(・_・)難しいと思うけど…

◎タントラとその先?

ヨガの根本経典ヨーガ・スートラに

「ヨーガとは心のニローダである」

と定義されている。

このニローダには二つ意味がある。

「止滅」と「統御」。

まったくベクトルが違うものであるが、「止滅」の場合はヴィバシャナー(止観)系、「統御」の場合はパーヴァナー(観想)系だとすれば分かりやすいかもしれない。

つまりヨーガには2つの伝統、2つの方法論がそもそもあったと見るべきだね。

そしてヨーガ・スートラはさらに

「心の作用がニローダされたときには、純粋な観照者であるプルシャはそれ自体の本来の状態に留まる」

とされる。

この二元論のプルシャをプラクリティに引き入れるとサーンキヤ学派の展開説はそのまま唯識学派の転変説となる。

ヨーガ学派の二大根本経典の一つである「ヨーガ・スートラ」はそもそもサーンキヤ学派の根本経典で二元論、もう一つの「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」はヴェーダーンタ学派の一元論である。

ヴェーダーンタ学派の主流であるシャンカラの不二一元論によれば、最高(パラマ)のブラフマンと低次(アパラ)のブラフマンの二種類を立て、現実の経験世界は無明によって低次のブラフマンが無数の個我(アートマン)となって現れるとする。

この最高ブラフマンが無明によって制約をうけ、より低次のブラフマンとして虚妄な現象世界という姿をとって仮に出現すると考えるのを「仮現説」とする。

そしてこの最高と低次の二種のブラフマンに対応して最高と低次の二種の「明知」を立てる。

低次の明知によっては漸進的な解脱を得られるのみであるが、真実在である最高のブラフマンを「自身(アートマン)即ちブラフマンである」と認識する最高の明知によってブラフマンの中に帰入する。

はい、

サーンキャ学派の二元論におけるプラクリティは否定し捨て去られるべきものであった。

何故なら否定し捨て去られることによってプルシャが顕現するからである。

ここら辺は部派仏教も同じで、始めに戻るとサーンキャ学派や部派仏教はヨーガの伝統で言えば「止滅」系となる。

しかし、ヴェーダーンタ学派の不二一元論は「一切はブラフマンである」の最高の明知によって否定し捨て去られるべき虚妄な現象世界は聖化され否定し捨て去られるものではなくなっていく。

ここら辺は大乗仏教、とくに密教になると顕著となる。

ここでまた始めに戻ると不二一元論以降(実際はそれ以前からだが)、大乗仏教以降はヨーガの伝統で言えば「統御」系となる。

即ち相対分別を超えた「ありのままの完全なる世界」が常に顕現しているということ。

「汝はそれである」

とはそう言うことでしょう。

ここで最も大切なことは認識論と方法論を区別しなければならないと言うこと。

つまり「汝はそれである」から「それ」で良い。

これが認識論。

しかし我々は「それ」からしばしば離れてしまうから「それ」から離れないようにしましょう。

これが方法論。

認識論として「あるがままで完璧なんだ!」と言うことは分かった。

我々は本から覚ってることも分かった。

しかし、実感として湧いてこないし納得いかないし、何もしなくて良いのか?

ということになる。

だから方法論として「修行」がある訳だ。

これを

「信を本覚に置き、行を始覚にとる」

と言う。

つまり、ヴェーダーンタの不二一元論も仏教の本覚論も、さらに修験道の即身即身(そのままそのまま)もチベットのゾクチェン(大円満)も同じことを言ってる訳だ。

で、今までダラダラ長々と述べてきたことを要約するとゾクチェンの「六行の金剛の詩」となる。

「多様な現象の本性は、不二だ。

ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。

あるがままのものを定義できる概念などありはしない。

にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。

一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。」(永沢哲訳)

なので認識論と方法論が分からないで画像のヤブユムをみると





「ほッ…仏様…、なにしてるの!?」

となる。

特にタントリズムはその境界にないものには授けないと言うのもそういうこと。

だって、セックスすれば良いんでしょ?となっちゃうから(^o^)

それは理智不二を表してとか、定慧不二をとか言っても分からないと思うね。

見たものを見たまんま観てはいけない。

私としてはそれで良いんだが…(´▽`;)ゞ