「俀王姓阿每字多利思北孤號阿輩雞彌」の本字を問ふ | 奇妙なクソブログ 第二部 -その誇り高き血統-

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「開皇二十年、俀王姓阿每、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕」(隋書卷八十一列傳第四十六東夷俀國)

 

「開皇二十年、倭王姓阿每、字多利思比孤、號阿輩鷄彌、遣使詣關」(隋書卷八十一列傳第四十六東夷倭國)

 

 

倭王(wa-oh)なりしか、俀王(sai-oh、dai-oh)なりしか。上二個の文節があるも未だ正誤の當を得ず。

 

本邦の舊稱を「jippon」と云ふ。蒙古語古匈語「yapon」、匈語獨語「yapan」、斯拉夫語「ipon」、韓語「ilbon」、粵語「jatbun」「jippun」等ゝ、滿洲語「ziben」、金語「rìběn」等ゝと發音す。韓國にては「b・p」の兩音は相通の音なりて、「ilpon」は斯拉夫語「ipon」と相似たり。「j」の發音滿洲語にては「z」と化し、更に金族に於て「l」「r」と轉訛したり。

然るに古代支那帝國、通說にて本邦を曰く「倭(wa)」とは是如何に。吾輩が以下に二說を出してみよう。

一.先ず、「倭」は『漢委奴國王』の項にて論じたるが如く「委(ゆだねる、まかせる)」を本字とす。然れば「倭王」の正字は「委○國王」にて、「支那皇帝より王を委せらるゝ」義ならん。竄者が「委」の字を「倭」と竄したる假字が「倭」ならんと考ふるのである。

二.次に、『百濟と新羅』の項にて論じたるが如く、クンダラ・कुण्डदला・കുണ്ടളの義を「環状の盤」「環」「螺旋」「卷毛」と云ひ、此の義を支那帝國は「wa(環・輪)」と稱呼したりと察し得る。然れば支那文獻に書しあるwa(環・輪)の假字「倭」が大なる村落を意味したる語なりとせば、「クンダラ・कुण्डदला・കുണ്ടള」畢竟「百濟」を指し示す語ならんとも考ふるのである。

斯くも「倭」「俀」の正字未だに見出さず、之を定むること頗る困難である。

 

 

「阿每」は舊說「あめ・あま(天・女・雨)」と音ずと云ふ說に服すること能はず。

「阿」は「くま」と訓じ、「毎」は「つね」と訓ず。「阿每」の正訓は「くまつね」と云ふ。「毎(つね)」とは「襲(つ)」又は「津(つ)」の假字ならん。

要之、「阿每」は「くまつ」の假字と存じ得る。然るに「くまつ」を「熊襲」「熊津」と書すべき處を隋側は「阿每」なる假字を用ゐたと解し得る。然れば「阿蘇山」は「くまそやま」と訓音して正音たらしむと考ふるのである。

 

 

「多利思」、此は「daruji(たるじ)」と訓す。「多利思」は「阿羅斯・阿利斯」と同義なりて「あるじ(aruji)」と訓じたり。多(da)は阿(a)の假字ならん。「多利思(daruji)」は假字「阿羅斯(aruji)」の更なる假字にて同義なりと解すべし。

 

 

北孤比孤、此を無理からに「phi-ko(ひこ)」と發音すること吾輩は甚だ疑問に思ふのである。抑ゝ「比古・比子・斐子・比孤・彦(ひこ)」なる字義が人名官名ならんと云ふは誤信なりと宮崎道三郞博士・有賀長雄博士・白鳥庫吉博士に據て結論されてゐる。

『「百濟火葦北國造阿利斯登號阿輩雞彌」の本字を問ふ』の項に於て『支那文獻に於て「比」を「北」と假字したり又は竄したる書實に類多し・・・「比」は「なら」と訓じ・・・』と論じたるが如く、比孤は「nara-uri(ならうり)」と訓じて正音とすべし。「比」の訓は「なら(nara、나라)」と云ふ。百濟に「那羅(nara)」と云ふ地名ありて、百濟は本邦の飛地なれば「なら、比、那羅、奈良、nara、나라」此等何れも同音同義なり。「なら(nara、나라)」の義は最大の行政區劃を示す語にて、今日「國」と稱呼する語なり。

「孤」は「瓜(うり、uri)」の假字・同物異字と存じ得る。「うり(uli、우리)」は韓語なりて、其義は「人の集團・我ゝ・我集團」なり。우리の語原は「무리(muli、牟里・群)」なり。무리は「群(むれ、mure)」と邦譯す。mureの主長をmure+aruji「murearuji 群主」、轉訛省略して「muraji 連(邑治・村治)」と云ふ。

要之、「多利思比孤」の本字如何なりしか、之は「あるじならうり」、多(あ)・利(る)・思(じ)・比(なら)・孤(うり)と訓じて本字と爲す。是を「主(あるじ)・國(なら)・我集團(うり)」と漢譯し、「我集團の國の主」、畢竟「murearuji 群主」「muraji 連」と解して少しも怪しむべきにあらず。

 

 

阿輩雞彌阿輩鷄彌、こは「a-pai-ki-mi(あはいきみ)」と發音すべし。

今日韓語にて父の頭文字に아(a)の尊稱を用ゐるが、此語原は古支那文獻の假字「阿(a)」なり。同樣に今日韓語にて母の頭文字に어・엄(o・ō・eo、御)の尊稱を用ゐるが、此は邦語の「opo(おほ)」畢竟「大」なること明白なり。而して아と假字阿(a)は同義、어・엄とopo(おほ)は同義なり。

阿輩 a-paiは「apa(あは)」の假字ならん。本邦大化前代には「大」をopoと云はず「apa(あは)」と言て居たのである。「apa-umi(あはうみ)」之は淡海・大海・大兄・大江・近江と書し、此等皆ゝ淡海國琵琶湖の古稱なり。卽ち大兄皇子・大海人皇子とは淡海王の義なり。

據て隋文獻の假字「阿輩(a-pai)」を邦譯するに「apa」と云ひ、「apa-ki-mi(あはきみ)」と訓じ、apaは後代opoに轉じて「opo-ki-mi(おほきみ、大君)」と發音するに至ると知るべし。

 

 

漢光武帝に國王を委されたりし「奴」の領邑は筑紫ならん。隋楊堅に詣づ關りし「阿每多利思比孤阿輩鷄彌」の領邑は熊襲ならん。

吾輩思ふに、「"奴"と稱されたりし地名人名」「阿每多利思比孤阿輩鷄彌」は共に支那帝國へ遣使したる九州の地名人名ならんと察し得るのである。

 

 

吾輩は隋書卷八十一列傳第四十六東夷倭國此書の義を「隋の開皇二十年(六〇〇年)、 王を委せし者・百濟王の姓はくまつ(熊襲・熊津)、字はあるじならうり(主國我集團・群主・連)、 稱號はおほきみ(大君)、朝貢使詣づ關る」と解し得るのである。

 

 

 

 

 

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