『世界を見る目が変わる50の事実』

ジェシカ・ウィリアムズ  草思社 2005/4/28

 

 

 

70カ国以上で同性愛は違法、9カ国で死刑になる

・同性愛が死刑の対象になる国が9カ国ある。モーリタニアスーダンアフガニスタンパキスタンチェチェン共和国、イラン、サウジアラビアアラブ首長国連邦(UAE),そしてイエメンである。

 

・1979年のイランにおけるイスラム革命以来、4000人以上の同性愛者が処刑されたと推計されている。

 

・世界で70カ国以上がレズビアン、ゲイ、同性愛者、あるいは性倒錯者を差別する法律を有している。

 

・社会においては同性愛は「病気」として扱われ、ゲイやレズビアンは精神医療による「治療」を強いられてきた。

 

・しかし、多くの国々で事態は変わりつつある。2003年6月、米最高裁判所は、同性カップルの性的行為を禁じるテキサス州法に違憲判決を下した。この判決は、テキサスだけでなく、他の13州における類似の法律を一挙に無効にすることになった。

 

・さらに同性愛のカップルも異性愛カップルと同じように子供を育て、家族の絆を持ち、結婚に関する判断を下すことができるとした。これらは米国憲法に保障された権利と確認したのである。

 

・米国市民自由連合はこの判決を「LGBT(レズビアン、ゲイ、両性愛者、性倒錯者)にとって、これまでで最も有意義な判例」と呼んだ。

 

・国際人権団体も同性愛を公言する人々の保護を求める働きかけで注目を集めており、おそらくはそれがまた保護手段になっているだろう。

 

 

 

(2022/2/11)

 

 

 

『大江戸奇怪草子』

忘れられた神々

花房孝典  天夢人  2021/6/16

 

 

 

文明開化

・江戸時代というと、なにやら遠い昔のような気がしますが、実は、今からおよそ百五十年ほど前の、長い歴史の流れの中では、ほんの昨日のような時代です。また1868年の明治維新によって、一挙に江戸が消滅してしまった訳もありません。続く明治の時代にも、文明開化といえ、市井の生活には、確実に江戸文化の面影が色濃く残っていました。

 

・志ん生師は明治23(1890)年の生まれですから、少なくとも明治の中頃までは、東京の夜は闇に覆い尽くされ、その中には、狐や狸に騙されたという、今考えれば、信じられないような話も多く含まれていますが、それは、当時の一般常識を超越した現象を、自ら納得させるために、狐狸に、その原因を帰結させた結果であり、このような超常現象に対する人間の対応は、現在でもあまり変わっていません。

 また、現実の恐怖感が、逆に畏怖の対象となることもあります。本文にあるように、江戸時代、疱瘡(ほうそう)(天然痘)は最悪の疫病であり、死亡率の大変高い、まさに死に至る病でした。

 

狸の書

・文化二 、三(1805,6)年のことです。

 下総香取(現在の千葉県香取郡)大貫村、藤堂家の本陣に詰める何某という家に、書をよくするという、不思議な能力を持つ狸が棲んでいました。その狐は、普段はその家の天井に棲んでおり、狸の書を求める人は、自身でその家を訪ね、天井に向かって丁寧に頼みますと、その家の主人は心得て、紙と筆を火で清め、さらに筆に墨を含ませて揃えますと、不思議や紙と筆は自然に天井へ上ってみますと、必ず紙に字が書いてありました。

 

・狸は、ときおり天井から下りてきて、主人に近づいてくることもよくありましたので、同藩の人はもちろん、近在の里人たちもその狸の姿をときおり目にしたということです。

 

・宴会の当日、主人は客に向かって、「本日は、趣向というほどでもございませんが、皆様ご存知の狸殿に、何か技を披露するように頼んであります。彼が果たして皆様を驚かすことができますかどうか、どうぞ楽しみにしていてください

