~原始仏典 スッタニパータ 第3章 第9節 ヴァーセッタ より~(内容要約)
630 ”敵意” ある者どもの間にあって ”敵意” なく
”暴力” を 用いる者どもの間にあって ”心穏やか” で
”執着” する者どもの間にあって ”執着” しない人
~かれを 私は バラモンと呼ぶ。~ (以下この部分省略)
631 芥子粒が 錐の先端から 落ちたように
”愛著(愛欲への執着)” と ”憎悪” と
”高ぶり” と ”隠し立て (自分の過ちを隠蔽すること)” が
”脱落(消滅)” した人
632 粗野ならず ことがらを はっきりと伝える
”真実の言葉” を 発して
”言葉” によって 何人の感情も 害することがない人。
633 この世において 長かろうと 短ろうとも
繊細で あろうとも 粗大で あろうとも
浄かろうとも 不浄であろうとも
”与えられていないもの” を とらない人(盗まない人)
634 ”現世” も 望ます
”来世” も 望まず
”欲求” も なくて ”とらわれ” の ない人
635 ”こだわり” が あることなく
”さとり” 終わっていて
”疑惑” が なく ”不死の底” に 到達している人
636 この世の ”禍福(悪いこと・良いこと)
いずれにも ”執着” することがなく
”憂い” なく ”汚れ” なく ”清らかな人”
637 曇りのない 月のように
”清く” ”澄み” ”濁り” が なく
”歓楽の生活” が 尽きている人。
638 この ”障害” ”険道” ”輪廻(りんね・さまよい)”
”迷妄(めいもう・無知) を 超えており
”渡り終わって” いて ”彼岸” に 達しており
”瞑想” して ”興奮” することがなく
” 疑惑” が なく ”執着” が なくて ”こころ 安らかな人”
~かれを 私は バラモンと呼ぶ。~
こんにちは
私たちは なぜ この世界に ”人間” として 生きているのか?
その ”基本的な命題” を 人類は これまで さまざまに 考えてきました。
そして さまざまな ”思想家” や ”哲学者” も 登場してきました。
私自身も ”基本的な命題” について これまで いろいろと 考えて参りましたが・・・
その ”明確な解答” は ”ブッダの教え” によって 導かれるようです。(※)
それは 私たちが ”人間” に ”生まれた” という意味は・・・
この宇宙の中で ”苦しむ存在” として ”生きなければならない” ということであり・・・
私たちは その ”不幸な次元” からの ”脱出” が 必要である・・・ ということです。
私たちが この人生で あれこれと ”苦しむ” という 諸現象は・・・
これは 自分自身が ”不完全な存在” であることの 証拠であり・・・
私たちは この宇宙の中で ”完全な存在” へ ”移行する” ことが 必要です。
そして その ”有効な方法” を 説いていたのが ”ブッダの教え” なのです。
今回の記事で 取り上げている 第3章 第9節 の内容も・・・
それぞれの詩経が 人間としての ”完成像” を 示しているものです。
つまり 私たちは ここに 書かれている 内容を・・・
”ひとつ残らず” この人生で ”実現する” ことが 必要なのです。
それが できなければ 私たちは ”死後の来世” においても・・・
”不完全な存在” として つまり ”苦しむ存在” として・・・
ふたたび ”長い時間” を 生きなければ ならなくなるのです。
まず 630の 詩経の内容から 見てゆきますと・・・
”敵意” ”暴力” ”執着” とは・・・
私たちが 毎日の生活で あたりまえのように 遭遇する 現象です。
私たちは 日常生活において ”人間関係” で さまざまに 悩みます。
そして ”嫌いになる人間” が 登場すると そこで ”敵意” が 発生します。
さらに その相手を ”落としめたい” ”排除したい” と 思うことにも なりがちで・・・
その結果 さまざまな ”暴力(言葉の暴力も)” を 用いようとも するわけです。
その理由は 自分自身に ”こうあるべき” というような ”執着心” が あるからです。
そして この世界では さまざまな ”争乱” が 起こっているわけです。
しかし ブッダは そのような 状況下においても・・・
”敵意” ある者どもの間にあって ”敵意” なく・・・
”暴力” を 用いる者どもの間にあって ”心穏やか” で・・・
”執着” する者どもの間にあって ”執着” しない人・・・
・・・で あり続けなさい と 説いているわけです。
それこそが 私たちが ”完成された人間” のための ”条件” に なるからです。
それが 何を 意味しているのか?
