ある日の職場の昼休みのこと。

 

NHKの「日本百低山」という番組にて、私淑する吉田類さんが

 「かつてこの山でシュゲンドウが修行した」

云々と紹介していたのを見た。

類さんさすがだ!

 

「シュゲンドウ」

漢字で書くと「修験道」、いわゆる「山伏」のことらしい。

言葉は聞いたことがあるが、そもそも「山伏」とは何者なのか。

すぐさま調べてみた。

 

  山伏とは?

    山を神様や仏様に見立てていて「山に伏す」と表す。

    山にある神が宿るとする機や岩などの自然物を拝みながら山中を駆け巡り、

    厳しい修行に挑むことで自らの力を高め、

    人間の潜在的な能力を引き出す存在とされている。

 

                       (『つるおか観光ナビ』より)

 

 

これを見て、筆者と共通点を見出さずにはいられなかった。

寧ろ筆者のことを言っているのでは?と思ったくらいだ。

 

つまりこうだ。

 

   山に伏す → 自然の中で活動する

   自然物を拝みながら → 自然への畏敬を重んじる

   山中を駆け巡り → 徒歩で向かう

   厳しい修行 → 30キロ弱の重荷を担ぐ

   自らの力を高め → そのためのトレーニング

   人間の潜在的な能力を引き出す → 原始的なキャンプ 

 

 さすがにホラ貝までは持たない。

キャンプ場で鳴らすと、おそらく苦情に発展するだろう。

だが、クマよけに錫杖(しゃくじょう)は持ってもいいのではと思ってしまった。

   ↑この棒

 

こんな人がキャンプをしていたら、皆、お布施をしたくなるに違いない。

はっきり言ってめちゃカッコイイ!

そう感じるのは筆者だけか?

 

 

昨今の快適でかっこいいキャンプとは一線を画し、

いわば、キャンプの「原理主義」「原点回帰」を(ひとりで勝手に)目指す。

そこに人間の本来の生き方・在り方を(ひとりで勝手に)問う。

 

それが

 「プロジェクト山伏(project.yamabushi)」

なのだ。

 

 

無性に山に登りたくなった。

昨今のキャンプ人気。ここ数年で整備された「高規格キャンプ場」。

お湯は出ちゃうわ、レンジは使えちゃうわ、ウォシュレット完備だわ。

そして今やキャンプ場にWi-Fiまで飛ぶ始末。

親としては、キャンプの時くらいは子供にスマホやゲームから離れ、

自然と触れ合ってもらいたいという切なる思いとはおよそ逆行する始末。

 

筆者も何度かファミリーキャンプでお世話になったことがある。

確かに快適ではある。特にビギナーにとっては安心だ。

しかし、時にそのベクトルはどこを向いているのかわからなくなるのは筆者だけか。

キャンプ場が過度に快適性を求める傾向に一石を投じたい。

 

 

「キャンプ場は他人の敷地である」

 

そもそもだが、キャンプ場は「人の家にお邪魔する」ようなものだ。

家人のおもてなし方に差異はあるかもしれないが、

「台所はこっちにあったほうが便利」「コンセントがない」「トイレが少ない」と

客人が人の家の間取りにケチをつけたり、

「部屋の片隅に埃が溜まっている」「トイレの清掃が行き届いていない」と

小姑のごとく粗探しをしたり、

ましてや普通の人間なら人の家の調度品に火をつけて焦がしたり、

ごみを座布団の下に隠して帰るようなことはしないだろう。

仮にそんな客人が我が家に来ようものなら、

筆者はぶぶ漬けをブッかけて塩を撒くに違いない。

 

「こっちはカネを払っているお客様だぞ」感覚は、キャンプでは捨てたほうが良い。

(キャンプに限らず人として捨てたほうがいいが)

そもそもキャンプ場は「費用対効果」を求める場所ではない。

支払った使用料はお客様へのサービスとしては還元されず、

おそらくその大半はキャンプ場の維持・管理に使われるはずだ。

支払った金額に対しての快適性を求めるのなら、

あえてキャンプなどせず、寧ろ温泉宿にでも行ったほうが得策だ。

 

 

「与えられた環境で何とかせよ」

 

第一話でも書いたが、キャンプは本来、「原始生活伝承技術」であるはず。

(川崎憲一郎氏の言葉を借りた)

筆者は「与えられた環境下でいかに一晩を過ごすか」がキャンプの原点だと信じて疑わない。

そこがブレるから快適性があらぬ方向へ向かってしまうのだと思う。

 

これは人間社会でも同じではないか。

あれが欲しいだの、これが足りないだの、無いモノに目を向けても前に進まない。

現在あるモノで何とかするのが適応力・応用力、ひいては人間力のはず。

 

 