 と言いましたので、宴会に集まった人々は、それは近頃稀な珍しい趣向と、その話を肴に、不思議の起こるのを今や遅しと待っていました

 ちょうど申の刻(午後4時)思しき頃、座敷の庭先に突然堤が現れ、そこに一宇の寺院が建ちました。その近くには、さまざまな商人たちが葦簀(よしず)張りの店を聞き、またある者は筵(むしろ)を敷いてくさぐさの商品を並べて賑々しく客を呼んでいます。また、それらの商品を目当ての客たちが群集して、その喧騒さは表現のしようがありません。その中にも、(ひさし)に茹蛸(ゆでだこ)を数多く吊した店が鮮やかに目に栄えます。この景色は、近隣の町に六の日に立つ六才市だろうと、人々は怪しみ驚いて打ち眺めていましたが、庭先の市の景色は次第に薄れ、ついには消えてしまいました。

 この日以来、狸の評判は近隣に喧伝され、書を求める人々が陣屋に殺到し、病気をはじめ、あらゆる願いに御利益ありとの噂も立ち、まさに門前市をなすといった状態になり、その風聞は遠く江戸まで達し、公の耳に入りましたので、そのまま放置できず、さっそく役人を派遣してことの次第を調査することになりました。

 調査の結果、山師のように人を騙すわけでもなく、かつ、陣屋の番士の家で起こったことでもあり、取りあげて咎めるまでもないということになりましたが、蕃士のほうでも、世間を騒がせたことに対して深く反省し、信頼できる人の紹介がなければ、書も出さず、まして狸と引き合わすようなことを絶えてなくなったということです。

 

狐の証文

・八王子千人頭(現在の東京都八王子市近辺に住んで、土地の警護に当たった千人同心の頭領)を勤める山本銕次郎(てつじろう)という人物は、私の友人、川尻甚五郎の親類に当たります。その山本銕次郎の妻について、一つの奇談があります。

 銕次郎の妻は、荻生惣七(おぎゅうそうしち)という人の娘で、甚五郎の祖父が媒酌人となり、山本家に嫁いで来ました。ところがこの嫁に新婚早々狐が憑き、さまざまにあらぬことを口走り、異常な行動をとるようになりましたので、銕次郎は、狐に対し、「いかなる理由で、呼び迎えた妻に憑くという不埒なことをするのか。そのようなことをして、いったいなんの利益があるのか」と、諄々と道理を諭します。

 

・「証文があったとしても、事情を知らない人は怪しいことと思うであろう。狐が書いたという何か証拠があるのか………。そうだ、人間の世界では印鑑が手元にないときは、代わりに爪印というものをするものだ」

 と言い聞かせますと、狐は、手に墨を付けて証文に押しました。そこには、何やら獣の足跡のような形が押されていたそうです。

 

天狗に雇われた少年>

・江戸神田鍋町(現在の東京都千代田区)の小間物屋(日用品、装飾品を商う店)に、当時14、5歳になる丁稚(商家や職人の家で働く少年)がいましたが、正月の15日に、銭湯へ行くと言って手拭いなどを持って店を出ました。

 しばらくして、裏口にたたずんでいる人間がいますので、誰かと尋ねると、銭湯に行ったはずの丁稚でした。丁稚は、股引、草鞋がけの旅姿で、藁苞(わらづと)を下げた杖をついていました。

 その店の主人は、物知りでしたので、驚くようすもなく、まず草履を逃がせ、足を濯ぐようにと言いますと、「かしこまりました」と返事をして、足を洗いました。丁稚は、足を洗うと台所へ行き、藁苞を開いてから野老(ところ)(山芋の一種。正月の縁起物とする)を取り出し、「お土産でございます」と言って、主人の前に並べました。主人は、「ところで、お前は今朝、どこから来たのか」と問いますと、「私は、秩父(埼玉県西部)の山中を今朝発ちました。長々とお留守をしてご迷惑をおかえしました」と言いましたので、さらに、「お前は、いつ、ここを出たのか」と尋ねますと、「昨年の12月13日、煤払いの日の夜に御山へ行き、昨日までそこにいて、毎日お客様のために給仕をしておりましたが、そこでは、さまざまな珍しい物をいただきました。お客様は、すべて御出家でございました。ところが、昨日呼ばれまして、『明日は江戸に帰してやろう、土産用の野老を掘りなさい』と言われましたので、この野老を掘って参りました」と答えました。

