えーっと、だいたい十数年前に或る修験寺院のhpのコメント欄で修験に教義は有りや無しやの質問に、そこの行者だかが「はい、有りません。修験は実修実証を重んじる実践の宗教です」みたいな事をキッパリと答えてた。
はぁ?お前、バカか?
ってツッコミを入れたかったがやめた。
なんでこう云うバカな自称山伏がいるのか他山の法友たちと散々笑い話にしたが、結局その手のバカが多いとのこと。
滝に打たれて山を歩いて火を焚いてりゃ山伏だと思ってる無知蒙昧な自称山伏がゴマンといるんだわね。
教義に則ることを「実修」といい、それを証することを「実証」と言うんだ。
自分の無知を棚に上げて修験に教義はないなんてなんでそんな自信持って答えられるんだろか。
はい、修験に教義はあります。
修験の教義書も様々ありますが、代表的なものは「修験五書・十巻鈔」と言われるもの。
修験五書・十巻鈔
・修験三十三通記 二巻
・修験修要秘決集 三巻
・修験頓覚速証集 二巻
・修験指南鈔 一巻
・役君形成記 二巻
他にも秘奥鈔だの心鑑書だの山ほどあり、本山派や当山派、諸山派それぞれに重きをおく教義書がある。
この修験五書に対して修験道を研究してる学者は切紙の集成だから体系立った教義書の体をなしてないとかなんとか言いますが、講伝(講義と伝授)を受けて初めて体系立った教義書になるんです。
学者はあくまでも学者であって行者じゃないからそう言うところが分からない。
何でも文献だけで判断する限界と言えよう。
こういった教義書の数々は我々修験の大先達がたが必死で後代の修験者たちの勉学の便に遺されたものだ。
これらのものを差し置いて「修験に教義はありません」などと何故言えるのだろうか?
確かに明治の大悪法の数々によって修験道は儀礼も教義も壊滅的状況に追い込まれたが、現在かなり復興されてきている。
山伏を名乗るならこれらの教義書に目を通すぐらいはしてもらいたいものだ。
教義の無い修行などゴールの無い散歩と一緒。
何処にも行き着かない。
目的の無いトレーニングは遊びと同じ。