(2024/4/24)

 

 

 

『日本怪異妖怪事典 中部』

高橋郁丸、毛利恵太、怪作戦テラ、朝里樹

笠間書院   2022/8/26

 

 

 

井戸菊の谷の狒々

・筆者命名。富山県中新川郡上市町伊折の話。

『三州奇談』巻之五に「異獣似鬼」として記されている。

この猅々は風雲を起こして風の中を飛行する。よく人を引き裂いて、投げ散らかして捨てるのだという

 昔、伊折村に源助という樵がいた。彼は大力で足も速く、二、三人の友と山で猟をして獣の肉を食おうと山に入ったところ、一日のうちに猿や狸などを70匹余り、刀を使わず拳で打ち殺してきたというほどの覇気の者であった。ある時、井戸菊の谷という所に樵たちが初めて入ろうとしたら、風雲が起こって、谷に入ることができず、集まった人々が次々と投げ散らされたので、皆帰り去った。そのなかにいた作兵衛という少し気の弱い樵が、獣の気に打たれて気を失ってしまった。すると作兵衛の体が空中に掴み上げられ、腕を引っ張って引き裂かれそうになった。源助が作兵衛の来るのが遅いと怪しみ、もとの場所に戻るとその有様だったので、走り寄って作兵衛の足を掴んで引き下ろそうとした。しかし作兵衛は襟髪をくわえられているようで引き下ろせず、その様子は心魂が抜けたようにぐったりとして、口から血を大量に吐いていた。源助は大いに怒って罵り叫んだが、それでも放さなかった。作兵衛の目口から流れ続ける血で源助の体は真っ赤に染まり、寅の刻(午前三時頃)に至って遂に怪獣は去ったようで、作兵衛の体は源助の背中に落ちた。源助は作兵衛を守り、呼びかけながら夜を明かした。日の出の後、村人が谷までやってきた。作兵衛を介抱すると生気があったので、水を飲ませ食べ物を与え、山小屋で寝かせたら五、六日で本復した。

 

・この出来事の他にも、源助は度々大蛇などの怪物と遭遇したという。それについても「異獣似鬼」に記されている。

 

一眼隻脚(いちがんせききゃく)の妖怪

・富山県富山市の祖父岳の話。

 布谷村(現・富山市八尾町布谷)では、祖父岳には一眼隻脚の妖怪がいると語られている。『山海経』でいうところの「独脚鬼」の類だとされている。

 祖父岳の麓には桂原という村があるが、ここに住む人が薪を採るために山に登り、この妖怪に殺された。脳を吸われたように頭頂に大きな穴を開けられて死んでいたのだという。他に山腹で炭焼きをしていた二人も殺されたが、これは投げ殺されたようであった。葦の芽が生えたぬかるみに全身傷だらけの死体が転がっており、泥にも縦横の痕跡が残されていたという。

 

・婦負郡小竹村(現。富山市呉羽町)の若宮紀伊(神主と思われる)の弟が18歳の時、祭礼を行って佐五兵衛という人の家に泊まったが、深夜に目覚めると背の高く髪が箕のような大きさの女がこちらを見て笑っていた。神官は身の毛がよだつほど驚いたが、心の強い男だったので「我が汝になんの害をもたらしたか。我を脅かすは汝の楽しみのためであろう。益のないことゆえ速やかに去れ」と言うと、その道理を解したのか、少しして立ち去り戻ってくることはなかったという。

 また、ある山伏が野宿している時に妖怪に遭遇し、山伏は剣で迎え撃ったが、妖怪は山伏を掴んで投げ、剣を持ち去ってしまったという。

 

越後の山人

『北越奇談』では山男と呼ばれ、妙高山の山中に出没するという。樵が毛皮を作って山男に与えるなど、ほほえましい交流があったことが記されている。言葉はしゃべれないが言葉を理解し、人の心が読めてご飯好きだという。しかし、恐ろしい一面もある。また、三和村(現・上越市)の鬼新左衛門という人が、神聖な山神の祠の近くで狩猟を行っていたところ、山男に投げ飛ばされて、それがもとで寝付いて亡くなったという。柳田國男の『山の人生』では、禁じられていた妙高山の硫黄の採取をしたところ、背の高いものが小屋に入ってきて、首謀者が首をねじ切られたと記されている。この妖怪を、山人と呼ぶ人もいる

 

お手玉石・八幡切り石

新潟県糸魚川市鬼伏に鬼が棲んでいた頃、八幡神と鬼が力比べをした。鬼は五つの石でお手玉をすることにし、八幡神は大きな石を二つに割ることにした。八幡神は成功したが、鬼は失敗して負けてしまった。八幡神が割った石の半分は佐渡に飛んで行った。半分は残り、八幡切り石と呼ばれている。

 

大男

・江戸時代、高田藩領の人々は妙高山(新潟県妙高市)、黒姫山(新潟県糸魚川市)、焼山(新潟県糸魚川市・妙高市)、新潟県から長野県に跨る戸隠、立山という山々で仕事をしていた。山仕事をしていると、山男にも時々遭遇した。高田大工の又兵衛の弟は、山道で八尺(約2.4メートル)くらいの裸の男に出会った。男は驚いたようだったが、無言で山へ去っていった。手には一羽のウサギを下げていた。

