【愛とはそれはお互いに見つめ合うことではなく、いっしょに同じ方向を見つめることである】 byサン・テグジュペリ
最初に以下に書くことは師伝によるものではなく、まったく自内證の見解であることを記しておく。
と云うより思い付き(^_^;)
なので変なツッコミは要りません。
さて前回、ハンバーグの例え話を書いたが兄弟弟子が「あまりにも当たり前の話し過ぎて逆に分かんなくなってるのでは?」と言ってたので詳しく書いてみる。
なので前回のハンバーグの例え話の拡大版だと思ってね。
◎如法愛染法を中心にして
愛染さんのある口訣にこうある。
「彼の人とは胎蔵女母なり
キリク蓮華とは女人の八葉は下に向かう
自身、花孔より入るとは金界男父なり
即ち男子の八葉は上に向かう
件の莖は(蓮華の花の莖なり)一古杵なり
理趣釈に云う
二根交會して五塵、大仏事を成す」
最初、上向きの蓮華と下向きの蓮華の意味がとれず、上向きの蓮華はヨーガのパドマアーサナ、下向きの蓮華は股を開いたヴィーラアーサナの状態かと考えたが伏線があった。
馬陰蔵三昧に入ると。
つまり馬陰蔵三昧の説明に
「その時に仏、陰蔵を出してこれを見せしめたまうに忽然として蓮華となる」
とあり、上の文をそのままとればダイレクトに上を向いた蓮華は男根で、下を向いた蓮華は女陰そのまんまなんだね。
花孔より入ると言ってるし。
次に被帯衣の義。
読みを「ただ帯を解いて一つに抱き合う如し」とする場合、和合仏(座って抱き締め合った状態)の姿で衣は着ず、通常?はこれで観想する。
これが愛染王。
「通常?」とするのは口訣の筆者はこれが理にかなってるとするから。
また衣を着ないのは、抱き合った状態で衣を着るとどっちかの背中が開くと云うか、変でしょ?
衣を纏っても同じ。
なので裸形で抱き合う。
読みを「衣を被るに遍身にこれをまとう如く」とする場合は、女を後ろから抱き締めるような状態。
これが染愛王。
つまり両頭愛染となる。
え?両頭愛染が染愛王?って疑問が出てくると思うが、両頭愛染は瑜祇経に典拠があるため、ある阿闍梨さんは「典拠によって染愛王と云うべき」と仰ってる。
さて、これを実際にやるなら男女で衣の袖を通すようにする。
詳しく説明すると女の頭を向かって左側に寄せて、女自体の右手を衣の右袖に通す。
男は向かって右側に頭を寄せて、男自体の左手を衣の左袖に通す。
衣の右袖を通した女の右手と、衣の左袖を通した男の左手で、○○○印を結ぶ。
更に衣の下で男の右手と女の左手で○○○印を結ぶ。
こうすることで「被帯衣」にしろ「被衣」にしろ、衣の存在意義が出てくる。
なのでこの前のハンバーグの例えで云えば、ハンバーグを食べてる最中が愛染王で、食べ終わって歓喜に浸ってるのが染愛王って感じ。
ハンバーグの例え話の真意を云えば愛染の別名「離愛金剛」の意味は
「不離ならば即ち敬愛は入らず、離なればこそ生ず」
ってこと。
これは「忘れねばこそ思い出さず候」と同じことだよね。
そりゃそうだよね?