 その家のだれもが、丁稚が出ていったことに気づきませんでしたが、その代わりとして、先ほど銭湯へ行った者は、いったい何であったのか、きっと何者かが丁稚に化けていたに違いないと、あとになって気づきました。

 その後、丁稚に怪しいことは二度と起こりませんでした。

 

不思議な山伏

・寛政九(1797)年七月下旬のことです。

 麹町(現在の東京都千代田区麹町)三丁目に住む旗本、日下部(くさかべ)権左衛門の家来、何某が自室で休んでいますと、夜更けて、彼の名を呼び、激しく戸を叩く者がいました。彼は、「このような時刻に私を呼ぶ、あなたはいったい誰ですか」と声をかけましたが、返事はなく、さらに名を呼び続けますので気味悪くなり、息を潜めて物も言わずにじっとしていますと、しばらくして静かになりました。夜着をかけて寝ようとしますと、再び激しく戸を叩き、彼の名を呼ぶ声が聞こえました。

 そのまま、息を殺してじっとしていますと、戸締りのしてある戸をどうして通ったのか、一人の男がすっと部屋に入ってきました。恐る恐る見ると、いかにも恐ろし気な大男の山伏(修験者)でしたので、男は脇差を引き寄せて、いきなり斬り付けると、山伏の姿は消えてなくなりました。

 

・その夕方、この男は、座敷の戸を閉めに行くといって、そのまま行方不明になってしまいました。

 

・それから5日後、男の在所から、彼が国元に帰っている旨の報せが届きました。国元からの書状によると、彼は、その日の夕方、座敷の戸を閉め、机の算盤に向かったことまでは覚えていますが、その後の記憶はなく、相州鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)の山中に捨てられているのを、土地の人に発見され、その人たちの世話で、そこから国元へ送られたということです。

 

・また、次のような不思議な話もあります。

 麻布白銀町(現在の東京都港区)に、大御番七番目を勤める石川源之丞という武士が住んでいました。

 源之丞には一人の娘がいましたが、その娘が13歳のとき、ふと庭に出て、そのまま行方知れずになってしまいました。

 

・ところが、その翌日、木挽町(現在の東京都中央区)から、お嬢様をお預かりしていますとの報せが届きましたので、さっそく家来の者を迎えにやり、屋敷に連れ帰りました。娘が落ち着いたところで、事情を尋ねますと、「見知らぬ人に連れられて、面白いところを方々見物して歩きました」と答えました。

 

魔魅(まみ)

・小日向(こびなた)(現在の東京都文京区)に住む旗本の次男が、いずこへ去ったか突然行方知れずになりました。

 

・いよいよ当日がやってきましたので、心待ちにしていた祖母は供を一人連れて浅草観音へ出かけました。念仏堂へ行ってしばらく待っていますと、果たして次男が現れ、さまざまに話をしましたが、やがて、「まことに申し訳ありませんが、これ以上私を尋ねるのはやめにしてください。私は、前にも申し上げたとおり、何不自由なく暮らしておりますので………」と言い残してその場を立ち去りました。そのとき念仏堂には、次男の連れらしき老僧などが一緒に座っていました。それらの人々も次男といっしょに念仏堂を出て行きました。祖母は慌ててあとを追いましたが、次男たちの姿は人混みに紛れ、すぐに見えなくなってしまいました。このことは、供に連れた小者も確かに見届けています。後々、これは天狗というものの仕業であろうと評判になりました。私の親しい知人から聞いた話です。

 

空から降ってきた男

・文化七(1810)年七月二十日の夜、浅草南馬道竹門の近くに、25、6歳の男が突然空から降り下ってきました。男は足袋はだし、その他は下帯もつけぬ真裸で、そのままぼんやりと佇んでおりました。

