『蓮如上人と光善寺』その245【最終回】 真宗大谷派 淵埋山 出口御坊 光善寺刊(大阪府枚方市)

 

 親鸞聖人の『教行信証』の中には、「機法一体」という言葉はない。それは、覚如・存覚・蓮如の各上人によって教化のために用いられた言葉であった。覚如上人は光明(第十二願)と信心(第十八願)をもって、存覚上人は行(第十七願)と信(第十八願)をもって、それぞれの「機法の一体」を示されている。いずれも「機」と「法」の分限・分際を明らかにした上での一体が教えられる。
 他にもさまざまな説がある。時代の流れとともに、とかく全般的に安易な受け止めが醸成されてきたことも否めないように思われる。我ら聞法者のすべてが、「伝統教学」・「近代教学」を越えて、この大切な「機法一体」の教えを安易な感覚でいただくことのないよう、心すべきことかと痛感せしめられる。
 以上、「還相回向―如来の来生」「正定・滅度―実は一証」「機法一体―分限の自覚」という三点を通して、「相伝教学」の特徴的な面を概観し、問題提起させて頂いた。その中で、「蓮如教学」とも言われる「相伝教学」が、意外と「近代親鸞教学」に大きな接点を持っていることを痛感せしめられる次第である。
 宗祖の素意を正しく相伝せんがため、法主(現門主)家一門に相伝されて来た教学が、旧五箇寺の相伝家の教学者たちの研鑽を経て、体系づけられ伝承されてきた。その埋没からの蘇りの公刊が、蓮如上人五百回忌法要を前にして実現したことに、誠に不思議な感動を覚える。今日我々は、自由に『真宗聖典』等によって親鸞聖人の著述を読むことのできる時代の恩恵に浴している。また、もっと厳密正確に読もうとすれば、聖人の真蹟のコロタイプ版で読むことも自由かつ可能である。だがそれらは、膨大な量でしかも難解であり、容易には読めない。読んでも容易に正しい理解を得るのは極めて困難である。ましてや信解は大変なことと言わねばならない。必ず善き師の教えによって読み学ぶべきである。その時、この「相伝教学」は、「親鸞教学」に学ぶ我ら学徒に、必ずや深い啓示を与える貴重な教えの言葉として響くものと確信するものである。〜完~
 

出口光善寺市民の会 You Tube

 

出口御坊光善寺本堂修復事業応援市民の会

 

御本を転記させていただく機会をいただきましたが

誠に勝手都合でしか進行できませんでしたことを反省・御詫び申し上げます

しかしながら、何とか今回で「完了」できましたことを御報告させていただきます

ありがとうございました 熊五郎

蓮如上人と光善寺・第一回目「2018/6/4」   蓮如上人と光善寺・バックナンバー