既に結ばれてるなら殊更「敬愛法」なんて修する必要ないし、結ばれてない状態であればこそ「敬愛法」が必要となる。
話を元に戻す。
通常の法を修する場合は上求菩提の始め、如法は上求菩提の極地。
染愛は下化衆生となる。
「三十三尊法聞書」に
「愛染とは愛は諸仏、染は衆生なり。
よって諸仏の衆生を愛するを愛染と云う。
衆生の諸仏を愛するを染愛と云う。
故に愛染・染愛の不同は、かくの如く意得るべきなり」
とある。
方向性の違いはあっても本来は不二だと云うことは口訣の随所に出てくる。
しかし先に諸仏が我々を愛することがある。
そして次にだからこそ我々が諸仏を愛せる。
「衆生、諸仏を愛するに非ず。諸仏、衆生を愛するが故に衆生は諸仏を愛す」by太賢
御仏の本誓は既に成就されてる。
成就されてるからこそ我々衆生は求めることが出来るんだ。
つまり仏様は我々を抱き締めようと両手を広げて待ち構えている。
我々が御仏の胸に抱かれようと思ったら、それに気付かなければならない。
…余談だが
染愛王のアーサナを実践してみると以下のようになる(やらなくて良いがw)。
男はパドマアーサナ、女は股を開いたヴィーラアーサナ。
そうすると女が長身の場合、両頭のように横並びにはならない。
当たり前だが横並びにするには小柄でないとならない。
横並びでなくても良いけど。
また女の膝が地面に付かない。
付けようとすると女が両手を地面に付いてかなり前のめりにならなければならない。
ここで気付いた。
突き詰めて行けば、いわゆる「真言立川流敷曼荼羅」のようになると。
この場合、アーサナは関係なくなるよね。
どっちも足を伸ばした状態でしょ?
ちなみに或る阿闍梨様が立川流は淫祀邪教のレッテルを貼られてることに対して、立川流は通常の密教の法流であって淫祀邪教の類いではないことを論証してる。
で、ここでまた気付いた。
染愛王としての男女のアーサナは和合が終わって歓喜の余韻に浸ってる状態、なので男が女を上にのせ後ろから抱き締める形ってだけ。
だから本来は横に寝そべって男が女を抱き締める形でも良いと思う。
だって余韻に浸ってる状態だから。
歓喜充足の状態はあくまでも自然体と云うこと。
結局のところアーサナは関係なくなるが、私が瑜伽行者だったからアーサナと云う観点から気付けたんだわ。
結論として両頭愛染法は如法愛染法の観想を突き詰めた極致として編み出された法で、如法愛染より奥の法であると思う。
衆生と仏は同じ方向を観る、これ生仏不二の義なり by太賢
最初に以下に書くことは師伝によるものではなく、まったく自内證の見解であることを記しておく。
と云うより思い付き(^_^;)
なので変なツッコミは要りません。
さて前回、ハンバーグの例え話を書いたが兄弟弟子が「あまりにも当たり前の話し過ぎて逆に分かんなくなってるのでは?」と言ってたので詳しく書いてみる。
なので前回のハンバーグの例え話の拡大版だと思ってね。
◎如法愛染法を中心にして
愛染さんのある口訣にこうある。
「彼の人とは胎蔵女母なり
キリク蓮華とは女人の八葉は下に向かう
自身、花孔より入るとは金界男父なり
即ち男子の八葉は上に向かう
件の莖は(蓮華の花の莖なり)一古杵なり
理趣釈に云う
二根交會して五塵、大仏事を成す」
最初、上向きの蓮華と下向きの蓮華の意味がとれず、上向きの蓮華はヨーガのパドマアーサナ、下向きの蓮華は股を開いたヴィーラアーサナの状態かと考えたが伏線があった。
馬陰蔵三昧に入ると。
つまり馬陰蔵三昧の説明に
「その時に仏、陰蔵を出してこれを見せしめたまうに忽然として蓮華となる」
とあり、上の文をそのままとればダイレクトに上を向いた蓮華は男根で、下を向いた蓮華は女陰そのまんまなんだね。
花孔より入ると言ってるし。
次に被帯衣の義。
読みを「ただ帯を解いて一つに抱き合う如し」とする場合、和合仏(座って抱き締め合った状態)の姿で衣は着ず、通常?はこれで観想する。
これが愛染王。
「通常?」とするのは口訣の筆者はこれが理にかなってるとするから。
また衣を着ないのは、抱き合った状態で衣を着るとどっちかの背中が開くと云うか、変でしょ?
