明治維新」とは一体どこからが維新なのか、そして「維新」の本当の意味を御存知だろうか?

またこの時使われた様々なスローガンの本当の意味を改めて検討したいと思う。


○1853年 黒船来航。 

断って於くが先ず明治維新の勝者は長州藩であり、明治新政府はその長州藩が作ったと云うこと。

この時点で多くの史実は明治新政府(長州藩)に都合の良いように作り変えられており、江戸幕府や他の諸藩は悪役であるように伝えられているということである。


腐敗の為に不満の溜まった諸藩によって江戸幕府は既に崩壊寸前だった


無為無策で統治能力を失った徳川幕府に代わって薩長等の若い志士が立ち上がり、明治維新を成し遂げ、輝かしい近代国家を建設した


これらのことは江戸幕府を悪役にする為の真っ赤なウソである。

従って黒船来航以来様々な事件は起きるが、まだまだ日本は安泰であった。


◎「開国」と「攘夷

先ず黒船が来航し開国を要求した。この時に持ち上がった「開国」とはどう云う事なのか。

分かり易く云えば

国民と自由に貿易をさせろ

と云う事である。

 これによって諸外国は、国を弱体化させる為の物資を、それが麻薬でも最新式銃火器であろうと、いくらでも売ることが出来るようになる。

そしてタダ同然の食糧を長期にわたって輸入し国内の食糧生産業界を破綻させ、その後価格を通常に戻せばよい。

もうその国は、輸入に頼らなければ生きていけない国になる。

そして輸入品を買うと云うことは、日本の金が海外に流れると云う事である。

そしたら最終的には日本人は海外資本の奴隷に貶められることになる。

それが「開国」である。

断って於くがこの「開国」は「先進技術導入」では無い。

つまり「先進技術導入の為には日本が進んで植民地にならなければならない」と云う意味である。

即ちこの「開国」とは「植民支配受容」と云うことである。


これに対するのが「攘夷」(じょうい)。

攘夷」とは夷人(いじん)を攘う(はらう)と云うことで、「外国人を見たら斬って斬って斬りまくれ!そしたら怖くなって二度とやって来ようとは思わないだろう」と云うこと。

つまり「海外勢力を武力で追い出せ」と云う事である。

情報が乏しいその当時の人々がどれだけ世界の動向を知っていたのか分からないが、直感でこの結論に至ったのであるなら我が国の人々の直感力には底知れぬものがある。

そもそもが艦砲射撃で威嚇して「植民支配要求」を突きつけて来るような礼儀知らずな連中に、弱腰で接してどうするのか。


公議輿論公議政体

公議とは公正議論(公論)、輿論とは世間一般の議論(民意)のことである。そして、公議輿論派とは、公論民意に基づいて政治を行おうとした人々のことである。

これに第一に着手し、抜群の政治手腕を発揮し獅子奮迅の働きをしたのが名宰相、首席老中阿部正弘である。

まず阿部老中は一般情報公開、庶民からも意見を公募し、御三家代表の前水戸藩主徳川斎昭を幕政参与に任じ、親藩代表の越前藩主松平慶永と外様代表の薩摩藩主島津斎彬を幕政の相談役として、全員参加の民主的挙国一致体制を確立した。

この「情報公開による民主的対応」によって諸大名・幕臣のみならず、庶民からも多数の意見書が出され、後に「国民的議会主義への胎動」と評価された。

この公議輿論尊重の考え方の延長線上に公武合体論が展開され、さらにそれが西洋議会制度の知識で洗練されると、公議政体論が生まれてくることになる。


阿部老中が安政の改革で着手したことは、優秀な人材を登用し、海防技術を飛躍的に高め、徳川幕府の事だけでなく我が国の将来を視野に入れた偉大なる事跡であった。

安政四年、三十九歳の若さで没す。


○1858年 日米修好通商条約
       安政の大獄

○1860年 桜田門外の変 



この日米修好通商条約に端を発する「安政の大獄」や「桜田門外の変」などは、水戸藩と彦根藩が十四代将軍の継承をめぐって跡目・派閥争いをしていただけで「維新」ではない。

