ミコシで旅する山の神

・異なった民族、異なった職業が日本列島に展開するにつれて、山の神は次々と細胞分裂をおこしていったわけだが、それでもなんら超越的な性格をおびていなかった。農民が信仰した田の神も、「村の鎮守の神様」であり、祭りの日には村びとと一緒に踊り明かしたりもする。まるで共同体の一員のような親しみをもっていた。

 神の山地から平地への下降、山の神から田の神への移行の過程で登場したのが、マレビト信仰である。マレビトは年に一度、人里に出現するが、そのとき秋田のナマハゲのようにいかにもグロテスクな姿をして現れるのは、それが古代社会の動物神の名残を留めているからである。それは、人間の前に現れるカムイが、必ずクマというハヨクペ(仮装)を必要としているとされるアイヌの信仰と同じものである。

 沖縄諸島には来訪神としてのアカマタ・クロマタを迎える儀礼が伝わっている。

 

・現代の祭りでも、神輿が本社からお旅所まで担がれていくのは、明らかに「旅する神」の名残であり、お旅所は神々の原郷である山、あるいはそこに設けられていた山宮に相当するのである。神輿を本社からお旅所へ威勢よく担ぎだす行事は、神を山宮から里宮へ迎えるために、山地を離れて平地にしか暮らさなくなった稲作農耕民が編みだした苦肉の策ともいえる。

 

・醜い顔をした山の神が決して邪悪な神というわけではなく、ナマハゲやアカマタと同様に、それが稲作農耕民に<事物化>される以前のナマの神の姿なのである。

 

借家住まいを好んだ神々

・現在、われわれが目にする神社とは、いかにも立派な社殿があって、日本的建築美を誇っているが、初期の神社は自然信仰の形態にとどめて、きわめて単純な様相を呈していたと思われる。山から里へ、里から山へ旅する神に、大仰な建物は不必要だったのである。

 神が神社という一定の場所に常在すると考えられるようになったのは、ずいぶん時代が下ってのことであろう。とくに大和朝廷が自分たちの権威づけと国家の守護祈願のために、天つ神を都の近くに迎える必要が出てきたときに、その傾向は強まったと思われる。

 島根県大田市では正月に歳徳神をまつるためにカリヤ(仮屋)というものを作っていた

 

現代の日本で、太古にあった神社の原型を見たければ、沖縄地方に多数存在する御嶽(うたき)を訪れるとよい。一般的に、御嶽にはきわめて簡潔な鳥居と拝殿だけであり、その奥にある最も神聖な空間である奥津城は、しばしば白砂が敷き詰められ、石垣で囲まれている。それは神社の神垣に相当すると思われるが、岩や樹木以外には何もないその空間は、目に見ない何ものかに充たされているがごとくに、不思議な神聖感が漂っているのだ。

 

国つ神と天つ神とのせめぎ合い

・本章のはじめに述べたように、神の歴史は人間の歴史でもある。神の足跡をたどれば、人間の足跡が見えてくる。原初の神は動物神であったと論じたが、気をつけなくてはならないのは、神話の中でケダモノの姿をした神が現れてきたら、それはまったく別な意味をもつかもしれないことだ。

 ととえば「神武東征伝」で、神武が熊野に到着したとき、「大熊」が現れたとたん、彼も彼の軍隊も戦意を失い、眠りに陥ってしまう話があるが、この場合の「大熊」は、すでに紀伊半島に暮らしていた土着民のことだろう。

 したがって山の神という言葉を使った場合も、文字通り山岳の神という意味と、記紀の中で「伏わぬ人達」や「荒夫琉蝦夷等」と描写されている土着民の首長という意味が重なり合っていることを理解しておかねばならない。

 異民族同士がはじめて遭遇したとき、血なまぐさい衝突を避け得ないが、悲しいかな、人類普遍の歴史となってきたわけであるが、案の定、難波に上陸しようとした神武の一行は、先に近畿の覇権をにぎっていたナガスネヒコ(長髓彦)の軍隊に撃退されている。

 

