(2023/10/22)

 

 

『最初の神 アメノミナカヌシ』

海人族・天武の北極星信仰とは

戸矢学  河出書房新社    2023/8/11

 

 

 

「祭り」のない神

・本居宣長は『古事記伝』冒頭部分で、まずは天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)について考証しているが、そうしなければ『古事記』そのものの解読が始まらないのだから当然のこととはいうものの、その筆致はけっして円滑なものではない。基礎的な文字解読のみで通り過ぎている。

 折口信夫は「天御中主神(アメノミナカヌシ)の意義だけはわからない」と言っている。折口の日本神話論は二番手のムスビ二神から解き起こすものであって、一番手のアメノミナカヌシについての考証は放棄している。

 

 このように本居と折口の二人の泰斗をして、その考証を放棄させざるを得なかったアメノミナカヌシに、果たして考証の手掛かりはあるのか。私は、ある、とだけここでは述べておこう。その糸口こそは答えそのものであって、本書はそれを繙くことが目的である

 神社神道においては、神話や伝承に基づいて祭祀(まつり)がおこなわれる。ということは、アメノミナカヌシの祭祀はないはずなのだが…………。

 

北極星信仰の実相………海に生きる者に唯一の指針

北極星(北辰)の顕現

神話というものは、最初に出現する神によって、その性格が決定される。『古事記』では第一番に登場する神は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)である。その前にはいかなる神も存在しない

名実共に初発の神であって、つまりはこの神こそが古事記神話の性格を決定付けていることになる。そしてその名は、「天の真ん中にいる神」という意味であるから、誰もが唯一の不動の星、北極星を連想するだろうし、その後、太陽(アマテラス)と月(ツクヨミ)に至るところから、古事記神話は「天文神話」であるという解釈もできるだろう。

 ところがこれが『日本書紀』ではまったく異なる。書紀本文にはこの神は登場せずに、注の一書に天之中主尊(アメノミナカヌシノミコト)として異端の説であるかのように申し訳程度に紹介されているにすぎないのだ。本文ではあくまでも日本の国土は自然の造山活動として発生したかのように述べられていて、こちらはさしずめ「自然科学神話」であるかのようだ

 つまりわが国の二大史書は、アメノミナカヌシの扱いがまったく異なり、その故もあってこの二書は思想的にもまったく異なるものとなっている。

 

・記紀の相互の異質性についてはこれまでにあらゆる側面から広く考証されており、私も至る所で述べている。様々な差異があるなかでも、その基本中の基本であって、第一であり、かつ本質的であるのは、『古事記』はヤマト言葉で記述されており、『日本書紀』は漢文で記述されているという点であろう。早い話が、和語と漢語である。『古事記』は和語で記述されており、『日本書紀』は漢語で記述されている。

 

・その『古事記』が、アメノミナカヌシ神を第一番、初発の神としていることに江戸時代の国学者たちは着目した。ここから、初めて日本神話についての本格的な考証がおこなわれるようになった。むろんその対象は『古事記』と『日本書紀』との神話比較である。

 その結果、多様な比較検証によって、差異の様相はほぼ明らかになっていると言って良いが、それでも実はその大本のアメノミナカヌシ神の解析は放置されたままである。本書の序においても述べたように、学術誌に発表された論文は散見するが、固有の研究書は皆無に等しい。なにしろこの神には伝承される事績も神話もまったくないのだ。これでは信仰や祭りが発生するはずもない

 

ところが、アメノミナカヌシを祭神とする神社は全国に約1500社ある。神社本庁に登録されている現存数だけでこの鎮座数であるということは、明治初頭のいわゆる神社合祀令によって廃絶した神社も相当数に上るだろう。

 参考までに著名な神を主祭神としている神社の全国総数をいくつか挙げておこう

▼アマテラス……………約12000社 

▼スサノヲ………………約9300社

▼ツクヨミ………………約600社

▼オオクニヌシ…………約8200社

▼イザナギ………………約4500社

▼イザナミ………………約6000社

▼タケミナカタ…………約5200社

▼ヤマトタケル…………約1600社

▼ニギハヤヒ……………約180社

▼サルタヒコ……………約2400社

▼アメノウズメ…………約400社

▼コノハナサクヤヒメ…約2000社

▼ヤマサチヒコ…………約640社

▼ウミサチヒコ…………約90社

 