そしてこの時点で幕府の威光がもともと衰えていたのなら、こんな過激な争いにはなっていなかった筈である。

常識で考えても倒産寸前の会社の社長の座を巡って争う者はいないであろう。

従って未だ幕府は安泰。

実際、彦根藩の井伊直弼が暗殺され、水戸藩の徳川斉昭が亡くなると、両藩とも維新の歴史に関わらなくなって来る。


○1862年 公武合体 


公家たちの尊皇

黒船来航から始まった世情不安のなか、天皇を担ぎ出して幕府と対立し、日本の内戦を誘うような動きが過激公家から出てきた。

この過激公家たちから出た「尊皇」とはこの混乱を機に幕府から権力を奪うためのスローガンで、幕府や諸藩が天皇に対して「尊ぶ」と云う意味と違う。つまりこの時点での公家たちの「尊皇」とは「幕府は自分達の下に就け!」と云うこと。


公武合体論

この状況に対処するべく天皇家と徳川家の婚姻を実施し、公武の分裂と対立を未然に防ごうとした。

それが和宮降嫁による「公武合体論」である。

公武合体論とは、朝廷と幕府、諸藩が一致協力して国政を運営しようとする考え方である

そもそも幕府を弱体化してどうやって攘夷すると云うのか。

攘夷にしても、外交で立ち回るにも、日本が一丸となって立ち向かわなければどうしようもない。

それに孝明天皇は将軍家茂を深く信頼していた。

だからこそ孝明天皇は公武合体に賭けたのである。


そしてこの公武合体はそのまま幕権強化論の一部となる。


幕権強化論(佐幕)

攘夷論で外国人を威嚇するのは良いが、相手が引き下がらなかったらどうするのか?

長く続いた太平の世とは云え幕府は専門戦闘集団である武家の元締めであり、将軍は武家の棟梁である。冷静に戦略を立て国家総動員で長期戦の構えでいれば決して負けることは無かったであろう。戦国時代には世界の銃火器の三分の一を我が国は保持していたのである。

しかし、そうなれば甚大なる犠牲が出るのは間違いない上、軍事技術が遅れていたのは事実であるし、何よりその最新式軍事技術や高性能銃火器を目の当たりにした幕府は、当然それを欲しがった。

その最新式軍事技術を手に入れ迫り来る外圧に対抗すれば、攘夷も可能になり対等に外交が出来る。

海外諸勢力をそれぞれ競合させることによって牽制させ合い、好条件に協力してくれる国を選び、最新式軍事技術を提供させる。

その為には外交窓口を幕府に一本化させる必要があり、幕府の権力を上げる必要がある。

それが「最新武装技術導入外交窓口一本化幕権強化論」である。

つまり攘夷断行の為には最新式軍事技術が必要であり、その為には一旦は開国(決して植民支配受容では無い)し武力を高め、それを円滑に行う為に幕府の権限を強化すると云うことである。

実際に黒船来航から幕府は財政の総力を挙げ、死に物狂いで近代型海軍創設に当たり、十四年の歳月を掛け慶応三年には対米七割の幕府海軍を整備した。


この頃から攘夷テロが散発し出すが、同年に発生した「寺田屋事件」は薩摩藩の名君島津斉彬の跡目を、島津久光が継いだことに端を発する薩摩藩のお家騒動である。


その島津久光にかかわる「生麦事件」は、日本人をナメきった不良英国人たちによる狼藉で、薩摩藩に非は無い。

従ってこの時点でも未だ幕府は健在、「維新」でも無い。


ここまでのスローガン

幕府= 尊皇攘夷の為の開国
天皇= 佐幕攘夷
長州= 佐幕尊皇攘夷
薩摩= 佐幕尊皇開国



しかしこの年・・・

1862年の夏、上海から国家転覆を企む男がひとり、日本に帰って来たことから歴史の歯車が狂い出す。


即ち長州藩を過激な倒幕運動に導き、日本にテロリズムの嵐を巻き起こす高杉晋作である。

ここからが倒幕テロリズム開始の年となる。


<つづく>

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