~原始仏典 スッタニパータ 第3章 第6節 サビヤより~
(サビヤが 質問した)
518 どうして ”沐浴を済ませたもの” と 呼ぶのですか?
どうして ”竜” と 呼ぶのですか?
先生! 私に 説明してください。
(ブッダが 答えた)
521 全世界のうちで 内面的にも 外面的にも・・・
一切の ”罪悪” を 洗い落とし・・・
”時間” に 支配される・・・
”神々” と ”人間” とのうちに ありながら・・・
”妄想分別” に おもむかない人・・・
(注釈では ”時間に 制約・支配されない人” という解釈です)
かれを ”沐浴を済ませた者 (浄化された者)” と 呼ぶ。
522 世間のうちにあって いかなる ”罪悪” を 作らず・・・
一切の ”結び目(執着)” や ”束縛” を 捨て去り・・・
いかなることにも 囚われることなく ”解脱(げだつ)” している人・・・
このような人は まさに ”竜 (仏の称号・悟りを得た者)” と 呼ばれる。
こんにちは
私たちは 現在の 日常生活のなかで・・・
日々 ”時間” に 追われて 生きています。
それは この人間社会が ”時間” によって ”統制” されているからです。
そうでないと この人間社会は ”大混乱” してしまいます。
それによって 私たちは ”時間” に ”支配” されているようです。
しかし ”時間” というものは・・・
この世界の ”変化” という 現象の・・・
その ”根本的な原因” であることも 理解できます。
たとえば 身の回りにある さまざまな物が ”老朽化する” ということも・・・
自分自身の ”肉体的な機能” が ”老いる” ”衰える” ということも・・・
それは すべて ”時間の経過” によって 起こっているのであり・・・
私たちは それによって ”苦しむ” ことに なっています。
つまり ”時間” というものは・・・
私たちの ”苦しみの原因” と なっていることが 理解されるのです。
そして その ”現実” においては・・・
”人間” を ”超越” している ”神々” といえども・・・
その ”時間による苦しみ” からは 逃れられないようです。
”神々” とは 私たちと 同じように・・・
”変化” して ”苦悩する” ということが・・・
かつての 原始仏典スッタニパータの 注釈のなかでも 述べられていました。(※)
つまり この宇宙の中では・・・
”時間” に 支配されて ”苦しむ” というのは・・・
”生物” としての ”人間” や・・・
私たちが 知っている ”神々” だけで あるようです。
それゆえに 私たちは この宇宙の中で ”人間” を 超えて・・・
さらには ”神々” も 超えることが 必要なのです。
それは どういう意味か? といえば・・・
私たちは ”人間の認識レベル” を ”超える” ような・・・
”未知の存在” へ ”シフトする” ことが 必要なのです。
詩経の表現にも ありますように・・・
私たちが ”時間” に ”制約・支配される” ことは・・・
”妄想分別” という ”愚かな考え方で判断する” という意味になり・・・
それは 文字通り ”愚かしい行動” なのです。
現代人が ”時間” に ”縛られる生活” を していることも・・・
”時間” によって ”老朽化する” ”衰える” という 現象も・・・
私たちは それらを ある意味 ”常識” として 考えていますが・・・
そんな ”人間の常識” としての・・・
”既存の知識” に ”支配される” ことが・・・
この宇宙の中では ”愚かしい” と 考えられるのです。
そして 私たちが ”既存” ではない・・・
”未知の存在” を 知るための ”ヒント” になるのが・・・
私たちが すでに知っている ”原子・素粒子” であると 考えられます。(※)
それは ”私たちの肉体” を 構成する ”基本要素” でも ありますが・・・
それは この宇宙の中で ”不滅の存在” であると 考えられ・・・
それ自体は ”永遠” に ”安定した存在” であると 考えられるからです。
そこには・・・
”過去” も ”現在” も ”未来” という 概念がない・・・
”異次元の概念” によって 成立している 世界であることが 考えられます。
そこは 私たちが 知りうる ”知識” や ”常識” も・・・
まったく ”無意味” に なってしまうような・・・
”完全” なる ”安定の世界” が 存在していることが 考えられます。
それが ブッダが 説いていた・・・
いわゆる ”ニルヴァーナ(涅槃寂静)” であることが 考えられます。
しかし ”原子・素粒子” とは・・・
もともとは そのような ”安定した存在” であっても・・・