 これらとの比較においても、アメノミナカヌシ神社は決して少ない数ではない。なお、日本全国の市区町村数(2020年末現在)は1741であるから、各市町村1ヶ所あたりに1件弱にも上るだけで、これだけであたかもアメノミナカヌシ信仰というものが日本全国に根付いているかのように思われる。通常はこれだけの数の神社があるということは、かなり古くから信仰されていて、永い歴史があればこそ、そこまで広く勧請分祀がおこなわれたのだと考えるのが理屈というものだ。

 

・しかし実は、この中に古社はほとんど含まれていない。ほぼすべてが中世以降のもので、妙見神社系はその名が示すように神仏習合以降のもの。また水天宮のように明治になってから祭神を変更したもの、合祀、配祀したものも少なくない。

 さらに神話も事情もまったく存在しないところから、この神を祖神とする氏族もなく、氏族が存在しなければ、当然ながら氏神神社や産土神社にもなりようがない。

 したがって古来特定の信仰対象とならなかったのだが、幕末に平田篤胤が独自の教学を作り上げたところから突然広まることになる。

 なお、仏教の妙見信仰や、道教・陰陽道の鎮宅霊符神信仰は平安時代中頃にはすでにあったと考えられるが、明治初年のいわゆる神仏判然令の公布にともなって廃棄されるのを防ぐために、祭神をアメノミナカヌシ神とする神社へと改変したところも相当数に上る

 

 さて、突然わが国に、アメノミナカヌシとなって顕現した北極星信仰は、いったいどこから来たのだろうか、そもそも、アメノミナカヌシ(天之御中主神、天御中主尊)という神名そのものにはどのような意味や由縁由来があるのだろうか。

 

神名の原理

・おおよそ神の名は由来に基づくのが基本原理になっている。由来とはその神の因って来たる事跡であったり、発生の地理であったり等々で、いずれにしてもその神の属性としてきわめて具体的なものである。これを「神話」という。したがって神名を解析すれば、その神の基本的な由来が判明することにもなるので、神名は神そのものの解析の最大の手掛かりとも言えるだろう。私がこれまで上梓した書籍においても、表題に神名を掲げているものは、例外なくその神名を解析することが論証の核心的手法となっている。

 

・そしてアメノミナカヌシについて、神話も実績もないと、これまで述べてきたが誰にでも一目瞭然、神名だけは厳然と存在している。これが最大の手掛かりであるのなら、この一点にすべてが集約されているということになる。つまり解き明かすための突破口は唯一「神名」に尽きるということである

 

本居宣長の神名解釈

・本居宣長は、最大にしてほぼ唯一の手掛かりである神名について著作『古事記伝』(1798年脱稿)において一文字ずつ精密克明な文献学的考証をおこなっている。

 

ヤマト言葉の由来

・ところでヤマト言葉の言語的な位置について少し触れておこう。日本語=ヤマト言葉の起源は、実はいまだによくわかっていない。これまで多くの研究者が様々な説を唱えてきたが、いずれも定説となるに至っていないのが現状だ。しかし近隣言語に対する位置関係ははっきりしている。

 漢語からは漢字と漢熟語を数多く輸入移入したが、文法や発音はまったく異なるため、漢語は完全に別の言語である。

 韓国語(いわゆる朝鮮語)は新羅語の流れであるが、これも全く似ていない。

 

・ちなみに、新羅系の言語(現・韓国語)は言語学的には「閉音節」であって、発音の末尾が子音で終わる。これに対して百済語やヤマト語は「開音節」であって、言語構造の相違は、民族血統の相違に直結するものである。