 新潟県南魚沼市の八海山では、御室、千本檜の小屋で、寒さのため夜半に薪が足りず絶えてしまった。すると、身の丈三丈(約9メートル)ほどある大男が薪や芝を与えたという。

 

犬神長者

佐渡はかつて犬神長者の持ち物だった。真野湾(新潟県佐渡市)の海は彼の田地で、小木の湾は彼の苗代だった。家訓により、田植えは一日で終わらせていた。ところがある年のこと、日暮れ間際になっても田植えが終わらなかった。長者は大変怒り、鶴ヶ峰に登って軍扇で太陽を招き留めて田植えを終えた。その後、にわかに勢力が衰えて島を追われることになった。

 

異獣

異獣という名は鈴木牧之が著書『北越雪譜』のなかで命名した。人ではないが獣とも異なる、という存在だ。あるとき十日町の縮(ちぢみ)問屋から堀之内の問屋へ急ぎの荷物があり、竹助という山道に慣れた者が堀之内から山道へ入って十日町へ向かった。山中で昼食を食べていると、背の高い毛むくじゃらなものが現れて竹助の食べている飯を指さし、欲しがっているようだった。そこで飯を与えたところ、喜んで食べた。竹助が、「急ぎの使いなので行くぞ」と言うと、異獣は竹助の荷物を背負ってくれ、竹助は楽に十日町に行くことができたという。

 機織りをする女性からも握り飯をもらい、月やくで機が織れないと女性が愚痴を言うと、異獣が月やくを止めたという不思議な話も『北越雪譜』に書かれている。

 

未練坊

・富山県氷見市長坂に伝わる。

 石動山登山口の血坂という所に、夜な夜な物の怪が出没し、更には日中でも石動山参拝の人々に危害を加えるようになった。石動山大宮坊の別当が、武勇の誉れ高かった源伊勢之助という者に、この妖怪の退治を命じた。伊勢之助は夜に血坂で妖怪の出るのを待ち伏せ、これを斬り殺した。夜が明けると、そこには全身白毛の大猿が倒れていた。伊勢之助がこの死体を担いで帰る途中、大猿はにわかに生き返り、伊勢之助の首に嚙み付いて「俺は長年修行をして法力によって幽明界を往復する神通力を持っている。俺を殺したと思っても、俺には生も死もない。今こそお前の命を取って恨みを晴らしてやる」と語った。伊勢之助は苦しみながら「それほどの神通力を持っているものが、悪事を働くとはうなずけない。俺は長坂や光西寺(長坂にある寺院)のために、しなければならないことが多く残っている。お前がここで死んでくれて、俺を長らえさせてくれるなら、お前を我が家の守護神として子孫の代まで敬うだろう。南無石動山五社権現、我が願いを聞き給え」と言うと、大猿は再び死んでしまった。伊勢之助は大猿を手厚く葬って祠を建立し、これを成し遂げた後、この守護神のために尽くそうと生きながら大甕(おおがめ)の中に座して土葬されたという。

 

一老(いちろう)大権現

・石川県金沢市清水谷町に伝わる。

 清水谷の直乗寺(じきじょうじ)に祀られている天狗。もとは高坂町の森本川左岸の天狗壁に棲んでいたが、清水谷の長老の夢枕に現れ「清水谷の寺に行きたい」と告げたので、祀られるようになったという。集落の守護神として、様々な御利益があるとして信仰されている。

 

おうひと

・飛騨の山中に出たという。

飛騨の山中にはおうひとというものがいる。背丈九尺(約2.7メートル)ばかりで木の葉を綴って着物としていて、何かを話しても、それを聞き取れる人はいない。ある猟師が獲物を求めて山深くに分け入った時、これに会ったのだという。飛ぶように走り来て逃げることもできなかったので、何とか助かろうと持っていた握り飯を差し出すと、それを食べて非常に喜んだ。するとおうひとは狐や貉を数多く殺して持ってきた。猟師は労せず多くの獲物を得たことを喜び、それから日ごとに握り飯を持っていって獣と交換するようになった。しかし、隣に住む猟師がこれを怪しみ、密かに後を付けていって、おうひとのことを知ってしまった。鬼なのではと思った隣の猟師は鉄砲でおうひとを撃ち、撃たれたおうひとは逃げてしまった。

もとの猟師はこのことを聞いてからおうひとを探し、谷底におうひとが倒れているのを見付けたが、そばにおうひとに似たような者がいるのを見付け、撃たれた仇を自分に返しに来るかもと恐れてその場を去った。その後、撃たれたおうひとは死んでしまったという。

おうひとは恐らく大人(おおびと)に由来する命名なのだろう。

 

牛蒡種(ごぼうだね)

・岐阜県の吉城郡、益田郡、大野郡などに伝わる。

 憑き物筋の一つ。「飛騨の牛蒡種」によると、牛蒡種という家筋は大野郡や吉城郡、益田郡などに散在している。この家筋の人は男女を問わず不思議な力を有し、家筋外の人に対して憎いとか嫌いと思って睨むと、相手は病気になったりするとされた。

