~原始仏典スッタニパータ 第2章 第9節 いかなる戒めを より~
(弟子たちが 尋ねた)
324 ”いかなる戒め(あらゆる 戒律)” を 守り・・・
”いかなる行い(あらゆる 正しい行動)” を なし・・・
”いかなる行為(あらゆる 正しい行為)” を ”増大” するならば・・・
人は 正しく ”安立(安定)” し・・・
また ”最上の目的(ニルヴァーナに 到達すること)” を 達し得るのか?
(ブッダが 答えた)
325 ”長上(年長者)” を うやまい 妬(ねた)むな。
”諸々の師(師匠)” に まみえる(会う)のに ”適当な時” を 知り・・・
”法(理法)” に 関する 話を聞くのに ”正しい時期” を 知れ。
”見事に説かれたこと(真理)” を 謹んで聞け。
326 ”強情” を なくして ”謙虚な態度” で 時に応じて 師のもとへ行け。
”ものごと” と ”真理” と ”自制” と・・・
”清らかなる行い” を 心に思い かつ ”実行” せよ。
327 ”真理” を 楽しみ ”真理” を 喜び ”真理” に 安住し・・・
”真理の定め” を 知り ”真理をそこなう言葉” を 口にするな。
見事に説かれた ”真実(真理)” に 基づいて 暮らせ。
328 ”笑い ダジャレ 悲泣 嫌悪 いつわり 詐欺 貪欲・・・
高慢(生まれながらの地位) 激昂 粗暴な言葉 汚濁 耽溺” を 捨てて・・・
”驕り(おごり)” を 除去し・・・
”しっかりとした(安定した)態度” で 行え(実践せよ)。
329 ”見事に説かれた言葉(真理の言葉)” は・・・
聞いて それを 理解すれば ”精” となる。
(”精” とは ”目的が成就する” の意味)
聞いて知った 言葉(真理の言葉)は・・・
”精神の安定” を 修すると(おさめると) ”精” になる。
人が ”性急” であって ”ふらついている” ならば・・・
かれは ”智慧” も ”学識” も 増大することがない。
340 聖者の 説きたもうた ”真理” を 喜んでいる人々は・・・
言葉でも 心でも 行いでも ”最上” である。
かれは ”平安” と ”柔和” と ”瞑想” のうちに ”安立” し・・・
学識と 智慧(ちえ)との ”真髄” に 達したのである。
~以上が 第2章 第9節 いかなる戒めを の 内容でした。~
こんにちは
前回の記事では ”彼岸(ひがん)” について 考えました。
そして 私たちが ”彼岸へ渡る” ためには どうすればよいのか?
そこには 自分自身で ”彼岸” まで ”渡るための努力” が 必要です。
そして ”渡るための努力” とは ブッダが 示した ”戒律(かいりつ)” を・・・
この一生で ”死ぬまで 実践する” ことである・・・という内容を ご紹介しました。
では ブッダが 示した さまざまな ”戒律” というものが・・・
”何を 意味するのか?” について 考えますと・・・
そこに 私たちのような ”世俗に生きる人間” にも 適応される・・・
極めて ”重要な生き方” が 見えてくることになります。
まず 弟子たちが ブッダに対して・・・
”最上の目的” である ”彼岸(ニルヴァーナ)” に 渡るためには・・・
”いかなる(あらゆる) 正しい戒律・行動・行為” を する上で・・・
”ほかに 何が 必要であるか?” を 問いかけています。
そして ブッダは 弟子たちに対して・・・
”真理の教え” を ”聞く者としての態度” を 説いています。
そこにあるのは 一貫した ”謙虚な姿勢” です。
つまり 私たちは 誰に対しても ”謙虚な姿勢” が 不可欠なのです。
そして その ”師(師匠)” というのは・・・
私たちを 取り巻いている ”自然界” も 含まれるのです。
”真理” を 探究するとは・・・
この世界の ”すべてに共通するもの” を 探求することを 意味します。(※)
つまり 私たちを 取り巻いている ”自然界” も 考えることが 不可欠です。
それゆえに 私たちは ”自然界から学ぶ” ことが 必要であり・・・
”自然界” も 私たちにとっての ”師匠” なのです。
もしも 私たちが ”自然界” を ”ないがしろ” にすれば・・・
その時点で 私たちは ”真理” から ”遠ざかる” ことになり・・・
その結果 ”彼岸(ニルヴァーナ)” へは 到達できなくなります。
それが 何を 意味するのか?
