「ヨーガの目的は、生命が持つ無条件の状態へと人々を導き、人々が自分自身の生命を大切に思えるように導くことにあります。心に影響されない生命体を手に入れることにあるのです。」byマーク・ウィットウェル



◎心の本質とは何か?


先ず、私たちの心はどんな色をしてどんな形をしてるのでしょうか?


そして、どこにあるのでしょうか?


ある人は頭だと言い、ある人は胸だと言うでしょう。


なかなか具体的に答えられる人は居ないと思います。


どんな色をしてどんな形をしてるか、そしてどこにあるのか言えなくても、私たちは常に漠然とでも心はあると実感してると思います。



通常、喜怒哀楽の感情や愛憎の念等々、これらを指して私たちは一般的に「心」と言っていると思います。


これらはどこから来るのでしょうか?


例えば嬉しいことあったら喜ぶけど、次の瞬間殴られたら腹立って怒ると思います。


さっきまでの嬉しい気持ちはどこに行ってしまったのでしょうか?


愛しくて仕方ない恋人が浮気をしたら相手を恨むと思います。


その時その愛情はどこにあるのでしょうか?


あるいはご飯を食べている時、最初は美味しい美味しいと食べていても、しばらくすると明日の心配事をしてないでしょうか?


この私たちが心と思ってる喜怒哀楽や愛憎の感情はこれは実は「思考」(マインド)から来るものなのです。


我々が心と呼ぶ思考はまるで雲のように次々とその形や在り方を変えて行きます。


この思考の働きとは本来一つのものを分けることです。


そして様々な妄想や執着を生み出していき、それが私たちの中に現れ展開して行く訳です。


即ち思考の働きとは「分別」(ふんべつ)することなのです。


この喜怒哀楽や愛憎の念、思考分別が生まれ消え去って行くところこそ「心の本質」とか「心の本源」、思考分別に振り回されていない「ありのままの心」と言われるものです。



◎フリダヤとは?


この心の本質やありのままの心をハートオブヨガではフリダヤと言います。


フリダヤとは本質、エッセンス、心髄、魂とかの意味があり、すべてのものが生まれ、すべてのものが帰っていくところです。


このフリダヤは蓮華に譬えられます。


なぜ蓮華なのでしょうか。


蓮華は泥水の中から咲いてるのに、その泥水に汚されず美しく咲きます。


それどころか泥水は汚いほどその蓮華は美しくなるとされています。


泥水は煩悩を表し私たちが心と呼ぶもので、蓮華はその泥水から生まれてくれけど決して汚されず美しく咲き誇る、即ち私たちの奥にある単なる思考分別とは違う心の本質を表してる。


煩悩とは読んで字のごとく「悩」(なや)み「煩」(わずら)うことですが、そんな煩悩多き私たちの中にその煩悩に染まらない心の本質、ありのままの心があることを象徴している訳です。



◎蓮華のアンジャリムドラー


ヨガではアンジャリムドラー、即ち合掌をしますが、ハートオブヨガでは普通の合掌のように手の平をぴったりと合わせるのではなく、手のひらにまるで今まさに咲き開かんとする蓮の花のつぼみのようにくぼみを作ります。


これは蓮の花のムドラーと云われます。


これは何を表しているのでしょうか?


通常の植物は花が咲いた後に実がなりますが、蓮は花が咲いた時に既に実がなっています。


これを花を原因とし実を結果とすれば、開花とともに実がなってる蓮は原因と結果が同時にあるということです。


即ちスタートとゴールが既にそこにあると云うことです。


これはものごとの本質において生死、因果、善悪、左右、美醜、強弱、剛柔、男女、損得等々、あらゆる二元論的な相対分別(そうたいふんべつ)を超えてることを表してます。


あるいはあらゆる相反し相待つものはその根源が一つであり同時であることを表し、またそれらの融合、結合を表しています。


そもそもハタヨガの意味とはそれら相反するものの結び付きです。


それを象徴したのが蓮華のアンジャリムドラーであり、その蓮華が我々の心の本質(フリダヤ)であること表している訳です。



◎ウジャイープラーナヤーマ


ハートオブヨガではウジャイープラーナヤーマという呼吸法を使いながらアーサナ(ポーズ)をとって行きます。


この呼吸法は一般的に「勝利の呼吸法」とか「征服呼吸法」と云われてますが、ハートオブヨガでは鼻息を立ててするこの呼吸法を、その鼻息の音が寄せては返すさざ波の音に聞こえることから別名「波の音の呼吸」とも言います。