 

鬼神大王 波平行安(なみひらゆきやす)

石川県鳳至郡剱地村(現・輪島市門前町)に伝わる

 昔、この村にどこから来たとも知れない若い男が来て、入婿となった。男は刀鍛冶を得意としていたが、その作業をするところを決して人に見せなかった。妻は不思議に思い、ある時隙間から男の作業場を覗き込んだ。すると男は鬼の姿となり、口から炎を吹き出し、鉄を伸ばしていた。男はこの有様を妻に見られたことを恥じて、自身が打った数百の刀を持って波の上を走り去っていった。男は妻と別れる時、一振りの刀を投げ与えていったが、その刀には「鬼神大王波平行安」という銘があったという

 

ガンノコウ

・石川県鳳至郡柳田村(現・鳳珠郡能登町柳田)の周辺に伝わる。

 『石川県鳳至郡誌』には以下のように記されている。

柳田村の五十里から十郎原に行く道に沿うように小川がある。ここの淵に大蟹が住み、夜中になると小童に化けて通る人を苦しめていたしかし、この地を訪れた弘法大師が、この大蟹を神として祭り、人々の憂いをなくそうとした。これを聞いた十郎原の神明明神が弘法大師に協力し、明神の被っていた烏帽子を大蟹に被せ、これを諭して川の中の龍淵に埋めた。大蟹は烏帽子とともに石になり、そこの谷は和郎ヶ谷(和郎は童男の意)と呼ばれるようになった。

 

猿鬼(さるおに)

・石川県鳳至郡柳田村(現・鳳珠郡能都町)に伝わる。

 柳田村当目(とうめ)の岩窟には、昔、猿鬼という怪物が棲み着き、乱暴を働いていた。そこで八百万の神が相談し、能登国の一の宮である気多大明神(羽咋市の気多大社)と三井の神杉姫(かんすぎひめ)(輪島市三井の大幡神杉伊豆牟比咩(おおはたかむすぎいずむひめ)神社)に神軍を任せ、猿鬼征伐に乗り出した。神杉姫が筒矢で猿鬼の目を射て、逃げる猿鬼の首を鬼切丸で斬り落として退治した。猿鬼を祀った所が岩井戸神社であり、猿鬼の目に矢が当たった所を当目、猿鬼の流した黒い血が川のようになった所を黒川、猿鬼が射られた目をオオバコの葉で洗った所を大箱と名付けたという。

 別の伝説では、当目の岩窟に猿鬼と呼ばれる老狒が住み、18鬼の郎党を従えていたとしている。猿鬼たちは里の少女をさらい、田畑を荒らしたので、垂仁天皇が石衝別王(いわつくわたけのみこと)を遣わして退治させたのだという。

 

しゅけん

石川県七尾市の山王社(現在の大地主(おおとこぬし)神社)の話。

 昔、七尾の山王社では、毎年、見目好い娘を人身御供に捧げていた。ある年に、白羽の矢がある家の一人娘に立ち、父は何とか救う道はないかと夜に山王社の社殿に忍び入った。丑三つ時に様子をうかがうと「若い娘を取り食らう祭りの日も近付いてきたが、越後のしゅけんは我がここにいるとは知るまい」と呟く声がした。父は喜んでしゅけんの助けを得ようと越後を尋ね歩いたが、手がかりは得られなかった。しかし、山の中にしゅけんと呼ばれるものがいると聞き、向かってみると全身真っ白な一匹の狼が現れ「このしゅけんに何用か」と問うてきた。父が事の次第を語って娘の命を救いたまえと願うとしゅけんはうなずいて「久しく以前、外の国から三匹の猿神が渡ってきて人々を害するようになった。我はそのうち二匹を噛み殺し、残る一匹は行方をくらませていたが、能登の地に隠れているとは思わなかった。行って退治してくれる」と言って、父とともに海の上を駆けて七尾に戻った。しゅけんは娘の身代わりとして唐櫃(からびつ)に潜み、暴風雨の夜に神前に供えられた。翌日に人々が様子を見に集まると、年経た大猿が血に染まっって倒れていたが、しゅけんもまた死んでいた。人々はしゅけんを手厚く葬り、後難を恐れて人身御供の形代(かたしろ)として、三匹の猿にちなんで三台の山車を山王社に奉納した。「車が人を食う」という魚町の山車は、この山王社の猿から来ているのだという(青柏祭の山車のことと思われるが、詳細は不明)

 

そうはちばん

・ちゅうはちゅぼんとも。石川県鹿島郡中能登町の眉丈山(びじょうざん)の話。

 秋の日暮れから夜になろうとする時間に、眉丈山中腹から怪火が出て、東から西へと移り行くのだという。そうはちぼんは羽坂の六所の宮から現れ、一宮の六万坊へと向かおうとする。昔、そうはちぼんは一の宮権現に人を餌食にしたいと願い出た。すると権現は鶏が鳴く前に来れば人をやろうと約束した。それから毎夜、そうはちぼんは人を喰おうと現れ、八つ時頃に良川の山を過ぎ、金丸の辺りでまごつき、柳田の辺りで鶏の鳴き声を聴いて仕方なく六所の宮に引き返すようになった。この鶏は権現が鳴かせるのだという。

