◎ゾクチェンの総伝授、ゾクチェン瞑想マニュアル
日本で唯一のボン教ゾクチェン伝承者 箱寺孝彦 師の一年に渡るゾクチェンの総伝授が終了いたしました(^_^)
私も1年間も通い続けられるか心配でしたが、箱寺師の至れり尽くせりのフォローで何とか通い続けられました。
これで私もゾクチェンパの仲間入り!?
初講のゾクチェンとは何か?から始まって最終のバルドの教えに至るまで、回を重ねる毎により高度により深秘になって行く様は、最近流行ってる凡百の高額マインドナンチャラ講座など到底及ぶべくもない。
脱線するがマインドナンチャラでお金持ちになろう!だの、仕事の能力アップ!などと謳ってるのなんて最低。
え?マインドナンチャラがダイエットに良いって?
┐( ̄ヘ ̄)┌ ヤレヤレ・・・
ハイハイ、涙ぐましい企業努力ですね (^_^;)
況してやたかが3日から一週間程度の瞑想指導者養成講座なんか受けたぐらいですぐに教え始める輩を見ると、アンタたちゃホントに瞑想してんの?と言いたくなる。
自らの体験に基づかないものを人に教えるって、無責任じゃない?
◎教えのない瞑想は散歩と一緒
はい、話は戻ります。
箱寺師は言う
「教えのない瞑想は散歩と一緒。
散歩したら気持ちがいい!
気持ちがいいけど、それだけ。
どこにも行き着かない。」
はい、ごもっとも。
今の宗教じゃない宗教じゃないと謳うビジネス系マインドナンチャラなんかはこれに当たる。
↑なんかスピ系が好きそう(^_^;)
箱寺師はこうも言う
「教えをもとに瞑想することは、地図を持つことである。
自分が今どこに居て、どこに向かえばいいのかが分かる」
要はどの見解に立って瞑想するのか?ってことだね。
更に「無努力の教え」とは?「あるがままで完璧な境地」とは?覚りを開いた後にどうするのか?覚りを開いたままどうやって生きていくのか?覚りを開いたまま瞑想を続けていく意義は?と、ここまで来たら小乗仏教系マインドナンチャラなんぞ太刀打ち出来ない。
あの何も日本仏教を知らないクセに日本仏教の悪口しか言わないスリランカ辺りから来た新興仏教団体のスナスナガサラサーラみたいなのは論外。
仏教だの瞑想だの以前の話。
◎それぞれの見解
そもそも小乗仏教は我々凡夫は得ても阿羅漢果までであって覚りを開けないってとこから始まるのが見解。
大乗仏教になると時間はかかっけど誰だって覚りを開けるんだぜ!頑張って覚りを開こうぜ!って見解。
密教になると、え?時間なんかかかんねぇぜ!身と口と意を仏様と合致させりゃアンタも仏よ!って見解。
ゾクチェンになると、ん?時間かかるとか覚りを開くとか、そもそも俺たちゃ覚ってんだぜ!爆!って見解。
つまり天台風に言ったら本覚門の見解。
大日経に曰く
「甚深無相の法は劣恵の堪えざるところなり、彼等に応ぜんが為の故に、兼ねて有相の説を存せり」
とある。
これは甚だ深く姿形のない教え(無相)は知恵の劣ったものには分からないから、兼ねて姿形のある教え(有相)を説くという意味で、密教は有相、修験は無相の法門である。
そう、ゾクチェンは無相法門である。
このようにどの見解によって瞑想するかによって取り組み方も得られるものも違ってくる。
瞑想と一口に言ったってどれも同じじゃない。
もちろん、その人に合った瞑想するのが一番。
しかしそこにはやはり見解の高低がある。
境涯の高低がある。
どの地図を頼りに歩んで行くかでその境涯が違ってくる。
◎どこまでも実践的
箱寺師は経典とラマの教えと自らの体験に基づいて話してくれる。
そしてあくまでも実践することが念頭に置かれている。
忙しい現代日本人のために、チベット最高峰の教えをどの講座を受講しても卑近な例えを通して今すぐにでもゾクチェン瞑想が始められるように教えてくれる。
今回の「ゾクチェン瞑想マニュアル」はゾクチェンに伝わる数々の瞑想技法を余すことなく伝授するもので、私も修験道歴28年になるがその見解の近似性に驚きを隠せないものであった。
何より教えと実践とが乖離していない。
行学一体である。
これまでの瞑想でしっくり来なかった方も、何から始めていいか分からない方も要チェックされてみてはいかがだろうか。
百聞は一見にしかず
百見は一考にしかず
百考は一行にしかず
百行は一果にしかず
↓箱寺師の「ちいさな瞑想教室」
↓箱寺師のブログ「ゾクチェンのブログ」
箱寺孝彦 師