台風被害で今現在で死者70名以上を出してるそうです。

行方不明者も10名以上になってるそうです。

ご冥福をお祈りします。

そして行方不明者が一刻も早く救助されることを重ねてお祈り申し上げます。

また、生存者の方が突如として大切な方を奪われてしまった悲しみ、日常を失った苦しみ、慎んで如何許りかお察し申し上げます。

合掌



はい、暗澹たる気持ちでは御座いますが前回の投稿で何で「法華懺法」の後段で寿量品や神力品じゃなく何故に安楽行品なのか?について投稿した後、日頃ご教示いただいてる方から資料を送っていただきました。

「法華懺法聞書」って言う口決書ですね。

顕教にもこう言った口決書に当たらないと分からないこともありますね。

読んでみたら私の見解は当たらずといえど遠からずって感じだったと思いますが、どうでしょ?

でも「四要品の随一」とは知らなかったなー。

門外漢の私が言うのも変だけど、さすがに天台システムは最高だと思います。

ちなみに修験道の宝剣作法の時の偈文

天諸童子 永以給仕 刀杖不加 毒不能害 若人悪罵 口即閉塞

は、この安楽行品の後段から取られた文です。

原文が漢文なので下し読みにしました。

スペースや句読点、カッコ付けや振り仮名とかピリオド等々は私の判断で付けました。

間違ってたら御免なさいm(_ _)m

◎ 一、経段の事

慈覚大師乃至先哲、是れを加えたまう風聞なるか?総じていかほどにてもあれ加えて読むべきなり。

おおかたこの品には法華修行の相を説き、身・口・意・誓の四安楽の方軌を明かす。されば先哲も初めの身安楽行の上に行者の修行を成じ顕す意をもって懺悔の経段に置き加うるか?

私云う、行処・近処の修行とは?

釈にいわく何故に行・近を分かつや?と問い、「理に詣(いた)って略して説を行処と名ずけ、事に附きて広く説を近処と名ずく」と。(文)

行・近の不同は広略の異なり。行処は偏に実相の理を観じ、近処はこの理観を助ける助行なり。故に戒定慧を分別し一乗の妙行を助くる意を顕すなり。

私云う、よって初めに十悩乱を離ると云うは戒門に付きて観を助け、修攝其心は定門に付きて観を助け、観一切法空は慧門に付きて観を助くと釈せり。

これに付きて安楽行の三字は即ち衣・座・室の三軌なり。したがってこの品は四要品の随一なり。上の方便品の時の諸法実相の説を聞きて成仏すと云えども凡夫の成仏これを見ざる。しかるにこの品に於いてその修行の相を説き顕すなり。よって行処・近処に経て修行を成ずれば無始の色心、妙境妙智と顕すものなり。さればただ発心修行の体なり。

よってこの安楽行を以って顕すと云うは三身の覚体にして是れを寿量品とは云うなり。慧心はこの事を釈すと見たり。この無作三身の体を顕し見れば塵々法界の体、しかしながら応用の観音品の体なり。これが化に対すれば阿閦、宝生、弥陀、釈迦なり。

よって四要品の中にも安楽行品が肝要なり。諸法実相の時は知聞せず。この品に於いてこの修行を成じ「智目行足、清涼池に至る」これを顕すなり。

よって慧心は即ち往生安楽の文をば四安楽行と釈す。これも修行を安楽行と名ずけ立てる邊(ほとり)なり。

先哲これを以って懺悔に加うるか?

私云う、この意を以って経段をば読むべし。末の偈は證真法印が置きたまうと云う説これ有り。

以上。


まだ資料がありますので法華ネタ続きますね(^_^)