よって、筆者には、あそこのキャンプ場は良かっただの悪かっただの、

キャンプ場を評価する資格は毛頭無いと思っている。

筆者はミシュランでも何でもない、一介の中年公務員だ。

そもそも無名の中年男性の評価など、あてにすべきではない。

 

 

温泉やシャワーが無ければ、水でも浴びればいい。

薪が無ければ、そこらに落ちている枝を拾えばいい。

食べ物が無ければ、野草でも摘めばいい。

唯一キャンプ場に求めるのは「夜の静寂」この一択である。

 

客が突然、人の家で夜中まで酒宴をやろうものなら、

ブブ漬けをぶっかけて塩を撒く、この一択である。

今度からお茶漬けを持ち歩こうと思う。

 

 

そこまで言うのなら、キャンプ場へ行かずとも、

そこらの河川敷で野営でもいいのではと思う時がある。

その通りだ。

筆者のベクトルもどこへ向かっているのか、時折わからなくなることがある。

 

キャンプには正解は無いのだ。

これはキャンプに関わるいろんな人が口を揃えて言っている。

そう、これが正解かどうかもわからない。

「何を持つかではなく、何をするか」

徒歩キャンプを続けていると様々な気付きがあった。

これはその一つである。

一人でただ酒を飲んだくれて酔っぱらって寝ているだけではないのだ。

 

あれこれ積めるクルマと違い、背負子では限られたギアしか持参できない。

現在の筆者の経験と体力では、せいぜい30kgちょっとが関の山である。

筆者がドゥエイン・ジョンソンであれば話は別であるが、

お察しの通り、筆者はドゥエイン・ジョンソンではない。

そもそもドゥエイン・ジョンソンはおそらくアメブロはしないだろう。

一応検索したが、アカウントは無いようだ。

 

当初、徒歩でキャンプで行くことを想定していなかったので、

テントをはじめとするギアは基本、重いまま・デカいままである。

何より腐心するのは食糧問題。特にだ。大体不足する。

水分は重く、意気込んで酒を持ち過ぎると、結果、自分の首を絞めることになる。

酒場詩人の吉田類さんはNHKの番組で百低山に登っているが、

さすがの類さんも酒まではリュックに詰めていないだろう。

仮に酒を背負って登山していたら、筆者は尊敬を超えて崇拝する。

 

よって「何を持ち、何を置いていくか」を選択することが肝要である。

そして、それは四十路の人生観に似ていると思う。

人生の折り返しを迎え、時間的資源はいよいよ限られてくる年である。

残りの人生、これから何をして、何をやめるか。

 

これからは、そういう不必要なものを削っていく作業。

そうして無駄なものが淘汰され、残ったものが洗練されていく。

そんな確固たる信念というか矜持を秘めた人は、きっと強い。

 

なお、類さんは「酒場詩人」を名乗るうえで疑念を持たれぬよう、

既に運転免許証を返納したらしい。

この事実だけでも、もはや崇拝に値する。

 

大きなクルマからギアを一生懸命下ろして、まるで展覧会のごとく、

様々なアウトドアギアをサイトに並べているキャンパーを見てそう思った。

決してひがんでいるわけではない。

ギアは現地で使うあてがなければ、ただの重荷に過ぎないと言いたいだけである。

それは腹回りの贅肉と本質的に同じではなかろうか。

断じてひがんでいるわけではない。

 

高価なモノは(後先考えずクレジットカードを切れば)筆者だって持てる。

明日にでもブランドスーツや高級腕時計で身を固め、ベンツの2~3台は転がせる。

ただ、筆者はそれをしない。

「所有すること」が目的ではないからだ。

あと、筆者がアメリカの肉体派人気俳優ではなく、一介の中年公務員だからだ。

 

 

「そのモノであなたは何をするか?」

それが筆者の判断基準である。

ただ欲しいだけの、目的のないモノは、所有しない。

筆者の息子たちにも赤子のころから言い聞かせている。

「欲しい」と「必要」は明確に異なるのだ。

だから、声を大にして言いたい、「それは必要ですか?」

 

 

要するに、ギアに頼りすぎるキャンプに一石を投じたい。そんな思いだ。

こんなことをあまり書きすぎると、通常なら炎上するかもしれないが、

なんせ読者はほぼいないので、そんな心配もする必要がない。

けど、ごくまれにここへ迷い込む方もいるだろう。

そんな方の気分を害さないよう、一応これだけは断っておきたい。

 

 

 

 

 

 

筆者はドゥエイン・ジョンソンも吉田類さんも好きだ。

理想を具現化するとこうなる。

 

 

崇拝すべくこのお姿で仏像でも建ててここでアップすれば、

さすがに多少の読者が付くだろう。

しかし、それはしない。

 

なぜならば、筆者は一介の中年公務員だからである。

そんな金銭的・時間的資源はないのだ。

 

 

 

 

 

何の話でしたか?