西照寺の住職が若い頃に見たという話も記されている。住職が寺に帰ろうと眉丈山の中腹に差しかかると、大きな高張提灯のような明るいものが現れ、山の背から谷に向かって真一文字に緩々と進んでいくのを見たのだという

 

九万坊(くまんぼう)

・石川県金沢市の各地に伝わる。

 もともと、黒壁山や満願寺などの金沢市の山地一帯は魔所として恐れられていた。ここにいる魔の正体は天狗とされ、それを祀る祠などがあったが、明治初期に淫祠(いんし)として破却された。この信仰が復活したのは明治35年(1902)とされ、この頃に九万坊天狗の名が使われるようになった。松本米二郎という者が黒壁山で祈願中に、九万坊・八万坊・照若坊という三権現が現れたので、これを薬王寺の本尊として安置した。以降、金沢市のあちこちの寺院で祀られるようになった。

 

鞍馬の天狗

・石川県松任市成町(現・白山市成町)に伝わる。

 出城村の成(なり)に村山という家があり、その祖先は円八という者だった。ある夜に円八は天狗にさらわれてしまったが、数年後に飄然と帰ってきて、天狗の秘伝であるとしてあんころ餅を作り始めたという。

 

・『昔話伝説研究』二号の「加賀・能登の天狗伝説考」には、実地採訪による別話が紹介されている。ある日、円八は家の庭に柏の木を植え、その翌日の元文二年(1737)6月17日に天狗にさらわれた。そしてある夜、女房の夢に現れ「今は鞍馬の天狗のもとで修行をしているが、妻子に心を惹かれては妨げとなるので、夫婦の縁を切りに来た。ついては生計の手段としてあんころ餅の製法を伝授しよう」と伝えたのだという。それから6月17日を円八の命日とし、天狗を信仰するようになった。円八の遺物を納めた土蔵からは、時々太鼓や鈴の音がしたのだという。大正11年(1922)

に家の娘が病死した時、母屋に連接する祠堂を建て、円八の遺物や天狗の眷属を祀って円八坊大権現あるいは天狗堂と呼ぶようになったという。

 

ちっきんかぶり

・石川県七尾市能登島えの目町、八ヶ崎町に伝わる。

 昔、鰀目(えのめ)と八ヶ崎の間を「どうの川」という小川が流れていた。ここにちっきんかぶりという怪物が棲み、村民を害していた。小屋の谷に住む與助、惣佐衛門の二人が、村民のために苦労してこの怪物を斬り殺した。二人は「小屋もの(賤民への呼称の一つ)」だったが、この功により村に住むのを許されたのだという。この怪物を埋めた所を「どんだ」と呼び、松を植えて記念とした。また「與助、惣佐衛門の抜いた刀 鞘は竹でも身は本物や」という俚謡(りよう)も歌われたという。

 

鍋太郎

・石川県能美郡国府村(現・能美市)に伝わる。

 鍋谷の上の村に、世瀬という旧家があった。この家にはいつの頃からか、鍋太郎という姿を現さない若者が住み着くようになった。夜に囲炉裏を囲んで四方山話をする時、鍋太郎は横座に座って世間話や御上の法度、昔からの言い伝えなど何でも話し、日中は水汲みや米搗き、肥桶運びなどを飯も食わずに自分からよく働いた。姿が見えないので手桶や肥桶が宙を飛ぶように見え、米搗きでは杵が上下に動いてみるみる米が白くなっていった。

 

明神壁(みょうじんかべ)

・石川県石川郡鳥越村(現・白山市)に伝わる。

 岩原に明神壁というものがある。明国から日本に来た人が、非常にもののできる人だったので神様として祀られた。

 

メーシリ

・石川県羽咋郡高浜町(現・羽咋郡志賀町高浜町)に伝わる。

 夏の頃、川で子供が溺死するのはメーシリにダッコ(はらわた)を抜かれるからだという。河童のことをメーシリあるいはミズシといい、胡瓜を先に川に投げ入れてから水浴びをすればメーシリに取られない。逆に胡瓜を食べてから水浴びをするとメーシリにダッコを抜かれて死ぬとして禁忌にされている。

 

・末吉村(現・羽咋郡志賀町末吉)にはメーシリから伝授された疳の薬を売っている家がある。この家の先祖が馬を連れて草刈りに行った時、川で水を飲んでいた馬をメーシリが生け捕りしようとした。メーシリは馬の手綱を自分の体に巻き付けて水中に飛び込んだが、馬が驚いて跳ね返り、メーシリを家まで引っ張ってしまった。家の主人はこのメーシリを捕まえたが、メーシリが泣いて命乞いをし、助けてくれたら疳の妙楽の処方を教えると言うので、助けてやった。以来、その家では疳の薬を売っているのだという。

 

物貸石(ものかしいし)