それは 私たちが ”人間世界” の ”激流” に 流され続けることになり・・・
つまり 私たちは ずっと ”苦しみ続ける宿命” を 背負うことに なるのです。
また ”強情” を なくして ”謙虚な態度” が 必要という 意味は・・・
私たちが ”素直に学ぶ” という態度を 意味しています。
それは ”自我を出さない” という態度を 意味するのであり・・・
つまり ”自分の欲望” を ”出さない” ことが 重要です。
この意味は この ”人間世界” での さまざまな ”トラブルの原因” は・・・
まさに ”自分の欲望” なのであり・・・
私たちは そのような ”低次元” に とどまっていては いけないのです。
さらには・・・
”笑い ダジャレ 悲泣 嫌悪 いつわり 詐欺 貪欲(欲望のむさぼり)・・・
高慢(生まれながらの地位) 激昂 粗暴な言葉 汚濁 耽溺” を 捨てよ・・・
ということが 示されています。
では これらに ”共通するもの” とは 何なのか?
それは 私たちの 人間としての ”心の乱れ” を 意味しているようです。
しかし 私たちにとっての ”笑い” というものは・・・
”精神衛生上” でも とても 有意義なものとして 考えられています。
つまり この ”世知辛い社会” においては・・・
”笑い” こそが ”日常での救い” とも 考えられるわけです。
それは 私たちのような ”世俗に生きる者” には 不可欠であるとも 考えられます。
でも 私たちが ”笑い” に 全面的に 傾倒すると どうなるのか?
そこには ”笑っている時間” が 発生するのと 同じように・・・
その後 ”笑えない時間” が 発生することになります。
私たちは 一生 ”笑い続ける” ことは 不可能です。
そして その ”対極” ともいえる ”笑えない時間” が 発生すると・・・
そこで 私たちは ”負の感情” ともいえる ”落ち込み” を 感じることになります。
つまり そのような ”感情の浮き沈み” が まさに ”大敵” なのです。
ブッダは 私たち 人類に・・・
”何が 重要なのか?” を 説いていたのか。
それは 私たちが この世界で 常に ”安立した状態” を 維持すること・・・
常に ”安定した状態” を 維持し続けなさい と 説いていたのです。
そこでは ”喜び” や ”悲しみ” などの ”感情の浮き沈み” も 大敵です。
つまり 私たちは ”心の乱れ” を 常に 起こしては いけないのです。
それが 私たちが ”彼岸(ニルヴァーナ)” に 到達するための 条件なのです。
そして 私たちが 常に ”安定した状態” を ”維持するための方法” というのが・・・
ブッダが示した さまざまな ”戒律” を ”実践” することなのです。
逆の言い方でも 繰り返しますと ”戒律” というのは・・・
自分自身の ”心の安定” を ”実現するための方法” なのです。
私たちは ここでも そのことを しっかりと 理解する 必要があります。
No.329の詩経にも 説かれていますが・・・
”精神の安定” を 修すると(おさめると) ”精” になる。
そして ”精” とは ”目的が成就する” の 意味です。
人が ”性急” であって ”ふらついている” ならば・・・
かれは ”智慧” も ”学識” も 増大することがない。・・・
つまり 私たちは 今後も どのようなことが 起ころうとも・・・
”急ぐ” ことも 必要ではなく・・・
”ふらついて” ”動揺する” ことも あってはなりません。
それらは 私たちを ”彼岸(ニルヴァーナ)” ではなく・・・
その反対の ”地獄世界” へ 導くものであると 考えるべきのようです。
私たちにとっての ”幸福” とは 何か?
それは いつも ”安定した状態” が 実現されることのようです。
”一時的” に ”笑いの時間” や ”快楽の時間” が 訪れたとしても・・・
それらは 決して ”永遠に続く” ことは ありません。
そして 自分自身で ”心が乱れる” または ”動揺する” ことは・・・
結果的に 自分自身を ”不幸” へ 導くことに なってしまうようです。
皆様も ここで ”ブッダの教え” を 深く お考えになり・・・
ご自身にとっての ”一時的な幸福” ではない・・・
”永遠の幸福” について お考えになってみては いかがでしょうか?