 『新撰姓氏録』によれば、平安時代初期の畿内全域に居住する主要氏族と畿外有力氏族の統計では、全氏族1182氏のうち、諸蕃(しょばん)(渡来氏族)は漢が最も多く163氏で、次いで百済が104氏、以下高麗41氏、新羅9氏、加羅9氏であった。この比率で各自判断されたい。

 公文書を始めとする文書は漢文を採用したが、訓読(口語の発音)は独自の読み下しを方式を開発し、日常用語ともども口語はすべてヤマト言葉であって、他国語を用いることはなく、当然ながら諸蕃の人々が用いていた言語が日本に定着することはなく、むしろ彼らもヤマト言葉を習得することで名実ともに帰化することとなった。

 

 ・日本語の由来を論じることは、すなわち日本および日本人の成り立ちを論じることである。むろん言語だけで民族を論じることはできないが、そこに最も大きな手がかりがあることは言うまでもない。言語と民族とは不可分の関係にあるのだから。

 

 なお、ヤマト言葉とは、奈良時代以前からある日本固有の言語であって、道教や仏教が渡来する以前の言語と理解して誤りはないだろう。そしてそれ以前には、ヤマト言葉に影響を与えるほど大規模な諸蕃の渡来は考えにくいところから、日本語の血脈は縄文時代から(さらにそれ以前から)連綿と続いていると考えられる。そしてヤマト言葉は、言語学的にも地理的にも孤立した言語である。地球上のあらゆる言語が、いずれかの言語系統に連なっており、さらに大本で関係していると考えられる中で、なぜかヤマト言葉のみはいずれの系統にも連結することなく、ひとり孤独である。これはいったい何を意味しているのだろう。

 

アメノミナカヌシを祭神とする神社

・本居宣長の考証でも明らかなように、アメノミナカヌシという神名は、いよいよもって読んで字の如く「天の真ん中の主である神」との意を単純明快にするばかりのものである。それより他の意味はない。つまりアメノミナカヌシ神は他の神々とは神名の成り立ち、構造がまったく異なるということである。この神名はきわめて即物的で、存在の客観的説明に過ぎない。これは「三つの角を持ち、なおかつそれのみで成り立っている一個の完全図形」を三角形に名付けるに等しい。なんとも即物的な名称である。

 そしてそれがどういうことを意味するかというと、次元の違う命名行為がなされているということである。他の神々の命名が文学や歴史であるとするならば、この命名は数学であり物理である。

 

・神社の成り立ちも、他の神社とは基本的に異なっているのだ。にもかかわらず別掲一覧表のように全国に分布している。

 

神社を創建するのは大変な労力を伴うもので、一朝一夕で成るようなものではない。大勢の人々による総意と協力があって、しかも長年月を要するものである。この作業はよほど篤い信仰心がなければ成就しないことは容易に想像ができるだろう。それでもなおこれだけの質量のアメノミナカヌシ信仰が誕生しているということには、当然ながら重い意味があるはずである。

「全国分布一覧」を見て即座に判然することがいくつかある。

1、    北海道から鹿児島県まですべての都道府県に鎮座していること(沖縄県のみ例外)。

2、    千葉県、高知県が突出していること(岡山県、大分県がそれに準ずる)。

3、    青森県、富山県、石川県は特に少ないこと(沖縄県のみは皆無)。

 

 簡単に説明しておくと、地縁血縁ある神社は特定の地方地域に偏って鎮座しているものであって、たとえば氷川神社は埼玉県のさいたま市に総本社が鎮座し、全国に275社鎮座するが、そのうち大多数の244社は旧・武蔵国である埼玉県と東京駅に鎮座している。これは氷川神社の発祥が武蔵国に深く関わっていることを明確に示している。氷川神社は武蔵国一宮であるから当然といえば当然で、他の一宮においてもほぼ同様の傾向を示しており、大半の神社は地元の市区町村と深い関わりがある。たとえばアマテラス神やスサノヲ神を祭神とする神社は、ほぼ全国に行き亘っていて、それはヤマト朝廷が全国を統治していたことを証すものである。したがって本来、神社が全国的に鎮座することはむしろ異例であって、国家的あるいは政治的意向が反映していると考えられる。つまり、アメノミナカヌシ神も、基本的にはこれと同様であろう