・石川県鹿島郡高階村池崎(現・七尾市池崎町)に伝わる。

 池崎から直津に行く途中に、横打ちと呼ばれる畑地がある。ここに昔は大きな石があり、物貸しの神様とされていた。村人がこの石に必要な品を頼めば、膳椀や金銭を貸し与えてくれた。しかし、天正年間(1573~92)に石動山の僧侶が来て様々な品を借りたが、返すことはしなかった。すると物貸しの神様は怒って誰にも品を貸さないようになったのだという。

 

四人の巨人

・石川県鳳至郡七浦村薄野(すすきの)(現・輪島市門前町薄野)に伝わる。

 薄野に住むある老翁は、皆月から酔っ払って帰ってくることを常としていた。ある夜、市ノ坂の付近で四人の巨人に捕まえられ、三度地面に投げ付けられ、これからは夜に出歩かないと誓わされ、やっと解放されたという。その時、巨人の一人が煙草を吸おうと火打ち石を打ったが、その火花の長さは三尺(約90センチ)もあったのだという。

 

家狐

・山梨県北都留郡上野原町棡原(ゆずりはら)(現・上野原市)に伝わる。

 昔、話者が奉公に行った家で絶対に奥座敷には入ってはいけないと言われた。夜中になると奥座敷からカタカタと音がして、オカタサン(御方様)が一日に一度食べ物を運んでいた。これはイエギツネは家に憑いていたのだという。人の目には見えないが、鼠くらいの大きさなのだという。

 また、家が貧しくなった時にはイエギツネが米を毛の間に挟んで運んでくる。商人が麦などを買いに来ると、秤の上に乗って目方を重くするので、得をしてどんどん金持ちになる。しかし正当に儲けたわけではないので、争いごとや不幸などで次第に衰えてしまうのだという。

 

また、イエギツネは憑いている家の人が憎らしいと思う人の所へ飛んで行って生き血を吸う。生き血を吸われた人は病気になったり死んだりする。ある人が病気になったので祈祷師に見てもらうと、イエギツネに憑かれていることで、秩父の三峰山(埼玉県の三峯神社)に行って、お札をもらって祈禱をした。すると丑三つ時にダイジンサマ(大神様、三峯神社で祀られている御犬様)とイエギツネが縁の下で争い、イエギツネは退治された。それによって病気は癒え、病人の着物の袂からキツネの毛が三本出てきたのだという。

 

頼光の狒々退治

甲賀山(現・高賀山)に大きな猅々が棲んでいた。これを退治しようと源頼光が岸見神社に七日七夜参籠して出発した。その際、一羽の雉が飛んで行き、猅々の様子を頼光に報告したという。岸見神社とは雉見神社のことであり、この雉を祭るともいう。

 

シャグマ

・静岡県周智郡の常光寺山(静岡県浜松市天竜区水窪町の山)などに伝わる。

常光寺山の中で、シャグマという怪物が捕らえられたことがある。顔が赤く、頭は毛深く、人に似ているが人ではなく狒々のようなものだったという。また、常光寺山の南西にある竜頭山にも、時折シャグマが現れた。ある時、水窪に住む狩人の親子三人が竜頭山に入り、それらしき怪物に出会った。顔の色は赤黒いが判然とせず、頭に長髪が生え、首筋から背にかけては蓑を着ているかのような毛が生えていた。三人の行く手にしばらく立っていた。

 

肉人

・神祖(徳川家康)が駿河にいた時の話。ある日の朝、城の庭に小児のような形をした、肉人とでも呼ぶべきものがあった。手はあるが指はなく、指のない手で上を指して立っていた。見た人は驚き、変化のものだろうかと騒いだが、どうしたらよいかわからなかったので、家康公の判断を仰いだ。すると「人の目に付かない所に追い出せ」と命じたので、城から遠い小山の方に追いやってしまった。

 

真っ白な鬼

・福井県丹生郡大虫村(現・越前市大虫村)に伝わる。

 丹生ヶ岳にいつの頃からか山中に真っ白な雌の鬼が棲むようになった。鬼は人里へ来ては農作物を荒らし、婦女子をさらうなどして人々を困らせた。ある年の二月二日に里に来た鬼を見た若者たちが、今日こそは捕まえてやろうと村中総出で狩り立てた。鬼はあちこちを逃げ回ったが、とうとう日野川のほとりで退治されたので、ここには白鬼女橋が架けられ、丹生ヶ岳は鬼ヶ岳と呼ばれるようになったという。大虫村では三月二日(旧暦の二月二日)には鬼神祭をするようになった。

 

夜叉丸(やしゃまる)

・福井県今立郡中河村(現・鯖江市)に伝わる。

 後小松院の御代の頃、春から全く雨が降らない時期が続いた。長者は人々が悲しむのを見かねて「どんな人でも雨を降らせることができたら、我が愛娘を嫁として遣わせましょう」という高札を作って掲げた。