なので心を海に例えてみましょう。


私たちは愛するものを失った時、大いなる悲しみの波が押し寄せてきます。


これが第一の波です。


目の前に起こった現象に対する反応ですね。


次にあの人が居たらこうしようと思っていた、あの人が居た時はこうだったと思い出して悲しみます。


これが第二の波です。


私たちは常々現在ありもしない未来を憂いたり、既に過ぎ去って存在しない過去に想いを巡らし苦しみ悩んだりするのはこの第二の波なのです。


しかし海の表面が嵐でいかに波打っていたとしても、深い海の底は静かにゆっくりと流れているだけです。


この深い海の底が心の本質やありのままの心と云われるものです。


喜怒哀楽等々は第一の波、思考分別やそれによって生み出された妄想や執着が第二の波です。


呼吸に意識を向け自然と瞑想状態が訪れた時とは、深い海の底から第一の波をただただ見つめることであり、もはや第二の波に翻弄されることがないことです。


それはちょうど吸う息で第一の波を受け取り、吐く息で第二の波を手放すようなものです。


思考分別を離れありのままの心でいるとはそのように未来や過去に縛られないことであり、今、ここにある、とはそう云うことなのです。


それをこの「波の音の呼吸」は表している訳です。



◎心の本源フリダヤ


タントラ思想において私たちは既に完成されていて「あるがままで完璧だ」と言います。


しかし、本当にそうでしょうか?


ありのまま、あるがままに完璧ならな何もしなくても良いのではないでしょうか?何故日々プラクティス(練習)をしなければならないのでしょうか?現状維持でいいのではないでしょうか? なんの努力も要らないのではないでしょうか?


これは地上から空を見上げたとき、雲が濃いと太陽や月は見えません。


しかし雲が晴れたからといって改めて太陽や月が出て来る訳ではありません。


いつでも空に輝いているのです。


太陽や月の側からすればいつでも地上を照らしてるのです。


雲がなくなったからと言って何もなくなるわけではなく、そこには澄み渡った青空が広がっているのです。


この青空や太陽や月の側の視点に立った時、私たちは完成されていてあるがままで完璧なのです。


ただただそこにあって何の努力も要らない訳です。


ありのまま、あるがままにそこにあるのです。


とは言え、私たちは常に悩み煩い苦しんでるのではないでしょうか?


これは地上から曇り空を見ているようなものです。


常々私たちは煩悩=思考の激流に流され、思考の後を追い続け、いらぬ妄想に振り回され未来や過去にとらわれ、苦しみもがき続けてしまうのです。


煩悩の雲に覆われ心の本質、ありのままの心から離れてしまっているのです。



だからこそ少しでも身も心も立ち止まり、煩悩の激流に流されないよう自分の身体や呼吸に意識を向ける時間が必要になってくるのです。


最近流行りのマインドフルネス瞑想のように直ぐに実体のないマインドから始めるのではなく、また私たちが何か不完全な存在かの如くゴールを設定し「悟り」に向かって段階を踏んで行くのではなく、私たちは既にゴールにいることを自覚するために具体的な身体と呼吸のつながりから始めるのです。


そして呼吸に導かれ、呼吸と寄り添い、呼吸に包まれる時、煩悩の雲は晴れありのままの心、あらゆる相対分別を超えた心の本質


「聖なる心」(フリダヤ)


が沸き起こってくるのです。


それは万物を照らす太陽のように、夜空に煌々と輝く満月のように、澄み渡った青空のように私たちの内側に既にそこにあるのです。


それに気付いたら長くそこにとどまり続けましょう。



◎心に影響されない生命体


冒頭でハートオブヨガの提唱者マーク・ウィットウェルが、「心に影響されない生命体」を手に入れると言ってるのは、我々が心だと思ってる思考に振り回されない(煩悩=思考)、心の本質に常にいられるよう、ありのままの心でいられるためにヨガの目的はあると仰ってます。


それは何も喜怒哀楽の感情をなくすということではなく、実体を持たず常に変化して止まないあやふやなものに左右されないで、それが生まれ出てくる根源、心の本質にとどまれば苦しまなくてすむじゃないかってことです。


そしてそこから離れず、長くとどまることを「心に影響されない生命体」を手に入れると言っているのです。



「あなたにとって本当に必要なものは、秘伝の奥義ではなく、人生の騒音や混乱をかいくぐり、内に宿る平和と力の源へと導いてくれる、現実的なプラクティスです」byマーク・ウィットウェル