タチッチュ

・沖縄県山原地方でいう子攫いの怪。

 タチッチュという名前の漢字表記は嶽人としている。

 夕方、山から杖をついて下りてきては子どもを攫っていく。非常に力が強い若者がタチッチュと角力をとっても勝つ者はいないとされている。

 

壺のマジムン

・沖縄県でいう化け物。

 山羊に化けては、通る人を悩ませ、数えきれないほどの人命を奪った。

 

仲西(なかにし)

・沖縄県でいう妖怪。

 晩方に、那覇と泊の間にある塩田潟原(かたばる)の潮渡橋の付近で「仲西ヘーイ」と呼ぶと仲西が出てくるという。

 

ピーシャーヤナムン

・沖縄県でいう山羊の妖怪。山羊の幽霊

 山原地方に棲む山羊の魔物で、幻術で小さい白山羊をたくさん出現させ、夜道を行く人の股の下を潜らせて、驚かせる。股を潜られた人は精気を抜かれて死んでしまうとされている。

 

ヨナタマ

・沖縄県宮古島市下地島でいう人魚。ヨナイタマとも。

 ヨナタマは顔が人間で、体が魚の姿をしており、よくものを言うとされる。

 

鹿児島県(薩南諸島)

アモロウナグ

・鹿児島県奄美大島でいう天女。樹木が鬱蒼と生い茂る渓谷の淵や滝壺の水溜まりで水浴びをする。危害を加えられる話はないが、恐れられるという。

 

醫王島光徳坊(いおうがしまこうとくぼう)

・『天狗経』に記されている四十八天狗の一つ。鹿児島県硫黄島の天狗。

 

磯坊主(いそぼうず)

・鹿児島県吐噶喇列島でいう水怪。

 磯坊主は頭の頂に皿があり、そこに水が入っている。海にも山にも棲んでおり、よく人に祟る。

 

兎の怪

・鹿児島県大島郡大和村でいう人食い兎。猿神退治譚の類。

 ある島で毎晩、餅一組と人間を一人ずつ連れ去られていた。村の人がだいぶ連れ去られていたある日、勇気ある二人が餅を叺(かます)(藁筵(わらむしろ)を二つ折りにして作った袋)に担いで持っていったところ、白い兎がたくさん現れ、口々に何か唱えながらしきりに東に向かって頭を下げて拝んでいた。その様子から、兎が坊さんになって村に来ては人間と餅を食べていたことが判明した。犯人の正体を知った二人は婆さんが飼っている大犬を借りてきて、餅を食べていた兎を一匹ずつ食い殺させた。以来、村の人を盗られることはなくなった。

 

海鹿(うみしか)

・鹿児島県屋久島の海に現れる怪物。

 首は馬に似ている大きく黒いもの。鹿が走るような速さで泳ぎ、人を食べるとされる。

 

ガラッパ

・鹿児島県種子島や吐噶喇列島、奄美大島などでいう水怪。

 ガラッパは石に投げつけても死なないが、木の根に投げつけると死ぬとされる。ガラッパと相撲を取りはじめる際、ガラッパは「俺の皿にかもうな」、人間は「俺の尻にかもうな」と言ってから相撲を始める。溺れた人間の肛門が引っ込んでいるのは、ガラッパとの相撲に負け、ガラッパに尻を抜かれたためだという。

 

・タギリ川へある人が草刈りに行った。「相撲取ろうから、来い、来い」とガラッパに言うと、ガラッパが来て相撲を取った。ガラッパは何度も投げつけたが、続々とかかってきてついにはガラッパにその人は負けてしまった。その後、その人は精神に異常をきたしてしまい、ガラッパを斬るために常に刀を差して歩くようになったという

 

ガワッパ

・鹿児島県屋久島でいう子ども姿の水怪

 小坊主に化けて、大瀬という場所へ誘う。人が溺れて死ぬのは、ガワッパに尻子玉を抜かれるためであるという。

 

鬼界ヶ島伽藍坊(きかいがしまがらんぼう)

・『天狗経』に記されている四十八天狗の一つ。鹿児島県種子島や吐噶喇(とから)列島の天狗。

 