(※) ブッダによる ”幸福論” についての 内容である・・・
”ブッダの教え 最上の幸福 とは?” の 記事は こちらから お読み下さい
そして ”真理” についての 内容である・・・
”真理 とは 何か?” の 記事は こちらから お読み下さい
(弟子たちが 尋ねた)
324 ”いかなる戒め(あらゆる 戒律)” を 守り・・・
”いかなる行い(あらゆる 正しい行動)” を なし・・・
”いかなる行為(あらゆる 正しい行為)” を ”増大” するならば・・・
人は 正しく ”安立(安定)” し・・・
また ”最上の目的(ニルヴァーナに 到達すること)” を 達し得るのか?
(ブッダが 答えた)
325 ”長上(年長者)” を うやまい 妬(ねた)むな。
”諸々の師(師匠)” に まみえる(会う)のに ”適当な時” を 知り・・・
”法(理法)” に 関する 話を聞くのに ”正しい時期” を 知れ。
”見事に説かれたこと(真理)” を 謹んで聞け。
326 ”強情” を なくして ”謙虚な態度” で 時に応じて 師のもとへ行け。
”ものごと” と ”真理” と ”自制” と・・・
”清らかなる行い” を 心に思い かつ ”実行” せよ。
327 ”真理” を 楽しみ ”真理” を 喜び ”真理” に 安住し・・・
”真理の定め” を 知り ”真理をそこなう言葉” を 口にするな。
見事に説かれた ”真実(真理)” に 基づいて 暮らせ。
328 ”笑い ダジャレ 悲泣 嫌悪 いつわり 詐欺 貪欲・・・
高慢(生まれながらの地位) 激昂 粗暴な言葉 汚濁 耽溺” を 捨てて・・・
”驕り(おごり)” を 除去し・・・
”しっかりとした(安定した)態度” で 行え(実践せよ)。
329 ”見事に説かれた言葉(真理の言葉)” は・・・
聞いて それを 理解すれば ”精” となる。
(”精” とは ”目的が成就する” の意味)
聞いて知った 言葉(真理の言葉)は・・・
”精神の安定” を 修すると(おさめると) ”精” になる。
人が ”性急” であって ”ふらついている” ならば・・・
かれは ”智慧” も ”学識” も 増大することがない。
340 聖者の 説きたもうた ”真理” を 喜んでいる人々は・・・
言葉でも 心でも 行いでも ”最上” である。
かれは ”平安” と ”柔和” と ”瞑想” のうちに ”安立” し・・・
学識と 智慧(ちえ)との ”真髄” に 達したのである。
~以上が 第2章 第9節 いかなる戒めを の 内容でした。~
こんにちは
前回の記事では ”彼岸(ひがん)” について 考えました。
そして 私たちが ”彼岸へ渡る” ためには どうすればよいのか?
そこには 自分自身で ”彼岸” まで ”渡るための努力” が 必要です。
そして ”渡るための努力” とは ブッダが 示した ”戒律(かいりつ)” を・・・
この一生で ”死ぬまで 実践する” ことである・・・という内容を ご紹介しました。
では ブッダが 示した さまざまな ”戒律” というものが・・・
”何を 意味するのか?” について 考えますと・・・
そこに 私たちのような ”世俗に生きる人間” にも 適応される・・・
極めて ”重要な生き方” が 見えてくることになります。
まず 弟子たちが ブッダに対して・・・
”最上の目的” である ”彼岸(ニルヴァーナ)” に 渡るためには・・・
”いかなる(あらゆる) 正しい戒律・行動・行為” を する上で・・・
”ほかに 何が 必要であるか?” を 問いかけています。
そして ブッダは 弟子たちに対して・・・
”真理の教え” を ”聞く者としての態度” を 説いています。
そこにあるのは 一貫した ”謙虚な姿勢” です。
つまり 私たちは 誰に対しても ”謙虚な姿勢” が 不可欠なのです。
そして その ”師(師匠)” というのは・・・
私たちを 取り巻いている ”自然界” も 含まれるのです。
”真理” を 探究するとは・・・
この世界の ”すべてに共通するもの” を 探求することを 意味します。(※)
つまり 私たちを 取り巻いている ”自然界” も 考えることが 不可欠です。
それゆえに 私たちは ”自然界から学ぶ” ことが 必要であり・・・
”自然界” も 私たちにとっての ”師匠” なのです。
もしも 私たちが ”自然界” を ”ないがしろ” にすれば・・・
その時点で 私たちは ”真理” から ”遠ざかる” ことになり・・・
その結果 ”彼岸(ニルヴァーナ)” へは 到達できなくなります。
それが 何を 意味するのか?