 銭湯の帰りに、その不可思議な現象の一部始終を見ていた近所の若者が驚いて逃げようとした途端、男はその場に倒れ伏してしまいました。それを見て、若者は急いで事の次第を町役人に知らせまた。

 

・人々が見守る中、空から天下った訳を尋ねました。

 すると男は、「私は京都油小路二条上ル、安井御門跡(皇族や貴族が継承する寺院)の家来、伊藤内膳の倅の安次郎と申す者でございます」と語り、

ところで、ここは、いったい何という所でございましょうか」と尋ねました。人々が、江戸の浅草だと答えますと、男はおおいに驚いて涙を流しました。人々は、さらに詳しく事の経緯を尋ねますと、男は涙ながらに次のように物語りました。

「本月十八日の朝四つ時(午前10時)頃、私は、友人の嘉右衛門という者と、家僕の小兵衛を伴い、愛宕山に参詣いたしました。其の日は大層暑く、参詣の後、私は衣服を脱いで涼んでおりました。当時の私の着物は、四つ花菱の紋のついた花色染め(薄藍色。別名はなだ色)の帷子(かたびら)(単の着物)に黒の絽(ろ)(極薄の絹織物)の羽織、それに大小二刀を帯びておりました。涼風を受けて心地よく涼んでおりますと、そこへ一人の老僧がやって参り、私に、面白い物を見せるから従い来るようにと申しました

 私は、老僧に操られるように付き従ったような気がしますが、それ以降の記憶はまったくございません。気がつきましたら、こちらにご厄介になっておりました……」

 

天狗になった男

・享保年間(1716年から1736年)の話です。

 信州松本(現在の長野県松本市)の藩中に知行二百石で物頭を勤める菅野五郎太夫という武士がいました。

 

・その夜、夜半と思しき頃、何者か、三、四十人に及ぶ人がその部屋にやってきた気配がし、足音なども聞こえましたが、話し声は一切聞こえず、明け方頃にはひっそりとなりました。

 そのうち、夜も白々と明けてきましたので、家の者が恐る恐る襖を開けて部屋の中を覗いてみますと、部屋の中にはだれもおらず、半切桶の中の赤飯は一粒残らずなくなっていました。

 

・「旦那様がおみえになりません」と叫んだので、一同ははっと気づき、慌てて辺りを捜しましたが知れず、そのまま行方知れずとなってしまいました。

 

・さて、翌年の正月のことです。五郎太夫が消えた座敷の間に、誰が置いたとも知れず、一通の書状が置いてあるのがみつかりました。不思議に思った息子が開いてみますと、明らかに五郎太夫の筆跡で、「私は、今、愛宕山に住んでいる。現在の名前は宍戸シセンである」とあり、追伸のようにして下に、「二四日には、絶対に酒を飲んではならぬ」と書いてありましたが、その後は、菅野家には格別妖しいことも起こらなかったとのことです。

 

怪僧

・越後の国蒲原郡滝谷村にある慈光寺は、村落から山林の中を行くことおよそ一里(約4キロメートル)、千年は経たかと思われる杉や松が鬱蒼と生い茂る、まさに仙郷を思わせる幽玄の寺院です。

 元弘年間(1331年から1334年)、楠正五郎(楠正行の子)が出家して亡くなったのがこの寺で、いまだに祖父に当たる楠木正成の鎧、直筆の書簡などを寺宝として秘蔵しています。

 ある年の六月半ば、寺僧が皆托鉢に出て、小坊主が一人で留守番をしていますと、髪を長く伸ばした旅僧がやってきました。旅僧はしばらく休むと、小坊主に向かい、「今日は、祇園の祭礼の日だが、お前は行ってみたいか」と尋ねました。小坊主は、「見たいとは存じますが、そのようなことは不可能です」と答えますと、旅僧は、そのまま小坊主を連れて立ち去りました。すると、突然周りには数千の人々が群集し、囃子の音、さまざまな音曲がにぎやかに鳴り響き、鉾に飾られた錦の織物など、目にまばゆく、小坊主は時の経つのも忘れ、呆然と祭りを眺めていました。