ケンムン

・鹿児島県奄美大島や徳之島でいう怪物。

 

・ガジュマルやアコウの木を棲み処とする点や、ケンムンマチといって火を灯す点などから沖縄県のキジムナーの類として受け取られたり、相撲を取ることを好む点、頭に力水もしくは油を溜めておく皿がある点などから河童の類とも解釈されたりするが、他の妖怪との共通点を見ていくのであれば、十島村のガラッパや熊本県のヤマワロ、宮崎県のヒュース坊に四国の芝天はもちろんのこと、天狗や狐に鎌鼬(かまいたち)、中国大陸のトッケビやマレーシアに伝わる木株の精と共通するところもある。そのため、一概に具体的な怪異妖怪の仲間とは呼べず、ガジュマルやアコウの木を棲み処とする小柄な人型の怪物、あるいは陸上で遭遇する妖怪変化の総称としてケンムンという名前は用いられている印象を受ける。

 

・下野敏見氏によれば、奄美群島全域のケンムン話を採集したらおそらく何万語にも達するだろうと見られている。それだけケンムン話は多く、枚挙にいとまがない。

 

・ケンムンの姿であるが、人型の場合、2歳から8歳くらいの子どものようだと形容される。

 

・河童が大陸から日本に渡ってきた、大工が術をかけた藁人形が河童になった、入水した平家が河童となった、といった起源譚があるように、ケンムンにもいくつか起源譚が伝えられている

 ジャワ島がケンムンの原産地であり、1億6000万年の間に奄美までやって来た。大工の神であるテンゴの神が呪いをかけた藁人形がケンムンになった。継母にいじめられていた兄弟が太陽神テダクモガナシによってケンモンとウバに変えられた。美しい妻を奪うためにユネザワを殺したネブザワという男が神によって半人半獣のケンモンに変えられたといった話がある。

 

ブナガヤー

・鹿児島県奄美大島でいう小さい人型の妖怪

 赤毛であり、大きさは7、80センチほどだという。チョコチョコと走り、わずかの間走って歩く。川の波打ち際で漁をするとされる。

 

目一つ五郎

・鹿児島県熊毛郡南種子町でいう一つ目の人食い鬼。

 

九州・沖縄広域

九千坊(くせんぼう)

・中国の黄河に棲でいた河童一族の親分。

 大昔、黄河を下り、黄梅若という怪物の襲撃から逃れ、海を泳いで渡って九州の八代の浜(熊本県八代市)に辿り着き、九州一の大河である球磨川に棲みついた。河童一族の9000匹という数は、黄河にいた頃からとも、球磨川に棲みついてから増えたともいわれている

 ある時、いたずらをした河童が村人に捕らえられ、「この大石が水の流れですり減って消えるまではいたずらはしない」と誓い、そして年に一度、祭りをしてもらいたいと請うた。その祭りは、河童が捕らえられ祭りを願った5月18日と定め、「オレオレデーライタ川祭」と名づけて毎年開催されることになった。

 

英彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう)

・福岡県と大分県の県境にある英彦山の高住神社に祀られている九州の天狗の首領。英彦山は修験霊場として全国的に名高い場所である。英彦山豊前坊は日本八大天狗の一つであるほか、『天狗経』の四十八天狗にもその名が記されており、全国的に有名な天狗の代表として頻出する。

 

その他(物語・絵画など)

アマビエ

・京都大学附属図書館に所蔵されている瓦版に書かれているもの。

 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが出るため、役人が見に行くと、口は尖り、体には鱗がある、長髪の三足獣が現れた。「私は海中に住むアマビエと申す者である。当年より六ヶ年の間は諸国豊作であるが、それに伴い、病も流行る。早々に私を写して人々に見せるように」と言って、海中へと潜った。

 

尼彦(あまびこ)

・肥後国(熊本県)に尼彦が現れたと書いた資料がいくつか見受けられる。熊本御領分真字郡や青沼郡磯野浜に猿のような声で人を呼ぶ光る怪物が現れた。柴田という者が見届けに行くと猿に似た三足獣がおり、「我は海中に住む尼彦と申す者である。当年より六ヶ年は豊作であるが、諸国に病が流行り、人間が六分通り死ぬ。だが、我の姿を書き写したものを見れば、病を免れる。この事を人々に知らせよ」と告げて消え去ったとされる。