 

・ただ、そのなかにおいても、独自の信仰圏を形成しているものもある。たとえば千葉県は、妙見信仰(北極星信仰)に篤かった千葉氏の領地であった故であろうことは容易に想像が付く。

 また愛知県は、なぜか「星神社」が特別に多い。星神社はアメノミナカヌシを主祭神とする神社の中でも特に多数を占めるものであるが、星神社という名称自体が日本では異質なもので、それがなにゆえ高知県に集中しているのか。地理的にヤマトから隔絶されていることと、黒潮に直面していることから、古来、海人族の定住機会が多かったであろうことが想像される。

 

北極星と道教

シナ道教においては、北極星を始源神ととらえ、鎮宅霊符神、元始天尊、天皇大帝、太一(たいいつ)、太極、また仏教では妙見菩薩、北辰等々と呼ぶ。呼称が多種多様であるのは、その神の能力霊力、また由来や位置付けが信仰者や時代によって多様であるためで、いずれも指しているものは同一のものである。

 

【分類】

▼道教・陰陽道………鎮宅霊符神、元始天尊、天皇大帝、太一(たいいつ)、太極、他

▼仏教………………妙見菩薩・北辰

▼神道………………天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)・天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)

 

 これらの中でもわが国にとってとくに重要なのは、「天皇大帝」であろう。ヤマトに伝来して即時的に原音に近いままに受け入れられて定着した。これは天武天皇によって「天皇」号が誕生したことと軌を一にしている。

 

・なお北辰と北斗が混同される例も見られるが、本来は異なるものである。

北辰……元始天尊、天皇大帝、天帝、太一、太極、紫微大帝……北極星の神格化

北斗……北斗真君・七曜星………………北斗七星の神格化

 

伊勢に定着した「太一」

・北極星の神格化した呼び名の一つに「太一(たいいつ)」がある。『史記』の『天官書』でも、北極星の神格化されたものは北辰であり、太一であると明記されている。太極と同一であるにもかかわらず、あえて別の呼び名を用いているのは、陰陽の一体という点に対してよほど強い拘泥があったのかもしれない。伊勢地方においては「太一」が多用されている。

 

北極星は海洋民族の指針

・先に紹介した「全国分布一覧」はアメノミナカヌシを祭神する神社だけのものであるが、江戸時代は神仏の区別なく鎮宅霊符神は祀られていた。

 

・しかし明治政府によって神仏分離令が発布され、習合形態は一切禁止されたため、神社は主にアメノミナカヌシ神に、また寺院は妙見菩薩に呼び名を変えている。

 

・祭神に関係なく呼び名だけでアメノミナカヌシ神社を分類すると次のようになっている。

▼星宮・星神社………………330社

▼妙見神社………………288社

▼天之御中主神社・天御中主神社………………47社

▼北辰神社………………22社

▼水天宮(アメノミナカヌシ神を祭神とする社)…………19社

▼鎮宅霊符神社・霊符神社………………7社

 

 このようにまことに分かりにくいのが実態で、それでも北極星信仰であることだけは紛れもなく共通している

 

星宮・星神社の系統

・古代日本には、各地に「星」に親しむ人々がいたことはいくつかの痕跡から推定されている。その最大の痕跡は「星神社」であろう。アメノミナカヌシ神信仰としても星神社は最大多数であるが、まず先に星神社があって、後年のいつかにアメノミナカヌシ神が祀られた例も少なくないと思われる。

 

宮中祭祀と北辰・北斗

・日本の陰陽道は、渡米の知恵である道教・風水等に起源することは既に述べた通りであるが、それはさらに神道・神社とも深く融合した。とくに神社という祭祀様式は道教に倣ったものであり、神社建築は仏教伽藍に対抗模倣して考案されたものである。

 しかしもちろん、神道信仰そのものはわが国古来の惟神道(かんながらのみち)に起源する。

 