 夕刻になって、旅僧は近くの菓子舗へ行って千菓子を一箱買い求め、小坊主に渡して、「帰るぞ」と一言言った途端、小坊主は寺の門前に立っており、旅僧はいずれかへ消え去ってしまいました。

 この話を聞いた寺僧たちはおおいに怪しみ、菓子の箱を調べてみますと、京都二条通りにある有名な菓子舗の物だとわかりましたので、きっと天狗の仕業に違いないと噂しました。

 

怪僧再説

・寛政年間(1789年から1801年)のことです。

 越後の国中蒲生郡大田村に住む農夫某に、12歳になる娘がいました。

 ある日、家人と連れ立って燕の町(現在の新潟県燕市)に祭礼見物に行きましたが、途中で家人とはぐれてしまいましたので、方々尋ね歩いていると、顔の赤い僧が来まして、さまざまに親切にしてくれるので、娘は家人のことも忘れ、一緒に祭礼を見物して歩きました。

 この僧は、娘が食べ物のことを思うと、直ちに茶店へ連れて行って好きな物を食べさせ、また、町で少女が欲しいと思う物があると、櫛でも簪でも思うままに与えましたが、一向に代金を払ったようすもなく、店の人もそれを咎めたりはしませんでした。

 娘は僧に送られ家に帰りましたが、その日以来、娘が心に望むことがあると、すべて叶うようになりました。遠くにある物を取ろうと思えば、その物が飛んできて娘の前に届きます。

 

・また、その年の秋、村松山喜多河谷村でも似たような怪事が起こりました。

  同村の裕福な農家某の家で、近村から子守り娘を一人雇い入れました。

 ある日、娘は、子守り仲間の娘数人と村外れの茶店の辺りへ行きました。仲間の娘たちは茶店で柿を買って食べましたが、娘はお金がないので買うことができず、仲間の食べるのを羨ましそうに眺めていました。

 そこで顔が赤く、まるで老猿のような、白衣を身にまとった僧が通りかかり、娘に、「柿が欲しいのか」と聞きましたので、娘が思わずうなずきますと、茶店から柿が5、6個飛んできて、娘の袂に入りました。

 その日以来、娘の望む物は、なんでも飛んできて娘の懐に入るようになりましたので、主人はひどく怪しみ、娘を親元に帰そうとしますと、家中の家財道具が勝手に飛び交って、家の中にいることができません。そこで、娘をいたわり、上座に据えて謝りますと、即座に止みました。

 

いずれの話も、天狗の仕業に違いないと評判になりました

 

美濃の弥次郎

美濃の国(現在の岐阜県)に弥次郎と呼ばれる年を経た老狐がいました。

 弥次郎は、ときおり、出家の姿で寺院に現れ、昔語りなどをしました。その中でも、京都柴野大徳寺真珠庵の一休禅師の話をすることが大好きでした。

 当時、一休禅師は、あまねく世に知られた徳の高い僧でしたが、また、さまざまな寄行が喧伝されていましたので、弥次郎は、それが疑わしく、自ら試してみようと京都へ出かけました。

 そのころ、大徳寺の門前に住む女性が婿取りをしましたが、母子、夫婦の折り合いが悪く、ついに婿を離縁したばかりでしたので、弥次郎は、その女性に化けて一休禅師のもとに行き、

夫は去り、母親も私を責めてなりません。そんな訳で、私は家を出て参りました。どうか今晩はお寺に泊めてください」と願いました。禅師は「あなたが、寺の門前に住んでいるので、近所のよしみで今まではお会いもしましたが、家を出られるならば、いくら知り合いでも寺に若い女性を泊めることはできません」と、きっぱりと断りました。

 