 

尼彦入道(あまびこにゅうどう)

・日向国(宮崎県)イリイ浜(架空の地名)沖に現れたとされる。熊本士族の柴田右太郎に「六年は豊作の年となるが、悪病が流行る」と告げ、入道の姿を朝夕見れば、難を逃れられると伝える。

 

アリエ

・明治9年(1876)6月17日付『山梨日日新聞』、6月30日付『長野新聞』に記されているもの。

 肥後国(熊本県)青鳥郡(架空の地名)に現れたとされる。夜な夜な海中から現れては往来を歩き回る怪物がいた。気味が悪く、誰も寄り付かなかったが、旧熊本藩士がこの怪物に近づいたところ、怪物は語りはじめた。自分はアリエといって、海中鱗獣の首領である。6年の間は豊作だがコロリ(赤痢)が流行し、世の人の六分通りが死ぬ。自分の姿を描き、朝夕拝むことで死を免れると告げたという。

 噂は広まり、肥後では各家にアリエを描いた紙が貼られている。

 

海人(かいにん)

・形は人の体と違わないが、手足に水かきがあり、全身に肉皮が垂れ、まるで袴を着ているように見える。陸地に上がっても数日の間は死なず生きている。

 

重富一眼坊(しげとみいちがんぼう)

狐が化けたもの。高くそびえる鼻、耳元まで裂けた鰐口、曇りのない鏡のように光り輝く一眼をした、見上げるような大山伏の姿をしている。

 

三つ眼の旧猿坊(みつめまなこのきゅうえんぼう)

・狐が化けたもの。三つ眼の化け物。猿1000年を経て狒々(ひひ)となり、狒々万年を経て猴阿弥(こうあみ)となる、三つ眼の旧猿坊は近頃立身出世して、この猴阿弥となったのだと自称する

 

 


『中国の鬼神』

著 實吉達郎 、画 不二本蒼生  新紀元社 2005/10

 

 

 

<玃猿(かくえん)>

人間に子を生ませる妖猿

・その中で玃猿(かくえん)は、人を、ことに女性をかどわかして行っては犯す、淫なるものとされている。『抱朴子』の著者・葛洪は、み猴が八百年生きると猨(えん)になり、猨が五百年生きると玃(かく)となる、と述べている。人が化して玃(かく)になることもあるというから、普通の山猿が年取って化けただけの妖猿(ばけざる)よりも位格が高いわけである。

 古くは漢の焦延寿の愛妾を盗んでいった玃猿の話がある。洪邁の『夷堅志』には、邵武の谷川の渡しで人間の男に変じて、人を背負って渡す玃猿というのが語られる。

 玃猿が非常に特徴的なのは、人間の女をさらう目的が「子を生ませる」ことにあるらしいこと、生めば母子もろともその家まで返してくれることである。その人、“サルのハーフ”はたいてい楊(よう)という姓になる。今、蜀の西南地方に楊という人が多いのは、みな玃猿の子孫だからである、と『捜神記』に書かれている。もし、さらわれて玃猿の女房にされてしまっても、子供を生まないと人間世界へ返してはもらえない。玃猿は人間世界に自分たちの子孫を残すことを望んでいるらしい。

 

<蜃(しん)>

<蜃気楼を起こす元凶>

・町や城の一つや二つは、雑作なくその腹の中へ入ってしまう超大物怪物だそうである。一説に蛤のでかい奴だともいい、龍ともカメともつかない怪物であるともいう。

 日本では魚津の蜃気楼が有名だが、中国では山にあらわれる蜃気楼を山市。海上にあらわれる蜃気楼を海市と称する。日本の近江八景のように、中国にも淄邑(しゆう)八景というのがある。その中に煥山(かんざん)山市というのがあると蒲松齢(ほしょうれい)はいっている。

 その煥山では何年かに一回、塔が見え、数十の宮殿があらわれる。6~7里も連なる城と町がありありと見えるのだそうである。ほかに鬼市(きし)(亡者の町)というのが見えることもあると蒲松齢が恐いことを言っている。