 すると、どこからともなく夜叉丸と名乗る一人の美男子が現れ、高札の約束を守るなら雨を降らせようと話したので、長者は訝しみながらも喜んで誓いを立てた。夜叉丸が立ち去ったかと思うと、たちまち風とともに雨が降り出し、草木や田畑も潤った。その後、夜叉丸が再び現れて娘を求め、長者の娘のうち妹の方が稼ぐこととなった。娘は母に一束の針を求め、これを守り袋に入れて夜叉丸の棲む所へと去っていった。夜叉丸の立派な屋敷は湯尾峠を越えた先の山深くにあり、二人は夫婦の契りを結んで一年ほど暮らした。しかし夜叉丸は具合が優れず、妻に対して「私は貴女と同棲を始めてから体調が良くない。私たちは相性が良くないようなので、これから貴女と縁を絶ち、親元に帰そうと思う」と語った。妻はこの時身重だったが、とにかく生家と相談しようと使者を向かわせると、家は家運が傾き別の場所に移り住んだようだった。そこでその場所を探して訪ねてゆくと、外の世界は既に100年近く時が経ち、家も何度も代替わりをしていることがわかった

 

向原の天狗さん

・筆者命名。山梨県富士吉田市向原に伝わる。

 天狗さんと呼ばれる人がいた。母親の手だけで育てられた子供だったが、ある日急にいなくなってから、立派な青年になって帰ってきた。帰ってきてから人にはできないようなことをやるようになったという

 

・また、この天狗さんが夕方に山の畑から帰ってきた時、母親に「今、京都が焼けているからちょっと行ってくる」と出かけた。母親は弁当を持たせようと外へ追いかけたが、もう姿は見えなくなっていた。その翌日には帰ってきて、京都の大火事が御所にまで迫っていたので、御所の中から天皇の御所車を一人で引き出して助けたと語った。天皇から感状をもらってきたといって、菊の御紋が付いた黒漆塗りの箱を持ってきたという

 

おまん

・長野県上水内郡戸隠村(現・長野市)に伝わる。

 戸隠山の鬼女紅葉に仕えた女の鬼。山の獣を素手で打ち殺す怪力と、一晩に120キロも走る健脚を持っていた。紅葉征伐の時も奮戦したが、一人落ち延びて戸隠山の麓に逃げた。

 

ガラン様

・長野県下伊那郡阿南町の伊豆神社に伝わる。

 ガラン様(伽藍様)は伊豆権現がこの土地に来る前から祀られていた地主神で、力の強い恐ろしい神だという。大国主命だという人もいて、伊豆神社の奥の院に祀られているともいう。

 

鬼女紅葉(きじょもみじ)

・長野県長野市戸隠と鬼無里に跨る荒倉山を中心とした地域を舞台とした話。

 荒倉山には紅葉伝説のものとされる史跡が多く残されているが、もともとは謡曲「紅葉狩」として記された物語である。信濃国戸隠山に鹿狩りへとやってきた平維茂(たいらのこれもち)一行は、山で紅葉を愛でていた高貴な美女と出会い、ともに宴を催した。美女に心を許した維茂は酒に酔って寝てしまったが、その夢のなかで八幡大菩薩の眷属から神託を受ける。美女と思っていたものは実は戸隠山の鬼神であったので、維茂は神託とともに授かった神剣によって、鬼女と戦って見事に退治したのだった。

 

魔道王

・長野県安曇野郡穂高町(現・安曇野市穂高)の伝説。

 昔、安曇平(松本盆地)は一面の海であったが、長者の子・泉小太郎と犀(犀龍)(さいりゅう)によって、水が流れ去って肥沃な平地となった。人々はこの平地に移り住んだが、中房山に棲む魔道王という鬼神が現れ、里を荒らすようになった。魔道王は妖術を用いて姿を消したり雲を呼んで雷雨を降らせたりしたので、小太郎も手を焼いていた。ある時、有後の姫という娘が、魔道王から人々を守るため全国を回る千日行を始めた。そして京都にたどり着いた時、帝に仕える雨宮殿という将軍と二人で退治に乗り出した。二人の武将と小太郎が率いる軍勢は、魔道王の軍勢と木曽川で戦い、諸神諸仏の加護もあって魔道王を討ち果たすことができた。この功があって雨宮殿は信濃を治める国司となり、小太郎は川会(かわあい)明神として祀られるようになったという。

 

黒ん坊

岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市根尾)に出たという。『享和雑記』巻之二に記されている。

 美濃国の大垣から北へ10里(約40キロ)ほど行くと、外山という所がある。ここから山に入って3里(約12キロ)の難所を超えると、根尾という所に着く。ここに善兵衛という樵がいて、山奥に入って木を伐り出す仕事を数十年続けていた。この善兵衛に懐き、黒ん坊と名付けられたものがいた。その姿は猴(猿)のようで、大きく色黒で毛が長く、人のように立ち歩き、言葉をしゃべる。また神のように人の思うことを察し、誰かがこれを殺そうと思えば、先んじてその意を知って逃げ去るので、捕まることはなかった。善兵衛が山に入れば黒ん坊が現れて仕事を手伝い、大いに助けとなるが害をなすことはなく、そのうちに善兵衛が家へと連れ帰って働かせるようなことが度々あった。

