経済学者 斎藤幸平 著
❶加速主義
第4章では、晩年のマルクス思想に基づく「コミュニズム」について考えてきた。しかし、コミュニズムと一口にいっても、様々なものがある。
その中には、経済成長と技術革新を加速させたその先にコミュニズムを実現しようとするものもある。それが、近年欧米で支持を集めている「左派加速主義」である。しかし、これは「生産力至上主義こそがマルクス主義の真髄である」という150年あまり続いた誤解の産物にすぎない。
イギリスの若手ジャーナリスト、バスターニは、この加速主義の可能性を追求して「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」を提起し、人気を博している。環境問題を含む様々な問題は、近年著しい発展を見せている新技術によって一挙に解決できると、彼は主張している。
●牛を育てるには、膨大な土地や飼料を必要となる問題は、人工肉で代替すればいい。
●人々を苦しめる病気は、遺伝子工学の発展によって解決できる。
●電力問題は、無限で無償の太陽光エネルギーでまかなえる。
●地球の資源問題は、宇宙資源採掘の技術が発達すれば、月や小惑星から資源を得られる。
●地球の温暖化は、成層圏に硫酸エアロゾルを巻いて太陽光を一部遮断し、地球を冷却できる。海洋に鉄を散布して水中を肥沃化させ、植物プランクトンを大量発生させ、光合成を促進できる。
もちろん、これらの技術は実用化される見込みもたっておらず、商業化されたとしても全く採算が合わない。そして、倫理的な問題や、生態系や人々の生活にもたらされる副作用の問題などは、脇に置かれている。
しかし、バスターニは「ムーアの法則」による指数関数的な技術開発のスピードによって、近い未来、これらの技術が実用化されるものと、楽観視している。
この楽観的予想こそ、晩期マルクスが決別した生産力至上主義の典型である。近年、このような加速主義を「エコ近代主義」と呼ぶ。
エコ近代主義の問題点は、開き直りの態度にある。『ここまで環境危機が深刻化してしまったのだから、今さら後戻りはできない。自然との共存を目指すのではなく、技術革新によってすべてのものを人工的に管理しよう。』と考えている。
しかし、これは第2章で見てきた「緑の経済成長」の欺瞞そのものであり、「犠牲の転嫁」が繰り返されることが容易に想像できる。地球環境の持続可能性と、無限の経済成長の両立は、原理的に不可能なのである。そして『すべてのものを人工的にコントロールする』というのは、人類の思い上がりともいえる思想ではないだろうか。
❷政治主義
「政治主義」とは、議会民主制の枠内での投票によって良いリーダーを選出し、その後は政治家や専門家たちに制度や法律を任せればいいという発想である。
しかし、この政治主義では、「未来に向けた政策案はプロに任せておけ」という考えが支配的になり、1つ1つの政策についてのデモ活動や署名活動といった市民による直接行動が、排除されるようになる。
こうして、一般市民の素朴な意見は、専門家の見解がもつ権威の前に抑圧されることになる。政治主義的なトップダウンの改革は一見効率的に見えるが、その代償として、民主主義の領域を狭め、参加者の主体的意識を著しく毀損する。
民衆の政治参加が衰退した選挙政治は、資本の力によって必ず限界に直面する。選挙のイメージ戦略による動員合戦は、リソースの量で勝敗が決まるからである。選挙によって選出された政府の力だけでは、資本の力を超える法律や政策を施行することはできない理由がここにある。だからこそ、市民の直接的な政治活動や社会運動を通じて、政治的領域を拡張していく必要がある。
その一例が、近年欧米で注目されている「気候市民議会」である。市民議会が一躍有名になったのは、イギリスの環境運動「絶滅への叛逆」とフランスの「黄色いベスト運動」の成果である。これらの運動は、背景は異なるものの、どちらも道路や橋を閉鎖し、交通機関を止め、都市機能を麻痺させ、日常生活に大混乱をもたらした。
「黄色いベスト運動」で、マクロン大統領が厳しい批判を受けたのは、化石燃料税を引き上げながらも、二酸化炭素排出の多い富裕層に対する富裕税を削減しようとしたためであり、さらには、地方の公共交通機関を削減し、自家用車必須の生活を人々に強いてきたためである。
この過激な運動の結果、全国の自治体で集会を開催され、150人規模の市民議会を設立されることになった。そして、2030年までの温室効果ガス40%削減に向けての対策案の作成が、市民議会に任されたのである。2020年には、この市民議会によって150の対策案が提出された。
民主的な政治への市民参加は、市民議会という形で実現され、ついには具体的な政策案になったのである。議会民主制を刷新し、政府に直接働きかけて、政治を変えることを、この市民議会の試みは証明したのである。
❸「資本の包摂」による無力化
資本主義における科学技術やシステムの発展により、私たちの生活が快適で便利になったことは間違いない。しかし、システムに依存しきっている私たちがかつてないほど「無力」になっていることもまた事実である。
資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることができなくなっている。そして、その快適な生活に慣れ切ってしまい、別の社会を思い描くことができないのである。
様々な技術を、誰のためにどう使うかについて構想して、意思決定をするのは、豊富な知識や情報をもっている一握りの専門家や政治家だけになる。その結果、資本主義社会では資本家や富裕層に有利な制度や法律がつくられていく傾向にある。
❹技術と豊かさ
生産力至上主義と決別した晩年のマルクスは、科学やテクノロジーを否定しているわけではない。様々な科学技術を、一部の資本家や投資家のためではなく、多くの一般市民のために活用できる社会システムを構想していたのである。
専門家や政治家に任せるだけの生産システムは、資本に取り込まれ、民主主義の否定につながると、マルクス主義者のアンドレ・ゴルツは指摘している。その上で、ゴルツは「開放的技術」と「閉鎖的技術」の区別が重要性を述べている。「開放的技術」とは、協業や社会交流を促進する技術である。「閉鎖的技術」とは、生産物やサービスの供給を独占し、消費者を奴隷化する技術である。
「閉鎖的技術」はその性質からして、民主主義的な管理には馴染まず、中央集権的なトップダウン型の政治を要請する。このように、技術と政治は無関係ではない。特定の技術は、特定の政治形態と結びついているのである。そして、バスターニなどの加速主義者が提唱する革新的な科学技術は、「閉鎖的技術」に他ならない。その先にあるのは、一部の権力者による技術やシステムの独占であり、私たちは一層無力になるであろう。それを回避するために必要なのが「開放的技術」である。人々が自治管理の能力を発展させることができるテクノロジーの可能性を探らなくてはならない。
私たちは、資本主義が豊かさや潤沢さをもたらしてくれると考えているが、そこに疑問を持つべきではないだろうか。世界で最も裕福な資本家26人は、貧困層38億人(世界人口の半分)の総資産と同額の富を独占している。地球環境は後戻りの効かないほど急速に破壊されている。これが本当に公平で豊かな社会と言えるだろうか?資本主義に代わる新しい社会を構想するためには、「豊かさ」や「幸福」というものについて深く考え、再定義する必要があるのではないだろうか。