・天つ神という考え方の背後には、中国の「天」の思想があるのであり、それがさらに、「天」の意志を地上に反映することのできる皇帝によってのみ、この世の政は執り行わなければならないという考え方に結びついてくる。北京の天壇にある円形の祈年殿は、まさに皇帝が天に向かって五穀豊穣を祈った祭壇である。

 天つ神が登場してはじめて、神と国家がかかわりをもつことができるのであり、地域的な氏神、つまり国つ神では、とうてい地域性からは脱却できない。その後、神道は新旧の神々に役割分担させ、両者の間に相互補助的な関係を維持することによって発展してきたといえる。

 日本中の神社に祀られている神々は、ごくおおまかにいって、国つ神と天つ神との二つのグループに分けられるが、このような異種の神の共存は、異教徒の神を徹底的に排除してしまう一神教には見いだされないものであり、多神教の美点の一つといえるかもしれない。

 たとえば、サルと天狗双方の特徴をもつ異形の神サルタヒコ(猿田彦大神)は、さしずめ国つ神の代表格であろう。

 

日本の裏面史を鬼が語らう岩木山

・内藤正敏氏の「鬼の風景」という論文に、津軽富士として有名な岩木山(1625メートル)の鬼伝説が紹介されている。どうやら岩木山の鬼どもは、われわれが解き明かそうとする古代史の鍵を、いまだに隠し持っているらしい。

 江戸時代に全国を旅していた菅江真澄の『外浜奇勝』にも、岩木山の鬼のことがふれられている。山の北側にある赤倉岳には、いつも深い霧がかかっているが、そこにこそ異常に長身で、肌が黒い鬼が棲んでいて、崖をよじ登ったり、麓の里に現れたりすると記されている。

 じっさいに岩木山はガスが発生しやすく、頂上が見えることがまれであるから、鬼伝説誕生の地として、いかにも似つかわしい。田村麻呂は、この山にあるシトゲ森で鬼を切り殺し、そこにある沼で刀を洗ったので、今に水が赤茶けているという。

  

・そこに混血種としての日本人ならではの、異文化・異人種に対しオープンな民族的プライドがあってもよいはずだ。日本が真に国際化されるためには、均質社会という化けの皮を脱いで、多文化・多人種社会の再構築がなされなくてはならない。そういう意味でも、日本史の秘密を知る鬼どもとの邂逅を求めて、岩木山に登ってみるのも、まことに意義あることのような気がする。

 

太陽霊アマテルが降臨した神路山

・赤鬼青鬼をめでたく退治して、山の上まで営々と棚田を築き上げた稲作農耕民にとっては、水の確保と太陽の光が何よりも大切になった。龍神信仰と太陽信仰が切っても切れない関係にあるのは、そのためである。

 

・『アマテラスの誕生』の著者・筑紫申真氏によれば、アマテラスの観念は、「太陽神」、「太陽神に仕えるオオヒルメ」、そして「天皇家の祖先神」というふうに、歴史的に少なくとも3回変化しているという。

 

朝鮮文化が舞い降りた高千穂峰

・そもそも高千穂峰にまつわる天孫降臨説も、古代朝鮮の歴史をつづった『三国史記』や『三国遺事』などに頻出することからも、海の向こうからももたされた神話のモチーフであることは、疑念の余地がない。このことからも、日向地方一帯に渡来人が大朝鮮文化圏を形成していたことがわかる。

 

・英彦山は修験の山として有名であるが、それは平安時代になってからのことである。この山の北岳から新羅時代の金銅仏が発掘されているし、近くにある香春岳の祭神は、カラクニオキナガオオヒメオオマノミコトという新羅の国神である。天孫降臨説の存在する山には、つねに大陸の匂いが強く漂っている。

 

日本人の深層心理に入り込んだ富士山

・日本列島最古の集落跡とされる静岡県大鹿窪の窪A遺跡は、旧石器時代直後の縄文草創期に属するが、そこに暮らしていた縄文人も富士山を特別な思いで眺めていたことが判明している。なぜなら、環状に並んだ竪穴住居跡が、富士山の見える北東方向にのみ、存在しないからだ。代わりに、そこには大小の石を同心円状に三重に並べた祭祀跡が発見されている。あきらかに富士の高嶺を遙拝しながら、何らかの祭儀を行っていたのである。

 

