「現在の連続が時間なのだ」という命題①がある。
「広告とはキャンペーンであり、キャンペーンとは他人の考えを自分の考えに変えるための行為である」という命題②がある。
命題①と命題②は、一見すると無関係のようだが、実は、緊密な関係がある。
「現在の連続が時間なのだ」と いう命題①を吟味する前提として、「現在のほかには何も存在しない」ということについて考える必要がある。
なぜならば、「現在のほかには何も存在しない」 ということが、人間が表現活動をする理由と関係があるからである。
「現在のほかには何も存在しない」ということは、「過去」も「未来」も存在しないという ことである。
なぜかというと、「過去」は、記憶を素材として、論理の力によって導出される結論にすぎないからであり、「未来」は、知性または意思の力によって導出される心象にすぎないからである。
つまり、「過去」も「未来」も、「現在」において作出されるイメージ以上のものではないのである。
個人は、 「現在」だけを、それぞれ独立に経験しているのみである。したがって、個人は互いに孤立している。
そもそも、「自分以外に他者が存在する」ということ自体が、ハッキリそうだと言えるほどには、確実なものではない。
自分以外に他者が存在することは自明のことではない。自分以外に他者が存在すると考えるのは、一種の習慣にすぎな い。
「個人は、この宇宙において、全くの孤独な存在として放り出されている」という認識から目を背けることはできない。
さらに、「現在の連続が時間なのだ」という認識も、実は、自明のことではない。
まず、「連続」という仕組みを導入しなければ、「現在の連続が時間なのだ」という認識は可能にならない。
しかるに、「連続」とは、どのようにして認識しうる現象なのか? これについては、「時間は一方向のみに進行する仕組みだ」という定義または認識を前提にしなければ、「現在の連続」ということを想定できないと考える。
「現在しか存在しない」ということと「現在が連続している」ということとは、同じではない。
「時間が進行していくにしたがって、事実が継起する」という仮定をすることによって、初めて、「現在が連続する」という現象を認めることができるのである。
それでは、「時間」という もの自体を経験・認識することができるのはなぜか?
「時間が連続していることがわかるから」というのは正確ではないであろう。
連続しているのは、むしろ、 できごとのほうであり、「できごとが連続している」ようにみえるから、時間が連続していると感じられるのである。
では、「できごとが連続している」という 判断の根拠は何か。
この判断をするためには、ある程度の前提あるいは仮定が必要であるように思われる。
「できごとが順次変化する」という現象を「できごとが時間の経過に沿って連続して起こっている」と評価する必要があるのだ。
以上のような仮定と推論を重ねて、初めて、上記の「現在の連続が時間なのだ」という命題①に到達できる。
では、なぜ人間は、このように、さまざまな仮定を重ねることまでして、「過去」「未来」「時間」「連続」などの概念を作り出す必要があるのか。
これについて考察するに際し、「過去」を想定するにも、「未来」を想定するにも、言語化が必要であるということが手掛かりになる。
ここで、そ もそも、「過去」や「未来」を想定するのはなぜか。
それは、この両者を想定しなければ、行為そのものが不可能だからである。
さらに、その言語化を、共有の言語を用いて行わなければならない。
共有の言語が必要であるのは、行為が「他者の存在」を前提とするものだからである。
要するに、人間の「認識」さえも、「他者が存在すること」を前提として、行われているのである。
むしろ、「過去」や「未来」を創出するのは、共有の言語を用いて「他者」と共同の行為をするためだとさえいえる。
共通の認識がなければ、共同の行為は不可能である。
上記に加えて、コミュニケーションを直接の目的としない場合でも、個人が自己の状況 を言語化することには重要な意義がある。
認識するにも、思考するにも、言語化が必要だからである。
ただ、その言語化自体を、共有の言語を用いて行わなければならないのは、前述したように、行為が他者の存在を前提とするものであるからである。
つまり、コミュニケーションとは直接の関係がないようにみえる個人内部の認識や思考も、他者の存在を想定しているのである。
このようにして、言語化は、基本的には、コミュニケーションの存在を想定している。
それでは、なぜ人間はコミュニケーションを欲するのか。
個人相互のコミュニケーションの目的は、前述した「宇宙における孤立・孤独」を解消することである。
この宇宙における孤立・孤独の解消の過程はどうなるか?