それは 私たちが ”人間世界” の ”激流” に 流され続けることになり・・・
つまり 私たちは ずっと ”苦しみ続ける宿命” を 背負うことに なるのです。
また ”強情” を なくして ”謙虚な態度” が 必要という 意味は・・・
私たちが ”素直に学ぶ” という態度を 意味しています。
それは ”自我を出さない” という態度を 意味するのであり・・・
つまり ”自分の欲望” を ”出さない” ことが 重要です。
この意味は この ”人間世界” での さまざまな ”トラブルの原因” は・・・
まさに ”自分の欲望” なのであり・・・
私たちは そのような ”低次元” に とどまっていては いけないのです。
さらには・・・
”笑い ダジャレ 悲泣 嫌悪 いつわり 詐欺 貪欲(欲望のむさぼり)・・・
高慢(生まれながらの地位) 激昂 粗暴な言葉 汚濁 耽溺” を 捨てよ・・・
ということが 示されています。
では これらに ”共通するもの” とは 何なのか?
それは 私たちの 人間としての ”心の乱れ” を 意味しているようです。
しかし 私たちにとっての ”笑い” というものは・・・
”精神衛生上” でも とても 有意義なものとして 考えられています。
つまり この ”世知辛い社会” においては・・・
”笑い” こそが ”日常での救い” とも 考えられるわけです。
それは 私たちのような ”世俗に生きる者” には 不可欠であるとも 考えられます。
でも 私たちが ”笑い” に 全面的に 傾倒すると どうなるのか?
そこには ”笑っている時間” が 発生するのと 同じように・・・
その後 ”笑えない時間” が 発生することになります。
私たちは 一生 ”笑い続ける” ことは 不可能です。
そして その ”対極” ともいえる ”笑えない時間” が 発生すると・・・
そこで 私たちは ”負の感情” ともいえる ”落ち込み” を 感じることになります。
つまり そのような ”感情の浮き沈み” が まさに ”大敵” なのです。
ブッダは 私たち 人類に・・・
”何が 重要なのか?” を 説いていたのか。
それは 私たちが この世界で 常に ”安立した状態” を 維持すること・・・
常に ”安定した状態” を 維持し続けなさい と 説いていたのです。
そこでは ”喜び” や ”悲しみ” などの ”感情の浮き沈み” も 大敵です。
つまり 私たちは ”心の乱れ” を 常に 起こしては いけないのです。
それが 私たちが ”彼岸(ニルヴァーナ)” に 到達するための 条件なのです。
そして 私たちが 常に ”安定した状態” を ”維持するための方法” というのが・・・
ブッダが示した さまざまな ”戒律” を ”実践” することなのです。
逆の言い方でも 繰り返しますと ”戒律” というのは・・・
自分自身の ”心の安定” を ”実現するための方法” なのです。
私たちは ここでも そのことを しっかりと 理解する 必要があります。
No.329の詩経にも 説かれていますが・・・
”精神の安定” を 修すると(おさめると) ”精” になる。
そして ”精” とは ”目的が成就する” の 意味です。
人が ”性急” であって ”ふらついている” ならば・・・
かれは ”智慧” も ”学識” も 増大することがない。・・・
つまり 私たちは 今後も どのようなことが 起ころうとも・・・
”急ぐ” ことも 必要ではなく・・・
”ふらついて” ”動揺する” ことも あってはなりません。
それらは 私たちを ”彼岸(ニルヴァーナ)” ではなく・・・
その反対の ”地獄世界” へ 導くものであると 考えるべきのようです。
私たちにとっての ”幸福” とは 何か?
それは いつも ”安定した状態” が 実現されることのようです。
”一時的” に ”笑いの時間” や ”快楽の時間” が 訪れたとしても・・・
それらは 決して ”永遠に続く” ことは ありません。
そして 自分自身で ”心が乱れる” または ”動揺する” ことは・・・
結果的に 自分自身を ”不幸” へ 導くことに なってしまうようです。
皆様も ここで ”ブッダの教え” を 深く お考えになり・・・
ご自身にとっての ”一時的な幸福” ではない・・・
”永遠の幸福” について お考えになってみては いかがでしょうか?
(※) ブッダによる ”幸福論” についての 内容である・・・
”ブッダの教え 最上の幸福 とは?” の 記事は こちらから お読み下さい
そして ”真理” についての 内容である・・・
”真理 とは 何か?” の 記事は こちらから お読み下さい