ラグビーW杯、全試合を録画して観てますが、対アイルランド戦の時に日本勝利の速報を見た時はビックリしました(゚Д゚)


対スコットランド戦も最初は速報で知ったのですが試合を観てビックリΣ( ̄。 ̄ノ)ノ


こ こ ま で スコットランドを苦しめるとは!


いつも期待してなかったので8強に入っただけでも快挙ですが、アイルランドに続きスコットランドまで打ち破るなんて期待するなと言われても期待しちゃいますねー(≧∀≦)


暗いニュースが続くこの世情不安の中、日本チームには勇気付けられますねᕦ(ò_óˇ)



はい、今日はマニアックなネタです(^^)


え?いつもだろって?




天台宗系では必ず読誦される「法華懺法」(ほっけせんぼう)と言う節を付けたお経があります。

修験道ではこの法華懺法を略した「修験懺法」と言うのを現在では主に本山派系が唱えますが、明治以前では当山派も唱えていました。

はい、私も入門した時からずーっと唱えてます。


それはそれで良いとして、今まで法華懺法の後段で何故法華経の「安楽行品」(あんらくぎょうぼん)、別名「文殊品」(もんじゅぼん)を唱えるのか分からなかった。

と言うより当たり前過ぎて疑問にも思わなかったんですね。

行者の心得だからとか文殊=空性の智慧を表してるからとか色々と説があるけど、それでもなんかピンと来なくて安楽行品じゃなくても同じ法華経の寿量品なり神力品なり普門品でも良いんじゃないかと漠然と思ってました。

でも法華玄義の迹門の十妙の中の「行妙」の説明で、「五数に約して行妙を明かす」段に「別の五行」と「円の五行」が説かれ、智顗さんの教義によれば安楽行品に説かれる安楽行を如来行と考えていたのでこの品を行法に組み込んだんですね。

なので行者の心得とか空性を背景とすると言った説明がピンとくるようになったんですねー。

なので以下、引用すると

「今、『法華』に依って、円の五行を釈せば、五行は一心の中に在りて、具足して欠くること無きを如来の行と名ずく。文に

『如来は荘厳もて、而も自ら荘厳す』と云うは、円の聖行なり。

『如来の室』は、円の梵行なり。

『如来の座』は、円の天行なり。

『如来の衣』に二種あり。

『柔和』は、即ち円の嬰児行なり。

『忍辱』は、即ち円の病行なり。

この五種の行は、即ち一実相の行なり。一は五と作らず、五は一と作らず、共に非ず、離に非ず、不可思議なるを、一の五行と名ずく」

つまり「別の五行」のように次第するんじゃなくて円教は不次第の五行なので一心にすべて具足すると言った「観心の円の五行」、「無相の安楽行」につながって行く教学が背景にあっての安楽行品だったんだね。

なので十妙の説明の順序も境妙・智妙・行妙と続くのも「行は衆多なりと雖も、智を以って本となす」からで、「行」を単なる行とするんじゃなくて智妙によって開会して「行妙」とする円教の思想的立場、見解と言ったものが前提にあってのことだった。

なのでこの「法華懺法」という行法は寿量品や神力品じゃなくて安楽行品じゃないといけなかった訳なんですね。

ってか、いけない訳じゃなくそれ自体で円教の教学を表してたんだ。

と、何となく分かりました(^_^;)

なんでもそうですが、疑問に思ったら原典に立ち戻ってみると良いですね。