衣を纏っても同じ。
なので裸形で抱き合う。
読みを「衣を被るに遍身にこれをまとう如く」とする場合は、女を後ろから抱き締めるような状態。
これが染愛王。
つまり両頭愛染となる。
え?両頭愛染が染愛王?って疑問が出てくると思うが、両頭愛染は瑜祇経に典拠があるため、ある阿闍梨さんは「典拠によって染愛王と云うべき」と仰ってる。
さて、これを実際にやるなら男女で衣の袖を通すようにする。
詳しく説明すると女の頭を向かって左側に寄せて、女自体の右手を衣の右袖に通す。
男は向かって右側に頭を寄せて、男自体の左手を衣の左袖に通す。
衣の右袖を通した女の右手と、衣の左袖を通した男の左手で、○○○印を結ぶ。
更に衣の下で男の右手と女の左手で○○○印を結ぶ。
こうすることで「被帯衣」にしろ「被衣」にしろ、衣の存在意義が出てくる。
なのでこの前のハンバーグの例えで云えば、ハンバーグを食べてる最中が愛染王で、食べ終わって歓喜に浸ってるのが染愛王って感じ。
ハンバーグの例え話の真意を云えば愛染の別名「離愛金剛」の意味は
「不離ならば即ち敬愛は入らず、離なればこそ生ず」
ってこと。
これは「忘れねばこそ思い出さず候」と同じことだよね。
そりゃそうだよね?
既に結ばれてるなら殊更「敬愛法」なんて修する必要ないし、結ばれてない状態であればこそ「敬愛法」が必要となる。
話を元に戻す。
通常の法を修する場合は上求菩提の始め、如法は上求菩提の極地。
染愛は下化衆生となる。
「三十三尊法聞書」に
「愛染とは愛は諸仏、染は衆生なり。
よって諸仏の衆生を愛するを愛染と云う。
衆生の諸仏を愛するを染愛と云う。
故に愛染・染愛の不同は、かくの如く意得るべきなり」
とある。
方向性の違いはあっても本来は不二だと云うことは口訣の随所に出てくる。
しかし先に諸仏が我々を愛することがある。
そして次にだからこそ我々が諸仏を愛せる。
「衆生、諸仏を愛するに非ず。諸仏、衆生を愛するが故に衆生は諸仏を愛す」by太賢
御仏の本誓は既に成就されてる。
成就されてるからこそ我々衆生は求めることが出来るんだ。
つまり仏様は我々を抱き締めようと両手を広げて待ち構えている。
我々が御仏の胸に抱かれようと思ったら、それに気付かなければならない。
…余談だが
染愛王のアーサナを実践してみると以下のようになる(やらなくて良いがw)。
男はパドマアーサナ、女は股を開いたヴィーラアーサナ。
そうすると女が長身の場合、両頭のように横並びにはならない。
当たり前だが横並びにするには小柄でないとならない。
横並びでなくても良いけど。
また女の膝が地面に付かない。
付けようとすると女が両手を地面に付いてかなり前のめりにならなければならない。
ここで気付いた。
突き詰めて行けば、いわゆる「真言立川流敷曼荼羅」のようになると。
この場合、アーサナは関係なくなるよね。
どっちも足を伸ばした状態でしょ?
ちなみに或る阿闍梨様が立川流は淫祀邪教のレッテルを貼られてることに対して、立川流は通常の密教の法流であって淫祀邪教の類いではないことを論証してる。
で、ここでまた気付いた。
染愛王としての男女のアーサナは和合が終わって歓喜の余韻に浸ってる状態、なので男が女を上にのせ後ろから抱き締める形ってだけ。
だから本来は横に寝そべって男が女を抱き締める形でも良いと思う。
だって余韻に浸ってる状態だから。
歓喜充足の状態はあくまでも自然体と云うこと。
結局のところアーサナは関係なくなるが、私が瑜伽行者だったからアーサナと云う観点から気付けたんだわ。
結論として両頭愛染法は如法愛染法の観想を突き詰めた極致として編み出された法で、如法愛染より奥の法であると思う。
衆生と仏は同じ方向を観る、これ生仏不二の義なり by太賢