北極星と四方拝

・天皇が宮中において「国家の繁栄」と「国民の安寧」を祈って日々おこなう祭祀は「宮中祭祀」と呼ばれており、全国の神社神道の頂点に位置する祭祀である。年間通して大小様々な祭祀がおこなわれているが、なかでも毎年1月1日の早朝、つまり1年の1番最初におこなわれるのが「四方拝」という祭祀である。

 

・宗教学上は、北極星を信仰の中心と為したのは道教であり、またその原理を取り込んで日本独自に成立したのが陰陽道である。

 

・しかし陰陽道の理論に従えば、天皇は北斗七星の一つという位置付けになり、つまり北極星に従属する存在であって、北極星の周りを回り続けて、北極星への忠誠を示すという理屈になる。北極星はアメノミナカヌシであり、天地初発の神であるから、『古事記』の理論とは整合する

 

・ちなみに天皇という尊号は、道教の最高神である「天皇大帝」から来ているとすでに述べたが、天皇にとって北極星・北斗七星は古来特別なものである。

 なお、北辰とは「北天の星辰」の意であって、「北極星」と同一であるが、北辰が古く、北極星という呼び方は比較的新しいものだ。したがって道教・陰陽道でも神道でも「北辰」と呼び、「北極星」とは呼ばない。たとえば北辰信仰という呼び方は古くからあるが、北極星信仰とは言わない。

 

四神相応が解き明かす「北に君臨する神」

・ここにようやくアメノミナカヌシ神と、日本人古来の精霊信仰との連結が見えてきた。

 この神が一般の信仰の対象になったのは、江戸時代に入ってから、北極星の神格化である妙見菩薩と習合されるようになってからとされる。さらに平田篤胤が復古神道を標榜するに際してアメノミナカヌシを創造神と位置づけたことも寄与したとされる。

 

北極星が統合した呪術と科学………天武帝が企図した陰陽道国家

始めて占星台を興つ

・天武記四年(西暦675年)1月5日に「始めて占星台を興つ」と『日本書紀』にあると前章で紹介した。そしてこれは文字通り日本史上画期的な記録である。占星台とは古代の天文台のことで、これこそがわが国の呪術と科学を統合した証であり象徴である。この時から国家機能の一つとして公式に天文観測と占星術がおこなわれることとなった。

 以来、占星術は陰陽博士らによって研究と実践が進捗し、『日本書紀』の記録でも、陰陽師が天皇にしばしば天文密奏をおこなったとある。天文に異変があったときに、それを一対一の相対で直接天皇に奏上することを「天文密奏」と称しており、その奏上内容は単に天文学的な異変にとどまらず、異変からさまざまな予兆を読み取り、ある種の結論を導き出して予告した。

 

坂東武者たちの北極星

・161頁の「東京四神相応図」をあらためてご覧いただきたい。江戸の真北に日光はある。ただし図のように、江戸城を中心にすべてが逆時計回りに15度回転している。これは関東の風水四神がそうなっているためで、すべてはこの構造に合わせて設計されている。図のとおり、富士山頂と鹿島神宮をつなぐ直線と、日光白根山と鹿野山とをつなぐ直線の交点に、江戸城は位置している。

 なお日光東照宮は白根山の東側手前であって、江戸の真北に位置している。すなわち、江戸方面から日光東照宮を仰ぎ見ると、陽明門の真上に北極星を望むこととなる。すなわち、日光東照宮を拝礼することは、北極星を拝礼することになるのだ。

 

なお、徳川が転封されて三河武士が居着くはるか以前から、関東は頼朝恩顧の坂東武者たちが覇を競っていた。古来、伊豆・三浦から房総・常陸に至る太平洋岸には海人族が居着き、その流れを汲む氏族は日本一広大な平野において領地を切り取るのが習いとなっていた。その過程において発達したのが馬術であって、相馬野馬追祭りに面影をとどめているように、坂東武者の戦闘は騎馬戦が基本の形態で、戦場においては騎馬武者が主役であり、刀槍よりも馬上からの弓射が最大の武力であった