それは 人間世界での ”争乱” の ”原因がない” ことを 意味します。
日常において ”争乱がない” というのは・・・
私たちにとっての ”平穏の状態” を 意味することになります。
そして ”その状態” こそが・・・
私たちにとっての ”真の幸福の状態” と 考えられます。
ゆえに そのあとの 631以降の 詩経の内容である・・・
”愛著(愛欲への執着)” と ”憎悪” と ”高ぶり” と ”隠し立て” とは・・・
私たちが 自分自身の ”こころを乱す原因” なのであり・・・
それが やがて 他人との ”争乱の原因” と なってしまうわけです。
ブッダは その ”原因そのもの” を ”消滅させなさい” と 説いているわけです。
さらに 続きの 内容である・・・
”真実の言葉” によって 何人の感情も 害することがない・・・
”与えられていないもの” を とらない(盗まない)・・・
この世の ”禍福(悪いこと・良いこと) いずれにも ”執着” することがなく・・・
”憂い” なく ”汚れ” なく ”清らか” である・・・
そして ”瞑想” して ”興奮” することがなく・・・
”疑惑” が なく ”執着” が なくて ”こころ 安らかな人”・・・
こころが ”曇りのない月” のように ”清く” ”澄み” ”濁り” が なく・・・
”歓楽の生活(興奮する生活)” が 尽きている・・・
これらも すべてが 自分自身を・・・
”平穏の状態” に するための ”条件” を 意味しているのです。
そして それらが 実現されると どうなるのか?
すると その人は (人間としての) ”現世” も 望ます・・・
さらには ”来世” も 望まず・・・ということになります。
その理由は ”人間・生物としての一生” というものが・・・
”苦しみそのもの” であることを その人は 理解しているので・・・
そのような ”不幸な存在” になることを ”望まなくなる” ので・・・
その人は ”生まれ変わること” を ”望まなくなる”・・・という意味なのです。
そして 635の 詩経である・・・
(人間・生物への) ”こだわり(執着)” が なく ”さとり” 終わっていて・・・
この世界への すべての ”疑惑” が なくなると・・・
”不死の底” に 到達する・・・というのは・・・
”不死” とは ”死のない存在” を 意味しており・・・
それは この宇宙の中での ”生物の次元” を ”超越する存在” を 意味します。
それが 638の詩経の 内容である・・・
”(人間としての)障害” ”険道(苦しみの道)”・・・
”輪廻(りんね・人間・生物に 生まれ変わること)”・・・
”迷妄(めいもう・無知な状態) を 超えている・・・という段階が・・・
”渡り終わっている状態” を 意味するのであり・・・
それが いわゆる ”彼岸(ひがん)” に 到達する ことを 意味するのです。(※)
仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダ は・・・
私たちが ”人間 に 生まれた” という 事実は・・・
この宇宙の中で ”苦しむ存在” として ”生きなければならない” ということであり・・・
私たちは その ”不幸な次元” からの ”脱出” が 必要である ということに・・・
一刻も 早く ”気づきなさい” と 説いているのです。
そして 私たち 人類に対して・・・
”人間の完成” を 一日も 早く 実現することが 必要であり・・・
私たちは ”毎日の生活” を それを 目的にして 生きるべきなのです。
それが できなければ 私たちは この先も ずっと・・・
さらには ”死後の来世” も ずっと ”苦しむ存在” として・・・
この世界で ”苦しみ続ける” ことが 待っているからです。
私たちが この宇宙の中で ”苦しみのない存在” に なるには・・・
まず 自分自身を ”完成された人間” に することが 必要なのです。
次回の記事でも この続きの内容を 考えます。
(※) ブッダの教えによる ”不死” についての 内容である・・・
”不死 の 意味とは?” の 記事は こちらからお読み下さい
”彼岸” の 意味についての 内容である・・・
”ブッダの教え 彼岸へわたる とは?” の 記事は こちらから お読み下さい
また 世界の思想における ”ブッダの教えの意義” を 考えました・・・
”ブッダの教えが 最強である理由 ①” の 記事は こちらから お読み下さい