筑波山禅定(神窟講)に初参加して来ました!(^_^)
筑波山禅定(ぜんじょう)とは、筑波山中にある数々の「ご神窟」(しんくつ)と言われる窟(いわや)を巡拝して「生まれ変わる」をテーマとする修行です。
当初は筑波修験の古来からの秘密ルートを巡ると聞いてワクワクして満面の笑顔で楽しみにしてましたが、まさか恐怖で顔が引き攣る事になるとは思いませんでした、、、:(;゙゚'ω゚'):
這いつくばり、よじ登り、ぶら下がり、しがみ付き、飛ぶ!のオンパレード∑(゚Д゚)
ご神窟を巡るごとに泥だらけ、そして命懸け。
怖くて何も考えられない、頭の中は真っ白、行くしかないと言う覚悟、もはやそこに煩悩に覆われた心などない(°_°)
それをこそ禅定と言うのでしょう。
身を汚す泥が我が心の垢を削ぎ落としていく感覚。
身体が汚れれば汚れるほど心が清まる感覚。
全身は泥だらけなのにこの清々しさは何なのであろうか。
そもそも「胎内くぐり」などの行場を経て「生まれる」ことを意識するなら、その前に「死ぬ」ことを意識するのが大前提。
であればこそ軽くても大怪我、間違えれば必死の行場(窟)をこれでもかってほど巡拝して行く。
まさに「死ぬこと以外はかすり傷」である。
そして最後の行場で願い事を大声で叫ぶが、それは命懸けで神窟を巡って余計なものを削ぎ落とし、生まれ変り、真っさらになった赤ん坊の元気な産声を表してるのでしょう。
日本百名山の中で最も標高の低い山、筑波山。
「山のキツさは標高の高さじゃない」と言う。
それは筑波山にこそ言えるのかもしれない。
筑波山へは何度も登拝してるが、これをやらずに登拝したとは言えないと改めて思う。
八世紀ごろから続くこの修行は江戸時代くらいから庶民信仰のお山として繁盛し、特にこのご神窟巡拝への信仰が盛んになったそうだが、昔の庶民はこの「死と隣合わせのアトラクション」を命懸けで楽しんだのかもしれない。
廃仏毀釈の大法難を乗り越えてこの神窟巡拝の修行が続いていることを素晴らしく思う。
修行が終わってアザだらけの身体を見て改めて思うことは、神も仏も高天原も極楽も黄泉も地獄もそんな事はどうでも良い。
ただただ自ずとこの命あること、生かされていることに感謝した。
南無徳一大師
南無筑波両峰大権現
合掌