験を修める山

人身御供となった異人たち

「男」になりたければ大峰修験

とくに吉野には、国栖(くず)という先住民族が平安時代の初期ごろまで住んでいたことが知られている。修験道の開祖・役行者の家系のように、彼らもまた朝廷の宗教儀礼において歌笛を演奏する役目を与えられていた。山民である彼らが媒体となって、古代山岳信仰と仏教の融合が成立したことも大いにあり得る話である。

 役行者もまた、前鬼と後鬼という二匹の鬼を折伏し、弟子としてどこにも連れて歩いたとされるが、大峰山麓には前鬼(深仙)と後鬼(洞川)という名の集落がある。鬼がしばしば先住民のことをさしたことは、すでに論じた通りであるが、前鬼・後鬼も吉野国栖と同様に、吉野周辺に暮していた山民部族だったのであろう。

 大峰山系で最高峰の八経ヶ岳の山頂では、役行者が弁財天を感得し、法華経を埋めたとされるが、その山麓の天川村には、日本三大弁財天のひとつ天河大弁財天社がある。四方を山に囲まれた天川村にも、村びとは役行者に仕えた鬼の子孫であるという伝承があるが、そのためか天河大弁財天社の節分では、「福は内、鬼は内」と叫びながら、豆まきをする。

 

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウェブサイト「人文研究見聞録」から引用

五重塔の塑像の謎

法隆寺の五重塔には、仏教における説話をテーマにした塑像が安置されています。

 

その中の「釈迦入滅のシーン」があります。これはガンダーラの釈迦涅槃図と比較しても大分異なる、日本独自のものとなっています。

そして、法隆寺の塑像群の中にいる「トカゲのような容姿をした人物」が混じっており、近年 ネット上で注目を浴びています。

 

問題の像は、塑像の○の部分にいます(実物では見にくいので、法隆寺の塑像のポストカードで検証しました)。

 

これらの像は侍者像(じしゃぞう)と呼ばれ、それぞれ馬頭形(ばとうぎょう)、鳥頭形(ちょうとうぎょう)、鼠頭形(そとうぎょう)と名付けられています。しかし、どう見ても「トカゲ」ですよね?

 なお、この像がネットで注目を浴びている理由は、イラクのウバイド遺跡から発見された「爬虫類人(レプティリアン)の像」と酷似しているためなのです。

「爬虫類人(レプティリアン)」とは、世界中の神話や伝承などに登場するヒト型の爬虫類のことであり、最近ではデイビット・アイク氏の著書を中心に、様々な陰謀論に登場する「人ならざる者」のことです

 もちろん「日本神話」の中にも それとなく登場しています(龍や蛇に変身する神や人物が数多く登場する)。

 

また、この像は、飛鳥の石造物の一つである「猿石(女)」や、同じ明日香村の飛鳥坐神社にある「塞の神」に形が酷似しています(トカゲに似たの奇妙な像は奈良県に多いみたいです)。

 

また、この「トカゲ人間」以外にも、以下の通りの「人ならざる者」が含まれていることが挙げられます。

 

① は「多肢多面を持つ人物の像」です。これは、いわゆる「阿修羅」を彷彿とさせる像ですが、実は『日本書紀』に「両面宿儺(りょうめんすくな)」という名の「人ならざる者」が登場しています。『日本書紀』には挿絵はありませんが、この像は そこに記される特徴と著しく一致します。

<両面宿儺(りょうめんすくな)>

仁徳天皇65年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺(すくな)という。

 一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみと踵(かかと)が無かった。

 

力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した。

 

②  尻尾が蛇となっている人物の像

②は「尻尾が蛇となっている人物の像」です。日本には尻尾が蛇となっている「鵺(ぬえ)」という妖怪が存在します。これは古くは『古事記』に登場しており、『平家物語』にて その特徴が詳しく描かれています。その鵺の特徴は、この像の人物と一致しています。

 

③  顔が龍となっている人物の像

③ は「顔が龍となっている人物の像」です。「日本神話」には「和爾(わに)」と呼ばれる人々が数多く登場し、かつ、海幸山幸に登場する山幸彦(ホオリ)に嫁いだトヨタマビメの正体も、実は「八尋和爾」もしくは「龍」だったとされています。また、仏教の経典である「法華経」の中にも「八大竜王」という龍族が登場しており、仏法の守護神とされています。③の仏像は、これらにちなむ人物なのでしょうか?