・女は、つまり弥次郎狐は、もともと一休禅師を試しに来たのですから、夜更けてこっそりと禅師の床に忍び入り、さまざまに戯れかけました。そのとき禅師は、女を跳ね除け、「この不届き者」と一喝して、枕元にあった扇のような物で弥次郎狐の背をしたたか叩き付けました。「たかが扇と思ったが、その痛さは耐え難く骨身に応え、まさに失神しそうになりました。一休禅師は、私の知っている限り、最も徳の高い人でした」と、しみじみ語って座を降りるのが常でした。この弥次郎狐は、今もなお存命だと聞いています。

 

天狗隠し

・寛政七(1795)年二月二十一日のことです。

 青蓮院(しょうれんいん)(京都市東山区栗田口にある門跡寺院)の19歳になる寺侍が、朝早く門を出て、たちまち行方知れずになってしまいました。同僚たちが思い思いに捜索しましたが、その行方は、ようとして知れませんでした。

 ところが二十四日の朝、くだんの寺侍が、門前に姿を現しましたので、とにかく中に呼び入れましたが、ほとんど夢中で、人心地がありませんでした。

 

・「朝、門前に立っていますと、突然、宙に浮いたような気分になり、夢ともなく現ともなく時を過ごしますと、ややあって、『下を見よ。ここは尾張名古屋の城下である』という声が聞こえました。それからしばらく宙を飛び、駿河の富士山の頂で休息をとりました。そのとき、急に母親のことを思い出し、『私が消えてしまったので、母上は、さぞお嘆きでありましょう』と、私を誘い連れてきた者に言いますと、その者は、『その方、母のことを、それほどに思うならば、帰してやろう』と言いましたが、その後のことは、まったく覚えていません」と答えました。

その、誘い連れ去った者というのは、いかなるようすであった」と尋ねますと、

その者の姿形は定かでありません。物を言うときには、傍らに誰かいるような気がしました」と答えましたので、皆々は、「それこそ天狗という者であろう」と語り合いました。

 

善導寺の狸

・讃岐高松(現在の神奈川県高松市)に有名な善導寺という禅宗の古刹があります。この寺に納所(寺院の出納を司る役職)を勤める若い僧がいました。

 かの僧は、たいそう律儀で篤実な性格の持ち主でしたので、住職の信頼も篤く、善導寺全体の帳簿を任されていました。もちろん僧侶ですので、算盤勘定は不得意の方でしたが、もとより律儀で行き届いた性格ですので、過去の帳簿に一厘たりとも合わぬ部分はありませんでした。

 ところが、文化三(1806)年の締めくくりの帳簿で、どういう訳か金子二十両の不足が生じてしまいましたが、もともと清廉潔白の僧ですから、そのことを日夜悩み続け、何度も繰り返し計算し直しましたが、どうしてもその原因はわかりません。

このように帳簿に穴をあけてしまったのは、すべて自分の不徳のいたすところ。いかなる申し訳も立つものではない。また、どのように言い訳しても、すべて自分の恥となる。この上は、死んで申し聞きをいたそう」と思い詰め、金子不足の経緯を書置として認め、座禅を組みながら、「今晩こそ死のう」と心に決めた途端、表で、「しばらくお待ちなさい」という声が聞こえました。

 

・「怖がらなくとも結構です。私は、すでにお聞き及びだとは思いますが、この禅林の裏山に歳古く棲む狸です。あなたは、なぜそのように悩み患い、死のうとなさるのですか」と問いかけました。

 

・翌々日の夜、僧が改めて帳簿の計算をしていると、狸がやってきて僧の前に二十両の金子を並べました。僧は、「約束は違えず、このように金子を整えていただいて喜びに堪えません」そこで、「これは、どのような小判なのでしょうか」と尋ねますと、狸は「これは長曽我部家没落のとき(長曽我部家は土佐の豪族。長曽我部盛親の代に、関ヶ原の戦いで石田三成に加担し、国を没収される。長宗我部とも書く)、土佐(現在の高知県)との国境の、人を寄せ付けぬ深山幽谷に、金銀資材などを隠し捨てた中の一部であり、今は、誰の持ち物でもありません。その場所は、大変険しく、我々でさえ容易には近づくことができませんが、やっとの思いで数を揃えることができました」と答えました。