 そして関東平野という日本一の大平原を、さながら海原を泳ぐかのように夜を徹して疾駆するのを常の習いとする。とすれば何よりも重要になるのは北極星ということになる。なにしろ晴天の夜間でありさえすれば、365日、必ず同じ位置に視認できるのだ。北極星さえ視認できれば、夜間の活動も迷うことはない。

 

・関東平野においては、昼間は富士山が指針であるが、夜間は北極星が無二の指針となる。灯火や松明を掲げて夜間に戦闘をおこなう夜襲は坂東武者の好むところであった。どこまでもひたすら続く原野において、目印となるのは昼は山(富士、浅間、二荒山、筑波山)であるが、日が落ちてよりは北極星および北斗七星のみが頼りである。北辰信仰・妙見信仰はそんな環境で浸透した。星を家紋とした氏族が坂東武者に見受けられるのもそんな所以であってのことだろう。千葉氏の「月星」家紋はその典型で、千葉周作の北辰一刀流・玄武館道場の名と共に今では広く知られている。

 そんな千葉氏の氏神である千葉神社は、アメノミナカヌシ神を祀っている。千葉氏が海人族の裔であることの証左の一つであろう。

 

・関東全域に「星神社」「妙見信仰」を広めたのは千葉氏や三浦氏を始めとする坂東武者たちである。彼らはかつて定住地を求めて未開の関東へ入植してきた海人族の末裔であって、先祖代々「星に親しむ人々」であった。とりわけ北極星および北斗七星は、いわば彼らの氏神であるところから、関東各地にその信仰対象としての社寺を創建したものであろう。江戸時代の関東こそは北極星信仰=アメノミナカヌシ信仰地の中心地であったのはそのような理由もあったのだ。

 

神道の起源

・復古神道が、『古事記』に回帰することであることは当初から平田派の国学者たちによって大いに喧伝されていた。言うところの復古とは、加茂真淵・本居宣長の古学によって成し遂げられたもので、『古事記』を聖典とする本来の純粋な神道に復することである。

 しかしながら当時の神道は、その意味・概念は用いる人によってかなり異なり、学説としてもその概念が定まっているとは言い難い状況にあった。

 たとえば現代においては神道を論ずる際には時代ごとに区分するのが苦肉の策として採用されていて、いわく、古代の神道、中世の神道、近世の神道、近現代の神道、といった区分である。

 

幻の大和心

維新の思想的原動力として「復古神道」ないしは「国学」がこれまでしばしば言及されてきた。国学はすでに賀茂真淵・本居宣長によって評価は定まっており、本居の没後の弟子を称する平田篤胤およびその弟子たちによって継承および復古神道へと進化したとされる。本居宣長も考究を断念したアメノミナカヌシ神の存在に篤胤はあらためて着目し、それが復古神道へ直結したとの説もあるが、この論理整合には疑問が残る。そもそもアメノミナカヌシという存在と、それ以後の神々、とくに神代七代の説き起こしを、その著『霊能真柱』によっておこなったとされているが、本書はそのような趣旨のものではない。

 

・下巻は、上巻の思想とは何の関係もない別の趣旨で貫かれており、アメノミナカヌシを創造神と位置付けているところは、大和心であるどころかむしろ西洋寄りの漢意に近い発想であろう。

 

復古神道の真相

アメノミナカヌシが天武天皇による後付けであろうことはすでに指摘した。もともとの日本神話は、ムスビの二神より発するもので、この二神の象徴するものが弥生と縄文に相当するのか、あるいは陰陽か、他のいかなる二元論を示唆するのかはともかくも、アメノミナカヌシによって止揚されるべき二元として位置付けたのは「天文遁甲に能し」と周知される天武天皇であるだろう。そもそも『古事記』のこの位置に何者かを置くと決めることができる者も、また最終校閲者の資格を有するのも、編纂勅令の当事者である天武帝以外にあり得ないからである。

 古事記神話に第一番目に登場する神を、天之御中主神(アメノミナカヌシ神)と設定したことによって、アメノミナカヌシはここに天地初発の神となり、天地創造の神となった。天之御中主神とは文字通り天の真中を領する神という意味の名で、北天の不動の星である北極星のことであるから、この手続きによって、『古事記』の日本神話は北極星のもとに展開する世界ということになる。