 

このように法隆寺の五重塔に安置される塑像には「人ならざる者」が複数含まれています。なお、これらは奈良時代のものとされているため、飛鳥時代に亡くなっている太子との関係は不明です。

 

また、オリジナルと思われるガンダーラの釈迦涅槃図とは著しく異なっており、どのような意図を以って上記の「人ならざる者」を追加したのかはわかりません。なぜ作者はこのような仏像を参列させたのでしょうか?

 もしかすると、これらの像は釈迦入滅の際に人間に混じって「人ならざる者」も参列していた、つまり「人ならざる者は存在している」ということを示唆しているのかもしれません。信じるか信じないかはあなた次第です。

 

 

 

『ときめく妖怪図鑑』

門賀美央子    山と渓谷社  2016/7/8

 

 

 

妖怪界きっての嫌われ者 天邪鬼(あまのじゃく)

・昔話では悪役として退治されることが多いため、どことなく小物感が漂う妖怪ですが、そのルーツは記紀神話にまで遡れます。

 

 一つは黄泉に下った伊耶那美命に従った黄泉醜女(よもつしこめ)、もう一つは天孫降臨よりまえ、葦原中国を平定するため高天原から天降った天若日子(あまのわかひこ)に仕えた天探女(あめのさぐめ)です。黄泉醜女は怪力で単純な鬼女、天探女(あめのさぐめ)は天若日子が高天原に帰らないよう策略を巡らした知恵者。全く異なる性質が重なり、さらに仏教伝来以降は仏神に踏まれる小鬼像などが加わった結果、意地悪でひねくれ者の「天邪鬼」ができあがったといわれています。

 

小角様とどこでもいっしょ  前鬼・後鬼

・山の神さえ使役するほどの呪力を持っていた修験道の開祖・役小角。そんな彼を間近で支えた夫婦者の鬼が前鬼と後鬼です。二人は大阪と奈良の県境にある生駒山周辺に住み、悪事を働いていましたが、小角に諭されて改心し、従者となりました。

 

・二人の間に生まれた五人の子供たちは、修験の本拠地である大峰山の麓に宿を設け、今でも奈良県吉野の下北山村に前鬼・後鬼の子孫が守る宿坊があります。

 

女だからってなめないで 鬼女紅葉/鈴鹿御前

・女鬼には豪の者もいました。第六天魔王の申し子・紅葉は、元は都の貴族に仕えた才色兼備の美女でしたが、主家の奥方を呪った罪で信州戸隠に追放されました。そこで盗賊の頭領となり、妖術を駆使して無敵を誇るのも、最終的には都の討伐軍に打たれます。しかし、本拠地だった鬼無里村では、都の文化を伝えた恩人として今でも慕われています。

 

・鈴鹿御前も妖術を操る女賊で、時には鬼と化して討伐軍と戦ったといいますが、一方で鬼を退治した天女との伝承もあり、像が定まりません。ただ、美女だったのは確実なようで、敵軍大将とのロマンスも伝わっています。

 

まつろわぬ王たちの残像   悪路王/温羅(うら)

・大和朝廷が列島を平らげていく中、各地に抵抗勢力が生まれました。

 悪路王は、東北で朝廷と戦った伝説的な王の名で、中央により鬼の烙印を押されたものの、東北では英雄視されることも少なくありません。

 

 一方、温羅は吉備地方に移り住んで来た大鬼で、周辺地域を襲っては乱暴狼藉を働いていましたが、朝廷から派遣された吉備津彦命に敗れ、首を打たれました。しかし、死後も唸り声を上げ続けたといいます。

 いずれの鬼も大和朝廷の日本統一事業の過程を伝える鬼といえるでしょう。

 

東北には優しい鬼もいる 津軽の大人/三吉鬼

・大和朝廷にとって、東北地方は長らく、まつろわぬ民の住む異界でした。そのため、多くの鬼伝説が語られることになり、人と鬼の距離感もぐっと近かったようです。

 

