥すべての動物は異星人がみずからの姿に似せて創造した。太古の書においては相互の「交配実験」も行われたのかもしれない。