さまざまな ”縁(えん)” に よって ”結びつく” ことによって・・・
私たち ”人間” のような ”不安定な存在” が 発生することがあります。
それが ”不安定な次元” としての・・・
現在の 私たちが 置かれている ”人間の次元” なのです。
つまり 私たちは そんな ”人間の次元” を ”超越” している・・・
この宇宙の中での ”未知の次元” への ”勇気ある旅立ち” が・・・
私たちの 今後の人生で 必要になると 考えられます。
これが ”ブッダの教え” によって 明らかにされる・・・
私たち 人間が ”進むべき道” であると 考えられるのです。
そして その中で・・・
私たちは ”罪悪” を ”洗い落とす” ことが 必要であると 説かれています。
しかし それは ”そう簡単なことではない” と 思われる方も 多いでしょう。
それは 私たちの ”過去の罪” や ”過去の悪事” というものは・・・
決して ”取り消す” ことは できないからです。
それによって 私たちは ”どうしようもない苦しみ” に 責められることになります。
人によっては そのことで ”絶望” することになり・・・
挙句の果てには ”自殺” してしまう人も あるわけです。
しかし 私たちは 今後の人生で・・・
”同じ罪” や ”同じ悪事” を ”繰り返さない” ことは 可能です。
そして ”過去の罪” や ”過去の悪事” を さまざまな形で・・・
”償う(つぐなう)” ことも 可能です。
それが ”罪や悪事” を ”洗い落とす” ことになると 考えられます。
それこそが ”罪深い” 私たちにとっての・・・
新たな ”スタートライン” と なりうるのであり・・・
私たちにとっての ”再スタート” は ”いつでも可能” であると 考えられます。
それは 決して ”死後の来世” での ”再スタート” を 待たずとも・・・
”現世の今” でも 十分に 可能です。
それは ”宇宙全体” に おいては・・・
”過去” や ”現在” や ”未来” という ”時間の概念” は・・・
まったく ”問題にはならない” と 考えられるからです。
その ”認識” が 私たちにとって 極めて 重要であると 考えられます。
つまり 人生には ”遅すぎる” ということは ないのです。
では 人間としての ”罪” や ”悪” は なぜ 生じるのか?
その ”根源的な原因” は 私たち自身の ”欲望” であると 考えられます。
それによって 私たちは 結局 ”苦しむ” ことに なっています。
そして 私たちが その ”欲望” に ”支配” されて・・・
自分自身が ”人間” に ”執着する” ことは・・・
私たちを ”人間の苦しみ” に ”縛りつける” ことを 意味します。
そして 私たちは そこから ”脱出” することが ”不可能” になり・・・
それによって ”永遠に苦しむ” ことを 招くことになるのです。
ブッダが なぜ 私たちに ”欲望を捨てよ” と 説いていたのか?
さらには なぜ ”執着を捨てよ” と 説いていたのか?
その理由は この内容によって 明らかになると 考えられます。
この 宇宙の中では ”時間” という 考え方は・・・
”人間だけ” の ”特殊な考え方” であることが 考えられます。
そして 私たちは そのような ”特殊な考え方” に ”支配” されることで・・・
さまざまな ”苦しみ” を 味わっているのかも 知れません。
仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダ は・・・
人類に対して そのことも 教えていたようです。
つまり 私たちは この ”宇宙全体” に ”目を向ける” ことによって・・・
私たちを 苦しめている ”根本的な原因” も 理解することによって・・・
その ”苦しみの状態” から ”脱出する” ことを 目指すべきのようです。
この地球上には ”人間としての一生” を 送る中で・・・
”時計” を 使用しない ”原始的な部族” も 数多く 存在しています。
私たち 日本人も そんな人々の生活を 深く 考察することで・・・
人生において ”本当に 大切なことは 何か?” について 考えるべきのようです。
皆様も この機会に・・・
”時間” が ”意味するもの” について・・・
改めて 深く お考えになってみては いかがでしょうか?
(※) ”時間” を ”超越する” ことについて 考えました・・・
”原子・素粒子は 時空を超える” の 記事は こちらから お読みください
原始仏典で ”神々も 変化して 苦悩する” という内容が 示されていた・・・
”ブッダの教え 安楽とは?” の 記事は こちらから お読みください