 その頃、この辺りには30歳ほどの後家の女が住んでいた。女は再婚をせず一人暮らしをしていたが、ある夜更けに何者かが家を訪ねて契ろうとしてきた。女は怖がってこのことを人々に話し、夜の番をしてもらった。しかし夜に誰かが番をしている時はその者は現れず、女が一人でいる夜には決まってやってきたので、困り果てた女は家に昔から伝わる観音像に一心に祈った。すると夢の中で「人に頼っては去りがたい、心を定めて決断せよ」と告げられた。その日の夜、またその者は現れたが、非常に怒った様子で「我が意に背くなら、お前が大切にしている観音像を壊して捨ててやる」と仏壇から観音像を引っ張り出した。そこで女は用意していた鎌でその者に斬り付けたので、その者は大いに狼狽して逃げ出した。その後、人々が集まって残された血の跡をたどっていくと、善兵衛の家の縁の下へと続いており、そこから山の方へと逃げ出した様子であった。この出来事から後、黒ん坊が来ることはなくなったので、これの仕業だとわかったのだという。

 この黒ん坊については、『本草綱目』などにも記された玃(やまこ)の類いだろうとしている玃には雄しかおらず、人の婦女に接して子を産ませる生き物であると記されている

 

高賀山の妖魔

・岐阜県武儀郡洞戸村(現・関市洞戸)の高賀神社を中心とした高賀山に伝わる縁起及び伝説。

 

60代後醍醐天皇が在位した延長年間(923~931)の頃、高賀山の艮の嶽に妖魔が棲み着いた。その姿は牛に似て、鳴き声も牛のような恐ろしい獣で、これを恐れた人々は山中に入ることもなくなった。ある時は黒雲に乗って近江国まで行って様々な害をなし、また6月に雪を降らせるなどもした。人々の苦しみを聞いた朝廷は承平3年(933)に、藤原高光に命じて妖魔の討伐に向かわせた。高光の軍勢は山中を探し回ったが妖魔を見付けられなかったので、高賀神社に参拝して祈願した。

 すると東の大谷に妖魔がいると神のお告げを受けたので、軍勢を連れてそこに向かうと、翁の姿をした善貴星という神から粥を授かった。その後、高光が妖魔を見付け出すと、妖魔は一丈(約3メートル)余りの大きさの、髪の毛赤く牛角を生やし、紅の口に金色の両眼という鬼人の姿となって戦った。高光と軍勢は何とかこの妖魔を討伐し、高賀神社を再建し善貴星を神として祀った。

 

カワランベ

・岐阜県加茂郡太田町(現・美濃加茂市太田町)に伝わる。

 太田町付近では、河童をカワランベと称する。ドチ(スッポンのこと)に似た動物で、頭に皿型の髪の毛を残した12、3歳くらいの童子に化けて人家に来る。そして子供を誘い出して川で一緒に泳ぎ、「尻のこ」を引き取って水死させるのだという。子供が水死した時、肛門が大きく広がっているのは尻のこを取られたからだとされた。

 

小牧山吉五郎

小牧山に棲む、狐の親分の名である

 ただ、この吉五郎狐には、地元で実際に語られてきた「伝説上の狐」としての側面と、その「地元に伝わる話」をもとに描かれ創作物語『伝説老狐小牧山吉五郎』の主人公としての二つの側面がある。そして、物語から地元の伝承へ、逆輸入された節も見受けられる。

 まず、小説である『伝説老狐小牧山吉五郎』について紹介する。

 作者は郷土史家の津田応助。昭和6年(1931)に刊行されている。江戸時代に書かれた書物と地元の話を脚色して書いたというが、書物の実在は疑わしい。内容を要約して紹介する。

 小牧山には大昔から小牧山吉五郎という妖狐が棲んでおり、尾張一円の狐の親分であった。

 付近の山中藪の美男狐、藤九郎と御林山の美人狐お梅は恋仲であったが、吉五郎は難癖を付けて寝取り、藤九郎は吉五郎の弟分になる

 しばらくは平穏な暮らしが続いたが、吉五郎が、子分の娘お初を愛人に迎えると、お梅は藤九郎と吉五郎の毒殺を企む。しかし木葉天狗に聞かれたことで露見してしまう。激怒した吉五郎は手近にいた子分を連れてお梅を襲ったが、藤九郎一家が待ち構えており、吉五郎はお梅に背中を斬られて逃げ帰る。一旦は吉五郎の襲撃を撃退したものの、勝ち目のないお梅、藤九郎は南に逃げていった。

 その後、吉五郎はお初と正式に夫婦になり、4匹の子をもうけて明治まで暮らすが、猟師に撃たれて吉五郎は剝製にされてしまう。剥製を取り戻そうとしたお初と2人の子も罠にかかって死に、残りの2匹の子は、今でも小牧山で栄えているという。

 

・小牧市観光協会が作成したリーフレット「小牧のむかしむかし 吉五郎伝説」にも、「このマップは、その著(『伝説老狐小牧山吉五郎』)からと、現在の古老たちに取材したもの(約50余話)から、代表的『きちごろう狐』話を選び……」とあり、地元に根差した吉五郎話も多いことがわかる。しかし、狐の大親分イメージとしての吉五郎は『伝説老狐小牧山吉五郎』で形作られたといってよいだろう。

