~原始仏典 スッタニパータ 第3章 第9節 ヴァーセッタ より~(内容要約)
ブッダは ある時 イッチャーナンガラ村の 林の中に 滞在していた。
村には 大富豪としての 多数の バラモンたちがいて・・・
ヴァーセッタ と バーラドヴァージャ という 二人の修行者もいた。
ふたりは どうしたら ”バラモン(最高の修行者)” になれるかを 議論してたが・・・
しかし かれらは 満足な答えを 導き出せずにいた。
そこで 現在 聡明なブッダが この村にいることを 知っていたので・・・
ふたりは ブッダのところを 訪れることにした。
599 ゴータマ・ブッダに われらは お尋ねします。
”生まれ” によって ”バラモン” で あるのでしょうか?
あるいは ”行為” によって ”バラモン” と なるのでしょうか?
”バラモン” の 何たるかを 教えて下さい。
600 (ブッダが 答えた)
ヴァーセッタ よ そなたのために・・・
諸々の生物の ”生まれ(種類)の区別” を あるがままに 説明しよう。
それらの ”生まれ” は いろいろと 異なっているからである。
601 草 や 木にも ”種類の区別” の あることを知れ。
しかし かれらは ”われらは 草である” とか・・・
”われらは 木である” とか・・・”言い張る” ことはない。
彼らの 特徴は ”生まれ” に 基づいている。
彼らの ”生まれ” は いろいろと 異なっているのである。
602~606
ウジ虫 コオロギ アリ 小さなもの 大きなもの 四足獣・・・
腹を足として 背の長い 這うもの(蛇・とかげ) 水の中の魚 飛ぶ鳥・・・
彼らの 特徴は ”生まれ” に 基づいている。
彼らの ”生まれ” は いろいろと 異なっているからである。
607 (その一方で)
人類には そのように・・・
”生まれに基づく特徴” が いろいろと 異なっている ということはない。
608~610
髪 頭 耳 眼 口 鼻 唇 眉 首 肩 腹 背 尻 胸 陰部・・・
交合 手 足 指 爪 すね もも 容色 声・・・など
他の生類の中に あるような ”生まれに基づく特徴” の ”区別” は・・・
人類の中には 決して 存在しない。
611 身(身体) を 受けた 生き物の間には それぞれ ”区別” が あるが・・・
人間の間では この ”区別” は 存在しない。
人間の間で ”区別表示” が されるのは・・・
ただ (言葉による) ”名称” のみ。
612~619
農夫 職人 商人 傭人 盗賊 武士 司祭者 王など (区別されるが)・・・
かれらは ”バラモン” ではない。
620 (仮に) ”バラモンの女の胎(はら)” から 生まれ・・・
バラモンの女から 生まれた人は (それだけで) ”バラモン” とは 呼ばない。
かれは 何か ”所有物の思い” に とらわれている。
”無一物” で ”執着のない人” かれを わたしは ”バラモン” と 呼ぶ。
こんにちは
先月の記事では 人間にとっての ”愛” について 考えました。
皆様も それぞれ ご自身の これまでの お考え方を 再考されたと 思われます。
今月からは 再び 原始仏典 スッタニパータの 内容に戻ります。
今回の記事から 取り上げます 第3章 第9節の内容は・・・
かなり長い内容ですので 要約したものを ご紹介いたします。
皆様も 原典である ”ブッダのことば スッタニパータ” (岩波書店版) とともに・・・・
ここからの記事を お読みいただきたいと 思います。
ここでの内容は ブッダが 生きていた当時の インド社会における・・・
”バラモン教” における 修行者たちとの エピソードが 書かれています。
ブッダ自身も もともとは ”バラモン教徒” で あったわけで・・・
彼自身も ”最高の地位” としての ”バラモンとは 何か?” について 探究しました。
その内容を 訪ねてきた 修行者に 説いているという 場面です。
ここで 説かれている内容 というのは・・・
私たちが 日常で さまざまなことを ”区別する” ということが・・・
ほとんど ”無意味である” ということが 説かれています。
”生まれ(種類)の区別” というのは・・・
人間や その他の生物を ”区別する” という ”認識の次元” です。
それは ”視覚的” にも ”明らかに 異なっている” と 認識することです。
たとえば ”人間” と ”犬” と ”猫” とは・・・
”まったく 別の種類の生物” と 認識することです。
それが 人間としての ”認識の次元” です。
しかし そこには 私たちに ”言葉” という ”認識の媒体” が 存在しており・・・
それは ”人間独特” の ”認識の方法” と 考えられます。
それは 601の詩経の・・・