人間は、自分と同じ考えを持つ他者を、無意識的に捜していて、考えを共有できる友人を発見したいと常に考えている。
そこで、そのような人に見つけてもらえるためには、自分の考えを外部に表現する必要があるのである。
このようにして、似通った考えを持つ人たちは、結びつきを強めるべきである。
そして、そのためには、自分の考えを表現・発信しなければならない。
ここで、媒介項として、以下の考察が有効となる。
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広告という世界に自分というものを存在させるためには、今というものをたくさん作らなければならない。
その瞬間に感じたものを、何らかの形で言葉として残しておくことが必要である。
今を残さない人、つまり、言葉を残さない人は、存在していないのと同じである。
「自分はこう思っている、これを学んだ、これが楽 しい、これが嫌いだ」などということを残さない人は、広告の世界では存在しないのと同じである。
広告という世界に自分というものを存在させるためには、今というものをたくさん作らなければならない。
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ただ、以上の考察を媒介項としても、なお、「広告とはキャンペーンであり、キャンペーンとは他人の考えを自分の考えに変えるための行為である」という上記の命題②と、命題①から派生した、「自分の考えを表現・発信しなければならない」という上記の考察との間に、無理のない連続性を見出すのは、なかなか困難 である。
広告、したがって、キャンペーンの定義を、「キャンペーンとは、他人の考えを自分の考えに変えるための行為である。または、『他の選択肢もある』という自分の考えを広めることによって、他人の頭の中を侵略・占領していく行為である。」と考える限りは、そう言わざるを得ない。
これは「侵略して自分のイデオロギーに変えることがキャンペーンの目的である」と主張するに等しいのである。
しかし、広告の定義とキャンペーンの定義を、以下のように構築していくと、さまざまなことを合理的・発展的に説明できるようになる。
広告とは、意識・態度を変えること、つまり、変革である。言い換えれば、①ある商品の持つ生活者にとっての優位性の抽出と②その生活者の企業に対しての関係性の構築である。
生活者が何を欲しているのか。何をあきらめているのか。何を美しいと思っ ているのか。何を楽しいと思うのか。何に悩んでいるのか。これらのことを知らなければならない。
たしかに、キャンペーンとは思想・思考の戦争である。
しかしながら、キャンペーンにおいては、送り手が送った情報の表現構造が、受け手の中で価値に転換できる構造でなければならない。
つまり、「送り手の表現に受け手を関係させること」が必要である。
情報の伝達は、受け手が認識を共有することによって完結する。受け手の側に主体性があり、受け手の中で情報が編集されて初めて、その情報は完成するのである。
実は、このことは、言語の一般的性質そのものであるといってよい。
「言語における意味の形成自体が、この性質・構造をもっている」と考えるべきである。
ところで、認識を共有するにはどうしたらよいのか?
これについては、「人を動かすのは論理ではなくて感情である」という考え方が有効である。
「どの哲学が正しいのか・合理的なのか、あるいは正しい・合理的だと思うのか」という問題についてさえ、ウィリアム・ ジェームズは「自分の心にピッタリと収まるような内容・体系の哲学である」という可能性を示唆している。
ある認識が伝わるには、受け手がその認識を共有することが必要であって、その共有によって伝達は完結する。
この考えについては、そもそも言葉の表現する内容は、それが表現される前には、ハッキリとは規定できないという性質と関係がある。
そもそも意味の形成自体が、言葉の発信者の側だけで完了することはありえないできごとである。
それは、言語自体・概念自体が、完全に個人的なものではなく、多かれ少なかれ、公共的なものだからである。
たとえ自己の思想によって相手の脳を侵略しようとしても、言語のこの公共的な性質に依存しなければ、侵略自体が不可能なのである。
それに加えて、ただ単に言語の公共的性質に依存するだけでは、キャンペーン自体が不可能である。
言語の公共性を支えている共通の価値を前提にしなければ、受け手に受容してもらえないからである。
もっとも、そもそも他者と共有できない性質の自己表現をすること自体 を、人間は許されていないとも考えられる。
つまり、人間とは、他者との関係においてしか、自己の存在を認識も形成もできない存在であって、他者が受容できる形でしか、自己を表現することが可能でない存在なのかもしれない。
そうであれば、「他者との関係を前提としての自己表現」をしない自由は、人間には与えられていないことになる。
以上の検討すべてを踏まえて、「人間には自分の考えを発表する意味・義務がある」のではないかと考える。
それは、思考・思想の内容の発展の可能性を追求することに意味があるからである。
つまり、あらゆる問題は、「こうでなければならない」ということはなく、あらゆる可能性が許容されているのであるが、それに気がついている人には、むしろ、それを発信する義務があるとさえいえるのである。それも、キャンペーンという形で発信すべき なのである。
異なる複数の見解が存在するというのが、この世界の常態であり、それぞれの個人には、自己の考えを持つ自由がある。
それにもかかわらず、キャンペーンをすることの是非あるいは意義について論ずるとすれば、「異なる見解の同時思考」という仮説・把握が有効である。
地球全体として「異なる複数の見解を思考すること」は、それを「一人の人間の思考とのアナロジー」としてみれば、それほど奇異なことではない。
どういうことかというと、「他人の思考を侵略する」と考えてばかりいるから、単なる攻撃のような印象を受けるが、さまざまな思考の可能性を地球全体で探ると考えれば、むしろ、キャンペーンは合理的なシステムだといえるのではないかということである。
キャンペーンの対象となる個人を支配するというよりも、「全体としてみれば1個である頭脳」の思考過程として、複数の見解の吟味がなされているのと同視するのだ。
*上記の文章は、坂田智康氏のセミナーの内容に触発されて構想したものであるため、広告の観念等について、氏の考え方を前提にして考察を加えている箇所があります。そこで、広告の定義等が氏のセミナーにおける定義等となっていることをお断りしておきます。