 

真の「復古」とは

・明治八(1875)年4月、神道界の中央機関として神道事務局が設置された。明治十三(1880)年に事務局内に「神殿」を新設し、究極の四神を祀ることとなった。四神とは、造化三神【天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、神産巣日尊(カミムスヒノカミ)と天照大御神(アマテラスオオミカミ)】である。これに対し、出雲大社大宮司の千家尊福が大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)を加えるよう主張したが、伊勢神宮大宮司の田中頼庸がこれを拒否し、大国主大神を天神地祇(八百万の神々)と同列に見做したところから出雲派と伊勢派の全国的対立に発展。全国神道界13万人以上を二分する対立となった。

 

・この問題解決のために翌年、内務省が勅令をもって神道大会議を招集し、神殿の祭神は宮中所斎の神霊と勅裁されることとなった。そして神殿そのものが宮中へ遷され、最終的に宮中三殿を遥拝することで決着した。

 しかしこれによって、神殿にアメノミナカヌシ神も天神地祇とともに祀られることとなり、賢所にはアマテラス神のみが祀られることとなったため、アマテラス神が神道信仰の中心になってしまい、結果的に造化三神は天神地祇に飲み込まれてしまった。明治の日本に、かつて天武天皇が造ろうとしていた日本が、ほんのつかの間出現したが、神道界の紛争を解消するための方策にともなって宮中奥深くに沈潜してしまったのだ。

 

・本書ではこれまで見て来たことから推定されるように、『古事記』のアメノミナカヌシ神の位置付けは、天武天皇の指示によるものであろう。特定の思想を展開するために意図的にそこに置かれたもので、その思想は何か別の方法でその概念や神話を顕すつもりであったのかもしれない。

 

アメノミナカヌシは観念的に創造された神であるから、神話も祭りも存在しないが、もし仮に神殿から解放されて、天武帝の構想がよみがえるなら、まったく異質な新しい神道信仰となって、現代日本を切り拓く思想的支柱か、ある種の原動力になるかもしれない。

 

「擬制の終焉」

・本文でも述べたように、稲作民族にとって何よりも大事なのは、「太陽」である。なにしろ稲作の生育に直結する天の恵みの根元であるのだから。

 対するに、海洋民族にとって何よりも大事なのは「北極星」である。大海原を航行するためには方角を示す確かな指針が必要であるが、満点の星の中で、たった一つだけ不動の星があって、紛れもない指針になるのだから、畏敬するのは自然の成り行きというものであるだろう。

 日本人は太陽と北極星、いずれも「星」を崇めることで、それぞれ民族的アイデンティティを保有してきた。民族や血族そのものではなく、擬制であるが。

 このように稲作民族と海洋民族とでは、古代においては根本的な価値観がまったく異なる。そしてその両者は、別々の経路によって日本列島へ到達した。

 

・山人は山の神を祀り海人は海の神を祀っていたが、平地人のみは人が統治した。これを「スメラミコト」という、「統べる王(みこと)」である。

 スメラミコトは、山の神(高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、海の神(神産巣日神(カミムヒノカミ)を並立統合し、統合の象徴として北極星を掲げた。これをアメノミナカヌシ神(天之御中主神)という。

 記紀の神話篇に事績も神話もない神は、こうして頂点に鎮まった。ヤマトの成立は、擬制の終焉である。

『古事記』は近年、ブーム(はやりもの)のようになっている。にもかかわらず、アメノミナカヌシは無視されているに等しい。

 あの神、この神と、様々な取り上げられ方をしているにもかかわらず、一番最初に登場する神が放置されている。むろんその理由は、本文でも繰り返し述べているように「神話がない」からであって、神話がなければ語ることもできなくて当然なのだが、にもかかわらず、各地の星神社を始めとする「信仰」が生まれている。

 そしてこれには時代の要請ともいうべき理由があるのだと、本文ですでに述べた。