 

・それを聞いた往時はたいそう驚き、「永年の帳簿の中で、少々不足が起こったとしても、それは、その訳を話してくれれば済むこと、夢にも死のうなどと考えるべきではない」と諭し、かの僧の実直さに改めて感嘆しました。

 

虚ろ舟の蛮女

・享和三(1803)年 二月二十二の午の刻(正午)頃のことです。当時、幕府寄合席を勤めていた小笠原越中中守(石高四千石)の知行地、常陸(現在の茨城県)の「はらやどりの浜」という海岸沖の波間に、舟のようなものが見え隠れするのを、土地の漁師たちが多くの小船を出して、浜辺に引き上げました。

 その舟様の乗り物をよくよく見ると、形は香合(こうごう)(香を入れるための蓋つきの容器)のように丸く、差し渡しは三間あまり(約5.4メートル)、上部はガラス張りで障子のごとく、継ぎ目はチャン(松脂)で塗り固められており、また、海上の岩礁などに当たっても打ち砕けないように、底部は鉄板を筋のように張ってありました。ガラス張りの上部から覗いてみますと、その中には、異様な風俗の女性が一人乗っておりました。

 女性の顔色は桃色で、髪も眉も赤毛でしたが、背にたれる豊かな長髪は白色の、たぶんつけ髪で、獣の毛か、より糸かは定かではありません。

 もとより言葉はまったく通じませんので、どこから来たのか尋ねる術もありません。

 

・村人たちの詮議は続き、結論として、このような出来事を公に訴えると、さまざまに経費もかかり、また無駄な時間もかかるので、かの言い伝えのように、女性を船に乗せ、再び海に流すことに決定いたし、不思議な虚ろ舟は再び沖に流されました。

 

不思議な客

・文化二(1805)年の春のことです。

 本郷信光寺店に古庵長屋という、道に面して片側だけに家の連なるところがあります。私の親類の山本氏もその辺りに住んでいますので、私もよく見知った街並です。

 この片側町に、三河屋という古い質屋があります。この店に、歳頃五十余歳になる下働きの雇い人がいましたが、長い間まじめに勤め上げ、一点の私心もありませんので、主人も重い信頼をおいていました。

 そのころ、この辺り一番で、三河屋のすぐ隣家まで燃えるという大きな火災が起こりましたが、それ以前に、かの雇い人は、

近々、この辺りに火災が起こります」と言っていました。それを聞いて、仲間の人々は嘲笑って聞き流していましたが、その言葉どおり火災が起こりました。さらに、彼は、「ただし火災が起こっても、類焼の難を免れますので、道具類などを持ち出す必要はありません」とも言っていましたが、果たして隣家まで燃えて鎮火しましたので、かの雇い人の言葉が、不思議にも的中したことが評判となりました。

 その噂を耳にした火付盗賊改方の戸川大学は、火付けの疑いもあるとして、雇い人を捕らえて厳しく追及しましたが、もとよりそのような事実はなく、間もなく放免になって、再び三河屋に戻ってきました。

 その雇い人は、堂々店の二階で寝ていましたが、ときどき夜更けに話し声が聞こえるので、主が、「夜遅く、いったい誰と話しているのか」と尋ねたことがありましたが、雇い人は口を固く閉ざして答えませんでした。また、夜中の話し声は、それ以降もしばしば聞こえることもあったので、主は再び厳しく問い詰めますと、雇い人は、ようように重い口を開き、「誰と申されても、所も名前もわかりませんただ山伏のような姿をした人がやってきまして、さまざまな話をしてくれます。その人は、『お前がもっと若ければ、いっしょに伴って諸国を見せて回るのだが、すでに老境に入っているので連れて行けないのが残念だ』と言って、そのかわりに、さまざまな諸国の面白い話をしてくれたりします。この間の火災のことも、実は、その人から聞きました」と答えました。