(・_・) よく師匠に

妄りに深法求むべからず

なんて言われたけど、求めても良いと思う。

ちゃんとやるなら。

ただ、やってもその境界にある者か通常の法を何千座とやった者でないとシックリこないと思う。

自分はそうだった。

深法、特に東密の秘法中の秘法、如法なんてつくものは行ずる際に既に本尊となってることが大前提だから加行が終わった程度の者じゃ無理でしょ。

如法系の行法はそもそも本尊を拝むための法じゃなくて自分が本尊となって如意宝珠尊を拝むための法だから、何様が好きだから何法で供養したい!なんてレベルは超えてないとダメだね。

じゃなんで如意宝珠尊を拝む前に自分が本尊となってなければならないのか?

通常の行法を繰返し行ずることによって自分と本尊が離れてない状態になった時、それが一門別徳となる。

その一門別徳となったからといって終わりじゃなく、更に普門万徳を現すために如意宝珠尊を拝むんだね。

如意宝珠尊は両部不二理智冥合の法體、万徳円満の内證であって、その境界に入るには自らが本尊の徳(別徳)を現してないとその内證は得られない。

見解の高い者は得られるかもしれないけど、やはり実感として大前提の本尊の内證を得てないとシックリはこないと思う。

「尊格」というものを超えたところにそれがある訳だから。

じゃメンドーだから大日如来でよくなくない?

と云う疑問も当然でるけど、「大日如来」という「尊格」になってるとそれは別徳になっちゃうんだね。

もちろん「自身即ち五輪の塔婆」云々になってくればオッケーなんだろうけど、密教は段階を経る教えなので最初からはやらないよね。

いや最初からやっても良いと思うけど、そういった見解のもとにやるのは少し難しいんじゃない?

だからこそ、いわゆる大日経の

「劣恵の堪えざるところなり、よって有相を示す」

ってヤツでさ。

柱源もゾクチェンも「無相の法門」なので、やはり劣恵の我々のために密教と云う「有相の法門」が開かれてる訳だよね。

なので修験の場合は「無相の法門」を心に懸けながら「有相の法門」を行じるのは少しも変じゃないし、やるべきでしょ。

それはノルブ・リンポチェもダライラマも仰ってる。

そこまでは上求菩提だよね。

じゃ如法系の行法となると上求菩提と同時に下化衆生になる。

下化衆生となると普門万徳から一門別徳になって行かないとおかしい。

不二と言っちゃえば簡単な話だろうが、まぁこれはスタンスの問題かな。

で、一門別徳の下化衆生の最たるものは天部の行法だよね。

なので究極には天部の行法に行き着くんじゃなかろか?

現世利益というのは「現象」を生じるのでそれに心を引っ張られやすい。

そこに障碍が入る。

だから秘法に属するんだね。

多くの行者の場合、障碍を受けてることすら気付かないところがおそろしい。

だからこその秘法なんだ。

障碍を受けてることにもし気付けたなら、それはその器だと云うことだけど、ひたすら自身の非器を真剣に恥じて行けば良いと思う。

そこに本尊との感応道交がある。

障碍即菩提となるでしょ。

ありがたし ありがたし

信を本覚に置き 行を始覚にとる  

なるほど  と思う。

(ФωФ)  ふふふ


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