 『後西遊記』には、三蔵法師に相当する大顛法師半偈(たいてんほうしはんげ)の一行が旅の途中、城楼あり宝閣ありのたいへんにぎやかな市街にさしかかる。ところが、それが蜃気楼で、気がついてみると一行は蜃の腹の中にいた、という奇想天外な条がある。それによれば、途方もなく大きな蜃が時々、気を吐く。それが蜃気楼となる。その時あらわれる城や町は、以前、蜃が気を吐いては吸い込んでしまった城や町の幻影だ、というのである。

 

夜叉(やしゃ) 自然の精霊といわれるインド三大鬼神の一つ

・元来インドの鬼神でヤクシャ、ヤッカ、女性ならヤクシニーといい、薬叉とも書かれる。アスラ(阿修羅)、ラークシャサ(羅刹)と並んで、インドの三大鬼神といってもよい。夜叉はその三大鬼神の中でも最も起源が古く、もとはインドの原始時代の“自然の精霊”といっていい存在だった。それがアーリヤ民族がインドに入って来てから、悪鬼とされるようになった。さらに後世、大乗仏教が興ってから、夜叉には善夜叉(法行夜叉)、悪夜叉(非法行夜叉)の二種があるとされるようになった。

 大乗教徒はブッダを奉ずるだけでなく、夜叉や羅刹からシヴァ大神にいたるまでなんでもかんでも引っぱり込んで護法神にしたからである。ブッダにしたがい、護法の役を務める夜叉族は法行夜叉。いぜんとして敵対する者は非法行夜叉というわけである。

 

・夜叉は一般に羅刹と同じく、自在に空を飛ぶことが出来る。これを飛天夜叉といって、それが女夜叉ヤクシニーであると、あっちこっちで男と交わり、食い殺したり、疫病を流行らせたりするので、天の神々がそれらを捕えて処罰するらしい。

 

・安成三郎はその著『怪力乱神』の中に、善夜叉だがまあ平凡な男と思われる者と結婚した娘という奇話を書いている。汝州の農民王氏の娘が夜叉にさらわれてゆくのだが、彼女を引っかかえて空中を飛ぶ時は、「炎の赤髪、藍色の肌、耳は突き立ち、牙を咬み出している」のだが、地上に下り、王氏の娘の前にいる時は人間の男になる。

 

・人の姿をして町の中を歩いていることもあるが、人にはその夜叉の姿は見えないのだという。

 

・王氏の娘は、約束通り2年後に、汝州の生家に帰された。庭にボヤーッと突っ立っていたそうだ。この種の奇談には、きっと娘がその異形の者の子を宿したかどうか、生家へ帰ってから別の男に再嫁したかどうかが語られるのが普通だが、安成三郎はそこまで語っておられぬ。『封神演義』に姿を見せる怪物、一気仙馬元は夜叉か羅刹だと考えられる。

 

・『聊斎志異』には「夜叉国」なる一篇がある。夜叉の国へ、広州の除という男が漂着すると、そこに住む夜叉たちは怪貌醜悪だが、骨や玉の首輪をしている。野獣の肉を裂いて生で食うことしか知らず、徐がその肉を煮て、料理して食べることを教えると大喜びするという、野蛮だが正直善良な種族のように描写される。玉の首環を夜叉らが分けてくれ、夜叉の仲間として扱い、その頭目の夜叉にも引きあわせる。徐はその地で一頭の牝夜叉を娶って二人の子を生ませるというふうに、こういう話でも決して怪奇な異郷冒険談にならないところが中国である。

 夜叉女房と二人の子を連れて故郷へ帰ると、二人の子は何しろ夜叉の血を引いているのだから、強いのなんの、まもなく起こった戦で功名を立て、軍人として出世する。その時は除夫人である牝夜叉も一緒に従軍したそうだから、敵味方とも、さぞ驚動したことだろう。その子たちは、父の除に似て生まれたと見えて、人間らしい姿形をしていたようである。

 