 津軽の岩木山に住む鬼は大人(おおひと)と呼ばれ、人を助け、ともに遊ぶ存在でした。今も農業神として信仰されています。

 三吉鬼は秋田県あたりの人里に現れた鬼で、酒さえ飲ませてあげればどんな仕事でも引き受け、一夜で仕上げたといいます。評判を聞いたお殿様まで依頼者になったとか。

 正体は大平山三吉神社に祀られる三吉霊神との説もあり、両鬼ともに、善神としての鬼の性格を垣間見せています。

      

大きな鼻がチャームポイント  猿田彦命

・記紀神話に登場する異形の神々の中でも特に印象的なのが、この猿田彦です。身長は7尺、口が赤く、目は八咫鏡のように輝いていましたが、驚くべきはその鼻の長さ。7咫、つまり数十センチメートルもあったとか。

 天孫降臨の際には天の分かれ道に立ち、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の案内をしようと待ち構えていたところ、あまりの容貌魁偉に天照大神が驚き、天宇受売命(あまのうずめのみこと)に正体を探らせました。

この逸話はやがて神楽舞の演目になり、猿田彦命には鼻の長い赤い顔を面が用いられましたが、これが鼻高天狗のイメージの源になったとみられています。

 

天狗界の神 八大天狗

・江戸時代に書かれた天狗経によると、天狗の数は全国に12万5500狗、うち有力者が48狗で、最も力のある者たちは八大天狗として特別視されました。

 

 彼らの名は本拠地の山名+~坊という形になっていますが、坊とは元は僧侶の住居を指す言葉で、転じて僧侶そのものを指すようになり、それが天狗に流用されたのです。ここでも天狗と修験道の深い関りがわかります。

 

 今はほとんどの霊峰に天狗伝説があり、神として祀られていることも少なくありません。魔物だった天狗は、長い年月を経て山の守護者となったのです。

 

・[愛宕山太郎坊] 首席天狗。愛宕神社の守護を仏から命じられた。火神・迦具土と同一視されることもあるが時々大火事を起こす。

 

[比良山次郎坊] 元は比叡山にいたが、最澄が延暦寺を開いたため引っ越しを余儀なくされた。比良山では先住の龍と戦ったとも言い伝えられている。

 

[鞍馬山僧正坊] 生前は壱演という真言宗の高僧だったが、死後天狗になった。牛若丸(後の源義経)の師として知られている。

 

[相模大山伯耆坊] 相模坊の後任として伯耆大山から引っ越してきた。大山ネットワークがあったのか。富士講講中に人気が高い。

 

[白峰相模坊] 名の通り元は相模大山に住む天狗だったが、崇徳院を慰めるため進んで讃岐に移住した。面倒見がよいらしい。

 

[大峰山前鬼坊] 役小角に仕えた前鬼が修験の仏教化で天狗になったが、修験者を守護するのは相変わらず。やはり面倒見がよい。

 

[彦山豊前坊] 九州の天狗を統べる。正体は天照大神の子・天忍穂耳尊とも。弱きを助け強気をくじく善神的性格が強い。

 

[飯綱三郎] 荼枳尼天と同体の神として祀られ、白狐に乗った姿で表される。戦勝の神として武将たちに厚く信仰された。

 

いたずらもするけど、仲良しだよ ケンムン/キジムナー

・本土とは趣の異なる風俗や文化を培ってきた南西諸島にも、河童に類する水辺の化け物がいます。奄美地方にはケンムン、沖縄にはキジムナーと呼ぶのが一般的ですが、やはり各土地によって名称が異なります。また、ケンムンもキジムナーもアコウやガジュマルに住む木の精であるという点が、本土の河童と違うところです。しかし、相撲好きや駒引きなど似た話が多くあり、伝承の交流があったことを窺わせます。

 琉球の人にとってキジムナーは単なる魔物ではなく、親しみのもてる存在だったようで、友達になる話が多く残っています。

 

いまや遠野のシンボルだよ!  遠野の河童

・遠野の川には河童がたくさん住んでおり、中心部を流れる猿ヶ石川には特に多かったと『遠野物語』に書かれています。雨の日の翌日などは川岸の砂の上に足跡が付いているのも珍しくなかったそうです。