 

猿丸(さるまる)

・岐阜県大野郡荘川村猿丸(現・高山市荘川町猿丸)の話。

 昔、諸国行脚の僧が飛騨国の深山に分け入って迷っていると、近くの滝の裏から母親と子供の二人連れが出てきた驚いた僧が二人に人家のある所を尋ねると、滝の裏からつながる隠れ里へと案内された。僧は母子の家に招かれてもてなされ、しばらくそこに逗留することにした。ある時、里の村祭りの時期となり、山神に捧げる生贄にその家の娘が選ばれた。家族は嘆き悲しんだが、僧は正しき神ではないと考え、娘の身代わりを買って出た。祭りの日、僧は生贄として山駕籠に乗せられて神殿に捧げられた。夜更けになると神殿から怪しいものが現れて山駕籠に手をかけようとしたので、僧は飛び出して持っていた刀で斬り付けた。逃げ出した山神を取り押さえてみると、その正体は大猿であった。捕らえた大猿を見せると、里の者たちは「これは猿丸といって、人家につないで人が玩弄していたものだ。このようなものに長く生贄を捧げていたのは愚かであった」と語った。僧たちは猿を殺そうとしたが、猿が泣き叫ぶのを見て憐れに思い、杖で打ち据えてから解き放ってやった。その後僧は娘の婿として迎えられ、名を式部と改めて里に住むようになったのだという。

 

猩々岩

昔、定光寺山(愛知県瀬戸市)に棲む猩々と、外之原の川平山(春日井市)に棲む天狗が大喧嘩をした。猩々は天狗に刺され、岩の上を飛び回って逃げたが、力尽きて死んだ。

 

・もとは赤い色の岩から命名されたのではと思われるが、猩々が登場する話は愛知県内では珍しい。「お話」としてではないが、「猩々の大人形」は県内各地の祭りに登場する。定光寺山と外之原は、庄内川を挟んで東西の位置にあり、猩々岩のある鹿乗橋付近は、やや南ではあるが、中間地点に位置すると言える。

 猩々が棲んでいたとされる定光寺山は、行政上は瀬戸市に属する

 

座敷小僧

・いわゆる「ザシキワラシ」といえば、東北地方を中心に知られる妖怪である。一般の知名度も高い。しかし、実は東北地方以外にも似た話は散見され、愛知にも座敷小僧と呼ばれる存在について記録が残る

 北設楽郡本郷村(現・東栄町)にあったキンシ(金鵄?)という酒醸造家の奥座敷には座敷小僧が住んでいたという。雇人が夕方に雨戸を閉めに行く時などに見かけたといい、10歳くらいの子供であったという。キンシ家は、没落して今はないという。

 

五十八(いかばち)の鬼女

・福井県三方郡西田村(現。三方上中郡若狭町)に伝わる。

 海山区の小字・五十八の奥の森林に、中が空洞になった巨木があり、そこを鬼女が住処としていた。鬼女は時々村落に現れて衣類食物などを奪い、更には外で遊ぶ子供をさらって餌食にするなどしたので、人々はとても苦しめられていた。鬼女は体も長大で猛獣のように獰猛だったので抵抗することもできなかったが、安太夫という男は武術の心得もあって、この鬼女を退治しようと考えた。安太夫は八幡大菩薩に祈願し、甲冑に大小刀、長柄の鎌槍や鉄製のカンジキを用意し、雪深い時期に鬼退治へと向かった。大小の洞穴で六尺(約1.8メートル)余りの巨体、髪を振り乱し、凹状の顔に口は裂け、爛々と輝く眼光の鬼女と相対したが、積もった雪で思うように動けない鬼女を追い詰め、遂にこれを殺したのだという。

 

八百比丘尼(やおびくに)

・福井県遠敷郡(おにゆうぐん)小浜町(現・小浜市)の伝説。全国各地に類似の伝説があるが、ここでは小浜男山の空印寺に伝わる話を紹介する

 空印寺の境内には、入り口の高さ一丈四、五尺、幅一丈、奥行き十四、五間の洞窟がある。昔、小浜の浜に道満という漁夫がいて、一人娘とともに暮らしていた。ある日、娘は海岸に流れ着いた奇妙な魚を拾い、それを焼いて食べてしまった。これは人魚という魚で、その肉を食べた者は決して年を取らないという不思議な効き目があった。そのため、娘はいつまでも年を取らず、若い綺麗な娘のままとなった。周りの人々が皆年を取って死んでいったが、人魚を食べた娘だけはそのままで生き続けたので、次第にいきているのが退屈になり、ある日近所の人々を集めて「私は生きているのに飽きたので、尼になって洞窟に入り、読経の行を始める。洞窟の入り口に植えた椿の木が花を咲かせる間は、私はまだ生きていると思ってほしい」と言い残して洞窟に籠ってしまった。そこからこの町では娘、八百比丘尼の姿を見たものはなく、ただ洞窟の奥から鐘を叩く音だけが聞こえるようになったという。