羅刹(らせつ)  獣の牙、鷹の爪を持つ地獄の鬼

・インドの鬼神、ラークシャサ。女性ならラークシャシー。夜叉、阿修羅と並んで、インド原産の三大鬼神とされる。阿修羅は主として神々に敵対し、羅刹は主に人類に敵対する。みな漢字の名前で通用することでも明らかなように、中、韓、日各国にも仏教とともに流入し、それぞれの国にある伝説、物語の中に根づいている。

 日本でも、「人間とは思えない」ような凶行非行を働く時、「この世ながらの夜叉羅刹……」と形容する。悪いことをすると死後地獄へゆくとされ、そこにたくさんの鬼がいて亡者をさんざん懲らしめるというが、その“地獄の鬼”こそ阿旁房羅刹と呼ばれる羅刹なのだ。

『焔魔天曼荼羅によると十八将官、八万獄卒とあって、八万人の鬼卒を十八人の将校が率いていて、盛んにその恐るべき業務を行なっているという。日本、中国の地獄に牛鬼、馬鬼と呼ばれる鬼たちがいると伝えられるもの、みな羅刹なのだ。

 中国の『文献通考』によれば、羅刹鬼は「醜陋で、朱い髪、黒い顔、獣の牙、鷹の爪」を持っているという。『聊斎志異』には「羅刹海市」という一篇があり、どこかの海上に羅刹の国があることになっている。そこでは、われわれのいう“醜い”ということが“美しい”に相当し、“臭い”ということが、“いい匂い”に相当する。

 中国人を見ると逆に「妖物だ」といって逃げる。そこには都もあり、王もいるのだが、身分が高いほど醜悪であった。国は中国から東へ二万六千里離れている。神々や鮫人(こうじん)たちと交易していて、金帛異宝の類を取り引きしていた。

 この「羅刹海市」では他国から来た者を、即座に取って食うようなことはしないようであるが、中国の内外に来ている(?)羅刹はもちろん人さえ見れば取って食らう。『聶小倩』という小説によると、羅刹は長寿だが、やはり死ぬこともあり、骨を残すこともあるらしい。ところがその骨の一片だけでも、そばにおいていると心肝が切り取られ死んでしまう。また、羅刹も夜叉もそうだが、男性は醜怪だが女性は妖艶な美女と決まっていて、その美色を用いて人間の男を誘惑し、交わり、そのあとで殺して食う。

  

張果老(ちょうかろう)  何百歳なのかわからなかったという老神仙

・その頃の老翁たちで張果老を知っている者は、「彼はいったいいくつじゃろう、わしらの祖父の頃から変わらないのじゃ」と噂していたという。色々な仙術を使うばかりか、奇仙中の奇跡であった。帝王たちに尊信され招かれると、うるさがって死ぬくせがあった。唐の太宗も、その次の高宗も、召し出そうとしたが死んだ。恒州の中条山に隠れたっきり、下りて来なかったこともあった。

 則天武后は特に執拗で、「どうあっても来い」と強制した。張果老はいやいやながら山から連れ出されたが、妬女廟のところまで来かかると死んだ。真夏の最中なので、遺骸はすぐに腐敗して蛆が発生した。則天武后もそれを聞いてやっとその死を信じた。

 ところがほどもなく、恒州で張果老が生きている姿を何人も見た人があった。唐の玄宗則天武后よりあとで帝位についた天子で、張果老が生きていることを知ると裴唔(はいご)という侍従を遣わし、「何がなんでも召し連れて来い」と命じた。裴唔が張果老に会うと、また悪いくせを出して死んでしまった。ざっとそんな具合であった。

 列仙伝などで仙人たちを紹介する文章には、必ず生地も、来歴も、字や称号も書いてあるのだが、この奇仙は張果と名乗り、何百年生きているのか分からないので、張果老と敬称がついているだけである。

 

・彼が汾州や晉州あたりまで出遊する時、乗っていくロバも、彼が奇仙であることの証明であった。それは“紙製のロバ”であった。見たところ、普通の白いロバなのだが、一日に数千里も踏破して疲れを知らない。目的地へ着くと、張果老はそのロバを折り畳んで、手箱の中へしまっておく。再び乗る必要が生じた時は、出して地面に広げて、口に含んだ水を吹きかけるとムクムクと立体化して白いロバになるので、またがって出発する。これなら、飲ませる水も食わせる飼葉も、つないでおく杭もいらないし、盗まれる恐れもないわけだ。