 遠野の河童の一番の特徴はその色で、見た人の話によるととても綺麗な赤色だったとか。

 また、馬を引きずり込もうとして逆に捕えられた淵猿(河童の別名)が、許してもらったお礼に家を守る座敷童子になったという変わり種の話も伝わっています。

 

関東に手を出すものには容赦しないよ  禰󠄀々子河童

・利根川に住んでいた雌の河童で、関八州の河童を統べる大親分だったといいます。

 とにかく気性が荒く、機嫌が悪いと堤防を破ったり、牛馬や人を川に引きずり込んだりと大いに暴れました。しかし、加納の地(現在の茨城県北相馬郡利根町加納新田)に至った時、ここを開拓していた加納久右衛門に捕えられ、懲らしめられて改心したといいます。加納家には今でも禰󠄀々子の像があり、安産や縁結びの神として祀られているそうです。

 また、九州の親分河童・九千坊と利根川の覇権を争って戦い、勝ったとの言い伝えも残っています。

 

中国からやってきた水天宮の御眷属  九千坊(くせんぼう)

・筑後川を根城とする九州河童の頭目で、千数百年前に中国の黄河から一族を引き連れて海を渡り、熊本県八代に上陸したといいます。

 

 初めは球磨川に住んでいました。しかし、一族の河童たちがあまりにひどい悪戯をしたため、肥後領主・加藤清正の怒りを買って退治されそうになり、仕方なく久留米の有馬公に頼んで筑後川に移ったといいます。

 ところで、九州には平家の怨霊が化生した河童も一大勢力を誇っており、そのせいかどうかはわかりませんが、九千坊は一時本州進出を目論んだようです。しかし、禰󠄀々子に敗れ、野望は潰えました。

 

老若男女揃った山の一家  山人(さんじん)

・日本各地の昔話に登場する山男や山女。中でも最も有名なのが山姥でしょう。人を喰う鬼婆かと思えば人助けもする、自然の猛威と恵みを象徴するような存在です。若くして美しい場合は山姫と呼ばれます。

 

 山爺は全身毛むくじゃらの一本足で、片目が極端に小さいため一見独眼に見えるとか。歯が強く狼さえも頭からバリバリ食べるそうです。

 山童は、悪さもしますが、手伝いもよくします。一説には春の彼岸に山を降りて河童になり、秋の彼岸になったらまた山に帰るそうですが、田の神にも同様の伝承があるのがおもしろい点です。

 

一番会いたくない化け物かも さとり

・人の心の中を読む化け物、それがさとりです。相手が思ったことを次々と言い当て、隙ができたら獲って食おうとします。ですが、大抵はたき火の火が突然爆ぜたのが当たるなど、予測不能な反撃を受けてほうほうの体で逃げていくという落ちになります。

 思考を全て読み取られるなんて気味悪い上に間違いなくイラッときますが、「物事に不測の事態がつきもの」と身を以て教えてくれる妖怪だと思えば、少しは気が収まるかもしれない。

 

あんまりかわいくなくてごめんなさい 人魚

・日本の人魚は不気味な容貌をしているものがほとんどです。若狭地方周辺には人魚の話が多く、人魚の肉を食べて不老不死になった八百比丘尼の伝説や、神使である人魚を殺した祟りで滅んだ村、前世の罪業により人魚に転生した男の話などが残っていますが、往々にして不吉な存在と見なされていました。

 

・沖縄の人魚・ザンは美しい女性の姿ですが、捕えると不吉な出来事が起こるのは同じ。見つけてそっとしておくのがいちばんなようです。

 

予言獣は社会不安の証  件(くだん)/アマビエ

・件は人面牛身の妖物で、生まれ落ちてすぐ一言だけ予言し、死んでしまうといいます。

一方、アマビエも予言する妖物で、こちらは肥後の海に出現し、豊作や疫病の流行を予言して立ち去りました。その際「流行病が出たら自分の姿を描いた絵を人々に見せよ」と言い残したそうです。

 

件もアマビエも出現時期は江戸末期で、この時期には他の地域にも予言する妖物が頻出しました。社会不安が流言を生む典型例といえるでしょう。