草 や 木にも ”種類の区別” の あることを知れ。
しかし かれらは ”われらは 草である” とか ”われらは 木である” とか・・・
”言い張る” ことはない・・・ という内容が そのことを 示しています。
実際問題として ”植物” や ”他の生物” では・・・
たしかに ”言葉を使っている” という現象は ”見い出せない” わけです。
ブッダ自身も そのことを 言っているわけですが・・・
もしかすると かれらは ”言葉以外の手段” で ”認識” していることも あり得ます。
しかし ここでは そのことを 問題にするのではなく・・・
私たち ”人間” における ”認識の問題点” を 説いていると 考えられます。
つまり ここで 何を ブッダは 重視しているのか?・・・
それが 608~610で 示されている 内容である・・・
髪 頭 耳 眼 口 鼻 唇 眉 首 肩 腹 背 尻 胸 陰部・・・
交合(性交) 手 足 指 爪 すね もも 容色 声・・・などに おいては・・・
他の 生類の中にあるような ”生まれに基づく特徴” としての ”区別” は・・・
人類の中には 決して 存在しない。・・・ という 内容です。
つまり 私たち ”人間” というものは・・・
すべての人が ”共通” なのであり・・・
すべての人が ”平等” ということです。
それは 私たちが ”人間” として 生まれてきた 以上は・・・
すべての人が ”同じレベル” で 存在している ということを 意味しています。
それゆえに 私たち 人類は・・・
すべての人が ”同じ問題” つまり ”共通する問題” を 抱えているのです。
それが ”人間” としての ”生物” としての ”苦しみの問題” なのであり・・・
それを この人生で ”如何に 解決するか?” ということが 重要なのです。
そこが 私たちの ”認識” における ”スタート地点” なのであり・・・
私たちは そこに立って 初めて ”ブッダの教え” を 理解できるのです。
ゆえに 私たち 人間は すべての人が ”同じ次元” に いるのであり・・・
それゆえに ”区別” も ”差別” も ”ナンセンス” である ということです。
つまり 私たちは 同じ 人間同士で ”争っている” 場合では ないわけです。
私たちは そのような ”低次元の争い” に 目を 奪われるのではなく・・・
私たちにとっての ”本当の問題” を ”認識” しなさい・・・
つまり ”本当の問題” とは 私たちが ”なぜ 苦しむのか?” ということです。
それは 私たちが ”人間” や ”生物” であることが その ”原因” です。
つまり ブッダは ”人間の次元” そして ”生物の次元” からの・・・
完全なる ”脱却(解脱・げだつ)” を 目指すべきである ということを・・・
私たちに ここで ”暗示” していることを 理解すべきなのです。
原始仏典における ”バラモン” という 言葉は・・・
人間としての ”最高の地位” を 表現するものであり・・・
私たちの ”人生の目標” を 意味するものです。
つまり 私たちが どうしたら ”人生の目標” を 達成できるか?
私たちが どうしたら この人生を ”完成” できるのか? ということを・・・
ブッダが 人類に 具体的に 説いていたのが 原始仏典に 記されています。
そして ブッダは ”人間の完成” を 目指すのであれば・・・
”生まれながら” の ”社会的な地位(バラモン階級)” などは 意味がなく・・・
自分自身が ”無一物” という ”何も所有しない” という状態・・・
すべてのことに ”執着しない” という状態が 必須であると 説いています。
これが この世界での ”本当の意味” としての・・・
”最高の地位” に なるための ”成立条件” と 考えられるわけです。
私たちは この世界で ”さまざまなもの” を ”獲得” しようと 努力してきました。
それによって ”さまざまなもの” を ”所有” してきました。
そして ”さまざまなもの” に ”執着” してきたようです。
そのことを 私たちは これまで ”愛” という言葉を 使うことによって・・・
自分自身を ”正当化” してきたようです。
しかし このような 私たちが 気づかなかった ”完全なる誤り” によって・・・
人生における ”大きな苦しみ” を 次々と 発生させて いるようです。
皆様も ここで ご自身の ”人生の目標” について 改めて お考えになり・・・
ご自身の ”苦しみの原因” についても お考えになってみては いかがでしょうか?
次回の記事でも この続きの内容を 考えて参ります。
(※) ”無一物” になるための 考え方についての 内容である・・・
”所有という 考え方を 捨てる” の 記事は こちらから お読み下さい