 玄宗皇帝の使者・裴唔が会った時、張果老はコロリと倒れて絶命してしまったのであるが、裴唔はこの老仙人がチョイチョイ死ぬくせがあることをわきまえていて、慌てず騒がなかった。死体に向かって恭しく香をたいて、お召しの旨を伝えた。すると張果老はヒョッコリ起き上がって礼を返した。人を馬鹿にした老爺。

 

張果老はやっと重い腰を上げ、今度は死にもしないで上京する。まったく厄介な老爺。

 玄宗張果老を宮中にとどめて厚遇を極めた。そうなると張果老は不愛想ではなく、よぼよぼ老人から忽ち黒髪皓歯の美男子に若返って見せたり、一斗入りの酒がめを人間に化けさせて皇帝の酒の相手をさせたり、けっこうご機嫌を取り結ぶようなこともするから、おもしろい。

 この宮中生活の間に張果老は、皇帝や曹皇后に大きな建物を移動させたり、花の咲いている木に息を吹きかけて、一瞬のうちに実をみのらせた、という話がある。

 

玄宗はますます張果老を尊び、通玄先生という号を授けたり、集賢殿にその肖像画を掲げたりした。それでいて張果老は自分の来歴、素姓は決して語らない。どんなもの知りの老臣に聞いてもわからない。ここに葉法善(しょうほうぜん)という道士があった。

 皇帝に向かって密かに申し上げるには、「拙道は彼が何者であるかを存じております。しかし、それを口外いたしますと即刻死なねばなりませぬ。その時、陛下が御自ら免冠跣足(めんかんせんそく)し給い、張果老に詫びて、拙道を生き返らせて下さいますのなら申し上げましょう」

 一言いうのに命がけである。むろん玄宗は「詫びてやる、生き返らせてつかわすから申せ」と迫った。葉法善は姿勢を正して、「しからば申し上げます。張果老はもとこれ人倫にあらせず、混沌初めて別れて天地成るの日、生まれ出でたる白蝙蝠の精……」といいかけて、バッタリ、床に倒れて息が絶えてしまった。

 

玄宗は、慌てて張果老に与えてある部屋に行き、免冠跣足、つまり王冠を脱ぎ、跣足(はだし)になって罪人の形を取り、「生き返らせてくれ」といった。

「かの葉法善という小僧は口が軽すぎます。こらしめてやりませぬと天地の機密を破るでしょう」と張果老は頑固爺さんを決め込んでいる。玄宗は繰り返して、「あれは朕が強制して、むりやりしゃべらせたのだから、今度だけは許してやってくれ。頼む」と懇請した。

 仙人たりとも、天子に「頼む」とまでいわれては、拒むことが出来ない。張果老は、“紙ロバ”にするように口に含んだ水を吹きかけて、葉法善を生き返らせてやった。

 

・この道士が、何ゆえ張果老の本相を知っていたのかは、仙人伝でも語られない。張果老を加えて八人の仙人を「八仙」といい、それらの活躍する物語『東遊記』では、いたずら小僧仙人の藍采和(らんさいわ)が、張果老のことを「あの蝙蝠爺さん」と呼んでいる部分がある。八仙のうちで藍采和一人だけが少年で、何仙姑(かせんこ)だけが女性である。藍采和が張果老の“紙ロバ”を失敬して乗りまわし、戻って来ると、八仙の中の名物男・鉄拐仙人(てっかいせんにん)がふざけて何仙姑を口説いている。藍采和が「逢引きですか、いけませんねえ」とからかうと、「何をいうか、この小僧」と鉄拐仙人がロバを奪い取って自分が乗る。三人は顔を見合わせて大笑いをした、という一説もある。

 

張果老は、玄宗皇帝の宮廷にそう長いこと滞在していたわけではない。やがてふり切るようにして宮廷を去り、恒州の仙居に帰っていった。その後、今度という今度は本当に死んで人界から姿を消した、というのであるが、何しろ奇人の怪仙。本当に死んだのかどうか、誰も保証は出来ない。

 張果老は八仙の中でも長老格で、『東遊記』では泰山を動かして海へ放り込み、龍王たちを困らせるという大法力を示している。呂洞賓(りょとうひん)が「これから八仙がみなで海を渡ろうではないか」といった時も、老人らしくそれを制している。龍王が水軍を興して攻めて来た時も、ほかの七仙は油断して寝ていたのに、張果老だけは耳ざとい。先に目を覚ましてみなを呼び起こすといった調子で、一味違った活躍ぶりである。

 

太上老君(たいじょうろうくん) 仙風法力におよぶものがいない天上界の元老

民間信仰では仙人の中の第一人者。天界では三十三天の最上階、離恨天の兜率宮に住み、出仕する時は玉皇上帝の右に座している。地上では各地の道観の中心に祀られている主神格。

 

西王母(せいおうぼ) 天上界の瑤地仙府に住む女仙の祖

・瑤地金母、龍堂金母、王母娘娘、金星元君などと呼ばれ、天界へ来るほどのものは、玉帝の次には西王母に拝謁することになっている。『封神演義』によると西王母に、普通お目にかかることが出来る男性は、南極仙翁だけだという。

 だが、それは道教世界の完成された西王母であって、史前の古伝承時代には、西王母は美女どころか、仙女どころか、怪獣といってもよい姿に描かれていた。髪の毛は伸び放題に振り乱し、玉の勝という髪飾りをつけ、恐ろしい声で吠え、豹の尾、虎の牙、玉山の岩窟に住み、三本足の怪鳥にかしづかれている。正確には男女の区別もつかない。

 

<神農 仁愛の心に富んだ名君、炎帝と呼ばれた太陽神>

・女媧の次にあらわれた大神。南方の天帝と呼ばれ、中国の中央から南方へ一万二千里の区域を治めた。その時、神農炎帝の玄孫にあたる火神・祝融が共同統治者であったとも伝わっている。

 

盤古 原初の巨怪>

天地万物の発生源。それより前には何もない最古の神ともいえる。創世紀におけるただ一人の中心人物といってもいいが、“創業者”ではない。

 中国でも、「原初の状態は混沌として卵のごとく、天が地を包むこと、ちょうど卵黄が卵白の中にあるような状態であった」と語り出す。これは、日本神話でもインド神話でも同じである。そのうちに日本では神々が生まれ、インドでは、自存神が生まれたと説くのだが、中国の“世界のはじまり”では、盤古が生まれて一万八千年が経過する。それは巨大で、裸体で、額から扁平な角のようなものを二本生やしていた。盤古が意識というものを得て、行動しはじめた頃、天と地は分かれた。澄んで軽いものは上へ上へと昇って天となり、重い濁ったものは下へ下へと下って行って地となった。

 

哪吒(なた)太子    痛快で暴れん坊の少年英雄神

・『西遊記』でおおいに孫行者と渡りあい、『封神演義』でも大活躍する。『南遊記』でも虚々実々の乱闘を華光を相手に繰り広げる。今でも中国の三大スターの一人、孫悟空、二郎真君と並んで、漫画、劇画、テレビドラマ、映画などで暴れまわっている。

 台湾の国際空港には哪吒太子の見事な彫刻が飾られている。日本ではナタ、ナタク、トンツ太子、中国ではナーザ、ノージャ、ナージャと発音し、『無敵神童李哪吒』という連続テレビドラマもあった。

 

・それでは哪吒は天界にいるにせよ地上に住むにせよ“純血種の中国人”か?というと、そうでもないらしい。父の李天王は毘沙門天夜叉神なのだから、「哪吒はインドの神々の一人の名」という説も立派にある。

 哪吒は大羅仙の化身、風雲の神ではなく、ナータというインドの少年神か? マンジュナータだったら文殊菩薩、アチャラナータならば不動明王だ。哪吒は“六神仏哪吒不動尊の像が祀られていたと書いてある。

 

二階堂善弘は、毘沙門天(インドではクベーラ神)には息子がいて、それがナラクーバラという名であった。これが中国では哪吒倶伐羅と書かれる。すなわち、哪吒のことだと述べている。